鏡
――あの鏡は、私を呼んでいる
企画展終了までの三日間、美月は毎日のように郷土資料館に通った。
一応は、他の展示物を一通り眺めるふりをしてから鏡の前へと向かう。
何度見ても飽きることはなかった。文様の線刻のうねりは、見るたびに違う動きを見せているように感じられ、むしろ日を追うごとに鏡の引力は増していった。
その日も、美月は閉館間際まで展示室に入っていた。
他に見学者はなく、鏡の収められたガラスケースは、職員のいる受付けからも死角になっている。
美月は鏡の前に立ち尽くし、無意識に、指先でガラスケースをなぞっていた。
ただ眺めるだけでは足りない。触れたい。手に入れたい。
けれど、鏡は展示品だ。郷土資料館の大事な収蔵品であり、勝手に持ち出すどころか触れることさえできない。
それでも、美月の胸の奥に巣食った渇望は日に日に膨らみ、抑えがたい衝動にまでなっていた。
企画展も今日で終わりだ。このままでは、鏡は、誰かも分からない持ち主の元に戻ってしまう。持ち主の事を聞いてみようか。いや、個人情報など教えてくれるわけがない。そもそも受け付けにいる職員が所有者のことを知っているとも思えない。
ぐるぐると巡る焦りは耐えがたいものになっていた。
――もう二度と会えなくなる
ほとんど意識しないままに右手が伸びた。
帆布性のトートバッグを肩から下ろし、その中を探った。
触れた柄を握り、バッグから引き出す。
美月は家から持ってきた金槌を振り上げた。
鏡と自分の間を隔てる、邪魔なガラスに向かって、それを振り下ろそうとした――その瞬間
カチリ。
微かな金属音がした。
振り上げた手を止め、何の音だろうと首をかしげた。そこでふと我に返り、バッグに戻して慌てて振り返る。しかし室内には彼女以外は誰もいない。目をガラスケースに戻したその瞬間、今度はカランと何か小さな金属が地面に落ちたような音がした。
音の出どころが分かった。
展示ケースの裏側――引き戸に取り付けられたスライドロックが、いつのまにか外れて落ちていた。
そればかりか、ケースの扉がわずかに開いている。
美月は息を呑んだ。
けれど、それを不審に思うよりも、鏡に触れることができる喜びが全てを覆いつくした。
**
それからの記憶は、少し曖昧だった。
気づけば、鏡を入れたトートバッグを胸に抱いて家に帰っていた。
どうやって手に入れたのかも覚えていない。それはただ自分の手の中にあった。
冷たく重いのに、熱く脈打っているようにも感じられる、確かに存在する鏡。
文様をなぞると、鏡の中で何かが微かに震えた気がした。
それは、鏡の喜びだ。
そっと鏡を抱きしめ、裏面の文様に頬を寄せた。
鼓動が高鳴り、それとともに呼吸も忘れるような悦びが胸の奥に満ちていく。
――ようやく触れられた
刻まれた、松に、岩山に、流水文様に、鶴に、亀に、口づけをしていく。
ずっと前から、こうなることは決まっていたのだ。
「わたし、行くよ」
美月はそう呟いた。
鏡の奥で、水音のような囁きが返ってきた気がした。




