『矢隈の鎮守と産土神』
モリサマのことだけでなく、町に関するさまざまな話を聞いているうちに、いつの間にか、お茶会の枠とされていた三時間が過ぎていた。
「では、今日はこの辺にしましょうか」
北川がぱんと手を打って言う。
「もうそんな時間か」
辰巳が応じる。
「今日は藤原さんが来てくれて話も盛り上がったわね。名残惜しいけど、また来週の水曜日にね」
北川はテーブルの上のカップを片付け始めた。美月もそれを手伝う。
「あの、来週も来てもいいですか?」
「もちろんよ。あなたの都合さえよければ、いつでも来てちょうだいね」
お茶会が行われた部屋を出てエントランスに出ると、「郷土資料館」という文字がふと目に入った。なんとなく気になって足を止めた美月に、後ろから来た北川が声を掛ける。
「美月さん、この建物の一階は、ほとんど郷土資料館になってるのよ。とはいっても、古い壺が展示されてるぐらいなんだけどね」
「郷土資料館ですか。私、初めて見ます」
「あ、でもたしか今は企画展をやってるはずよ。展示もいつもよりは少し多いかも」
「企画展って、どういうものですか?」
「テーマを決めて、期間限定で資料の展示をするそうよ。ここで今やってるのは『矢隈の鎮守と産土神』というテーマだったかしら。私は見てないんだけど、学者の先生が矢隈の神社やお寺、それに鎮守の森のことを、けっこう熱心に調べていろいろ展示してるみたい。普段よりは見ごたえがあるんじゃないかしら。藤原さん、モリサマに興味があるみたいだから、何か面白い展示があるかもしれないわね」
「それはぜひ、見ていきます」
受付に見学の旨を伝えると、資料館の紹介リーフレットと、企画展示の説明が書かれた用紙を渡された。正面には小さな展示室があり、中にガラスケースが置かれているのが見える。手書きの簡素な立て看板には、正面の部屋が常設展示、右手の廊下を進んだ先に郷土資料室、左手の部屋が企画展示室であることが示されていた。
とりあえず常設展示をのぞいてみたが、部屋はさほど広くはない。北川の言ったとおり、土器類がガラスケース内に収められているほかは、農具や民具などが展示されている程度だった。それでも、糸を紡ぐための糸車などは、実際に動くところを見てみたいなと美月は思った。
モリサマについての資料があるとすれば、企画展示の方だろう。そう思い、常設展示はざっと見学するにとどめて、左手の部屋へと移る。
企画展示室も、やはり広いとは言えない空間だった。入ってすぐの壁には『矢隈の鎮守と産土神』と題された解説文のパネルが掲げられている。 そのほかの壁やパーテーションにも、写真を多用したパネル展示がいくつか掲示されており、古文書や地域の古地図、古そうな漆器などがガラスケースに収められて展示されている。
『矢隈の鎮守と産土神』というタイトルの下には、企画展の挨拶文が記されていた。それは、入り口でもらった用紙にも印刷されていたものだが、そちらにはまだ目を通していなかった。美月はパネルの文字を読み進める。
■■
矢隈市のほとんどの土地は、市の西にある矢隈山と東にある八田丘陵に挟まれた谷地にあります。現在市内には12の町がありますが、それぞれがかつては独立した集落でした(合併などで消滅した集落もあります)。 人々が信仰する対象は集落ごとに少しずつ異なり、それを祀るための施設もまた多様です。 しかし、当然ながら共通する部分もあり、そのひとつが今回の企画展で取り上げる「鎮守の森」です。
■■
──鎮守の森……モリサマ。
鎮守の森という言葉は聞いたことがあったが、実際にどういったものを指すのかを美月は知らなかった。しかしどうやらモリサマとも関係がありそうだと思い、食い入るように続きを読む。
■■
「鎮守の森」は、一般的には神社の背後に広がる森のことを指します。 しかし鎮守という言葉にフォーカスすると、それは幾つかの意味を持ちます。鎮守神といえばその土地を守護する地主神のことであり、転じてその神を祀る社=神社のことを意味します。 また寺院に付属して建てられる神社のことを鎮守社と呼びます(ちなみに神社に付属して建てられる寺のことは神宮寺といいます)。 総じて鎮守とは、集落などを守護する神霊が宿る場として定義できるといえるでしょう。これは、神が宿るとされる、あるいは神そのものとされる山や森林、滝や巨石などの自然物――いわゆる「神奈備」を、集落内に取り込んだもので、いわば人工神奈備といってもよいでしょう。 鎮守の森は、地域ごとに異なる呼び名や信仰形態をもって受け継がれてきました。 矢隈市内には、こうした「鎮守の森」が大小合わせて20ヶ所以上あり、それぞれに地元の人々の手によって守られてきた歴史があります。
また、神社や祠とともに伝えられる「産土神」は、その土地に生まれた者を生涯にわたって守るとされる神格です。これは鎮守神・地主神と、氏神(その一族を守護する祖先神)が融合した概念と考えられます。 産土神は、神社が統合や廃止されていく過程にあっても、個別の集落で大切に祀られ続けている例が見られます。
本企画展では、こうした矢隈地域の鎮守と産土信仰の多様性に注目し、各地区に伝わる祭祀、神社の変遷、伝承、そして失われつつある信仰のかたちについて、写真・文献・口承記録を通して紹介しています。 小さな展示ではありますが、この地に生きた人々の想いや、自然と共にあった暮らしの一端に触れていただければ幸いです。
■■
パネルの文字を読み終えた美月は、展示物へと目を向けた。 挨拶文の内容を完全に理解できたとは思えなかったが、それでも六守谷のモリサマについての資料があるかもしれないという期待が高まっていた。
展示は地域ごとに区分けされているようで、掲示されたパネルの中に「六守谷町」の文字を見つけると、美月は迷わずそこへ足を向けた。
ガラスケースの一角に、銅鏡が展示されていた。 他にも古地図や漆器などが並べられていたが、美月の目はまっすぐにその鏡へと引き寄せられた。
テレビなどで見たことのある、古墳から出土するような銅鏡とは少し違っていて、柄のような部分が付いている。「和鏡」と呼ばれるものだと、解説文に書かれていた。
美月はガラスケースぎりぎりに顔を近づけて、仔細に観察する。 食い入るようにその解説文を読んだ。
■■
蓬莱文様柄鏡(六守谷町)
江戸後期~明治初期
六守谷町・個人蔵
本資料は、六守谷町の旧家にて保存されている柄付きの和鏡である。青銅ではなく、銅を主成分に、錫および鉛を加え、さらにごく微量の砒素を混ぜた合金を高温で溶解し、鋳型に流し込んで作られたものと考えられる。
裏面には、二羽の鶴と亀、松と流水、岩山が配置された、おめでたい蓬莱文様が表現されている。江戸時代の婚礼調度の鏡には、蓬莱文様が多く用いられていた。
六守谷町には、かつてモリサマと呼ばれる六つの鎮守の森が存在し、それぞれの森ごとに年中行事として小規模な祭祀が行われていた。そのうちの一つ、「シズメのモリサマ」では、神田にその年の最初の田植えをする際に、「鎮め女(しずめめ)」と呼ばれる娘を嫁に出す儀式が行われていたとされる。
本鏡は、その祭祀において娘とともにシズメのモリサマに奉納される婚礼調度として用いられたものと伝えられており、この鏡をシズメのモリサマにある鏡池に沈めることで婚礼の儀式としたと考えられている。
明治以降、こうした祭祀は急速に廃れ、この鏡も長らく村家の蔵に秘蔵されていたが、本企画展のためにご厚意によりお貸しいただいた。
■■
美月は、解説パネルの中の一文――「この鏡をシズメのモリサマにある鏡池に沈めることで婚礼の儀式とした」――を、繰り返すように心の中でなぞった。
奉納される婚礼調度。そうも書かれている。要するに、神様に嫁ぐときの嫁入り道具なのだ。けれども、それらの文言には、ひんやりとした不穏さが首筋をなぞるような感覚があった。それでも、美月の視線は再びガラスケースの中の鏡へと吸い寄せられた。
裏面に刻まれた蓬莱文様という図案は、本来めでたいもののはずだ。だが、流水や岩山を表現している曲線が、じっと見ているとうねうねと動き出すような錯覚を覚える。クチバシを寄せ合う二羽の鶴も、それを見上げる亀も、吉祥の図案というよりは、淫靡な行為の暗喩のように感じられる。
――本当にこれが嫁入り道具なの?
それは疑念というよりも、戸惑いだった。
神に嫁ぐ――その行為が、神聖なものではなく、とても具体的で生々しさをもったものに感じられた。
「しずめめ」と呼ばれる風習は、ただの儀式であるはずだ。池に鏡を沈めたことで、神様と結婚をしたことにする。では、その娘はその後、普通の人間の男性と結婚することはできるのか? あるいは、生涯独身を貫かねばならない巫女のような存在になるのか?
それでも、鏡が不快だというわけではない。
不快どころか、むしろ目を離すことができないほどの引力を放っていた。
美月は我知らず、恍惚とした表情を浮かべながら、視線で何度も図案の曲線をなぞっていた。
ガラス越しに見るだけではなく、直接見たい――いや、直接この手で触れたい。
食い入るように鏡を見つめているうちに、閉館の時間が近づいていた。
お茶会の後だったため、もともと滞在できる時間は限られていたのだ。
引かれる後ろ髪を振りほどくような心持ちで、美月はガラスケースの前を離れた。
退館のため受付の前を通りかかったとき、声を掛けられた。
「……あれ、もしかして藤原か?」
声の主は受付の中にいた男性だった。
そちらを見ると、短髪で精悍な顔立ち。濃紺のスーツ姿だが、ジャケットのボタンは外されており、ノーネクタイ。どことなく見覚えのある風貌だった。
「えっと……高梨くん?」
印象はかなり変わっていたが、中学の頃の同級生だ。
地元なので、知り合いに会うこともあるだろうと思っていた。
これまで他のクラスメイトに会わなかったことが、むしろこの町に残っている者の少なさを物語っているように感じられた。
「こんな小さな資料館に見学者が来るのも珍しいと思ったけど、それが藤原だとはな。こういうのに興味あるの?」
「そういうわけでもないんだけど……どんな感じなのか、ちょっと見てみようかなって」
鏡に興味を持ったことは伏せておこうと思った。
明確な理由があるわけではないが、鏡に惹かれていることがなぜか恥ずかしく、軽々しく他人に話すべきではないような気がした。
「ふーん。まあ、企画展もあと三日で終わるし。普段はもっと展示しょぼいから、今のうちに見ておくのもいいかもな」
高梨は軽い口調でそう言ったが、どこか探るような視線をこちらに向けていた。
「高梨くんは、この資料館に勤めてるの?」
美月は居心地の悪さを覚え、話題を変えるように問いかけた。
「ああ、いや。ここの常駐の人たちが、今日はみんなして風邪ひいちゃってさ。急遽、応援で呼ばれたんだよ。普段は市役所で働いてる」
「そうなんだ、市役所の職員さんなんだ」
「うん。こっち戻ってきてるんなら、一度飯でも食いに行こうよ」
高梨は屈託のない笑顔でそう言った。
断るのも礼儀を欠くように思えて、美月は曖昧に頷いた。
「そうだね。また、ミーコとかよっちゃんも呼んで、同窓会みたいなのをしてもいいかもね」
「とりあえず連絡先だけでも交換しておこうか」
高梨がそう言ったので、あまり気乗りはしなかったが、美月はLINEの連絡先を交換した。
だが、郷土資料館を出たときにはもう、さっき見た鏡のことばかりが脳裏に浮かび、高梨のことは、頭からきれいに消えていた。




