お茶会
その日から、美月には“声”が聞こえるようになった。
遠い異国の言葉のように、声が語る言葉の意味は分からない。
しかしモリサマの跡地を歩き、地面に落ちた影を見るたびに、葉擦れの音とともに語りかけてくる声があった。
足を止めると、そこに誰かが立っているように感じる。
姿は見えない。けれど、確かにそこにいるとわかるのだった。
「……誰?」
尋ねると、それに応じるように風が吹いた。
細い笛のような音を残し、そこにはないはずの茂みがざわめく。
葉が擦れる音は、やがて囁きに変わっていく。
── よく もどってきたね
声がそう言っているような気がした。目の奥がじんわりと熱くなった。理由はわからない。ただ、懐かしいと感じた。
泣きたくなるほど、懐かしくて、優しかった。
子どもの頃、マルツカのモリサマの前で祖母と一緒に手を合わせたことを思い出す。
祖母と一緒なら、あの森も怖くはなかった。
家に戻って、モリサマに供えたのと同じアブラゲメシを食べた記憶が、その味とともに蘇ってくる。
「……私は、何を忘れてたんだろう」
葉擦れの言葉は意味が分からないうえに、ひどく断片的だ。温かくはあるが、何を語りかけてきているのかをくみ取ることは簡単ではなかった。
その答えを探すために、会社に通う時間さえ惜しいと感じるようになっていった。
有給休暇では足りず、欠勤を繰り返すようになっていたため、辞職はあっさりと受け入れられた。
美月が面倒を見ていた後輩だけが、目に涙を浮かべて惜しんでくれた。
「あなたにも、仕事より大切なものが見つかるといいね」と、美月は彼女をなだめた。
六守谷の実家に戻った美月は、あらゆる場所に足を運び、人の話を聞いた。
新しい家々が建ち並んではいるが、そこに住むのは、他所から越してきた人たちばかりではない。以前からの住人も多く残っていた。
自分が何を探しているのかもわからないまま、モリサマのことを覚えているお年寄りたちの話を聞こうと決めた。
かつて町役場だった建物が、今は地域の老人たちのためのコミュニティセンターになっていた。
そこでは毎週お茶会が開かれており、美月は参加させてもらうことにした。
コミュニティセンターにあてがわれた部屋は、思いのほか広々としていた。
足を踏み入れた瞬間、ふわりと紅茶の香りが美月を包んだ。
合板の会議用テーブルとビニール張りの椅子が整然と並び、壁には手作りの貼り絵や編み物、竹細工のインテリアが飾られている。
天井からぶら下がった折り紙のくす玉が、時折窓から入るそよ風に揺れていた。
「あの、お電話させていただいた……」
「藤原さんやろ? よう来てくれたねぇ。まあまあ、座りぃ」
戸口で声をかけると、満面の笑みを浮かべた女性が美月を室内へと誘った。
北川と名乗ったその女性は、町内で長年民生委員を務めてきたという。小柄ながら、声には張りがある。
「すごく良い匂いですね」
思わずそう言うと、北川は頷いた。
「紅茶の匂いやね。ティーバッグやのうて、リーフティで淹れてるんよ。里見さんが凝り性なんやわ」
そう言って、紅茶を淹れている恰幅の良い女性を示す。
「ゆっくりしていってね」
里見と紹介されたその女性も、笑顔で応じた。
とても良い場所だな、と美月は思った。
テーブルにはティーポットのほか、個包装のチョコ菓子や焼き菓子を盛った皿が並んでいる。
それらを手に取りながら、皆それぞれの席に腰を下ろしていった。
紅茶の入ったカップは、小川と里見が手分けして配っていく。
「今日はお若い方が参加してくれてますよ」
北川が皆に声をかけた。
「藤原といいます。どうぞよろしくお願いします」
各テーブルで談笑していた人々が一斉に振り返る。どの顔にも、温かな歓迎の笑みが浮かんでいた。
「お若い方が来てるから、北川さんの妹さんかと思ってたわ」
白髪の男性が冗談めかして言うと、どっと笑いが起きた。
「あら、辰巳さん、嬉しいこと言うてくれるわね。でも、そういうのは奥様がいらっしゃらんとこでお願いね」
北川が返すと、また笑いが起きた。どうやらその男性は夫婦で参加しているらしい。
世話役の北川を含めて、参加者は二十名。
ニュータウンの集まりにしては多い方ではないだろうか。隣町から来ているという男性も何人かいた。
年齢層は七十代から八十代が中心で、皆が顔見知りのようで、どこか家族のような安心感が漂っていた。
「うちが子どもの頃はなぁ、ここ、町役場でな。手続きで怒鳴ってるおじいがおってん」
「はは、あんたの旦那も家で毎日怒鳴っとるやんか」
「いやもう、ほんまやで。年中怒っとるからな。昨日なんか、額にメガネかけたまま、メガネがない言うて怒っとったわ」
和やかな笑いが広がる。この部屋には、時がゆっくりと流れている。
最初はバラバラにいくつかあった話の輪が、美月というゲストの登場によって、いつの間にかひとつの大きな輪になっていた。
話がひと段落したところで、美月はそっと尋ねてみた。
「あの……昔、モリサマって呼ばれてた茂みのこと、覚えてらっしゃる方はいませんか?」
その瞬間、場の空気がわずかに変わった。
笑い声がすっと遠ざかり、皆の視線が美月に集まる。
けれど、そのどの目にも咎めるような色はない。むしろ懐かしむように、優しげに目元が和らいでいた。
「モリサマなぁ。今の子はもう、知らんのちゃうかと思うとったわ」
先ほど辰巳と呼ばれていた白髪の男性が、ぽつりと口を開いた。
「昔は、六つあったんや。森いうても、ちっちゃい藪みたいなもんやけどな。ここのもんは皆、モリサマの前では、頭を下げて通ったもんや」
赤い毛糸のベストを着た女性が、しわしわの口元をゆっくり動かして言った。
「モリサマがなくなる前から、もうオモリゴトもほとんどやらんようになってしもたな。それでもマルツカのモリサマだけは、守りさんの藤原さんが熱心にお供えしとったけどな」
ニット帽をかぶった白髭の男性が、遠い目をして言う。
「あれ、藤原さんて……。お嬢さん、もしかして藤原さんのお孫さん?」
北川が目をぱちくりさせて訊いた。
「はい。祖母をご存知なんですか?」
美月が頷くと、白髭の男性の目が嬉しそうに細くなった。
「おお、そうなんか。おばあちゃん、ようやってくれとったよ。たまにようけ炊いたゆうて、アブラゲメシおすそ分けしてくれたことあったけど、うまかったなあ」
「藤原さんは、モリサマの声が聞こえるって、昔から言うとったわ」
毛糸ベストの女性が続けた。
「聞こえる……?」
美月が反射的に聞き返すと、ゆっくりとした頷きが返ってくる。
「耳をすましたら、森のざわめきの中に声が聞こえるんやって。うちはよう分からんかったけどな」
「けど、うちも小さい頃、一度だけ聞いたことあるで」
今度は編み物をしていた女性が口を挟んだ。
「夜も更けて、虫の声が消えてしもたあと、モリサマの木がゴシャゴシャってしゃべるねん。意味は分からんけど、確かに言葉やった。変な話やろ?」
「……いいえ。私も、聞いたことあります」
思わずそう言っていた。
すると皆は驚くわけでもなく、どこか嬉しそうに頷いた。
「藤原さんのお孫さんやったら、そら聞こえるわな」
「もしかしたら、呼ばれてるんかもしれへんな」
「モリサマは、娘さんを呼ぶんよ。寂しがりやからな。話しかけて、呼んで、それで声が届いた子を大事に想うんやて。うちのおばあちゃんが言うてた話やけどな」
老人たちの語る言葉たちに、美月は胸の奥で何かが大きく動くのを感じていた。
モリサマは、寂しがり。
だから、自分を呼んだ。
忘れないでほしい。置き去りにしないでほしい――そんな思いを。
「お嬢さん、よう帰ってきてくれたね」
そう言って、里見がそっと紅茶のおかわりをカップに注いでくれた。
湯気の立つカップを包んだ両手が温まるのと同時に、胸の奥にもじんわりと温かさが広がっていくのを感じた。
── ここに、戻ってきて、本当によかった。




