【読者投稿】「きゅう、きゅう」と鳴る音の正体(K子さん・主婦)③
一生ここで暮らすつもりで買った家でしたが、もう、限界でした。
せめて、あの音が聞こえてこない場所で眠りたい。
夫は「気にしすぎだよ」と笑っていたけれど、私の様子が尋常じゃないことには気づいていたようで、ついには引っ越しに同意してくれました。
そんなある日の午後。
その日も私は、あの音から逃げるようにして家を出ました。
近くの小さな公園のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていました。
そのときでした。背後から、ゆっくりと杖をついて歩いてきた老齢の男性が、私の横に腰を下ろしました。
痩せて小柄な体に、くたびれた帽子。
顔のしわは深く、目は何を見ているのかも分からないほど、どこかぼんやりしていました。
その表情を見て、私はふと「認知症の方かもしれない」と思いました。
昔亡くなった祖母も、認知症を患っていたとき、同じような顔をしていたのです。
「自分の家は、分かるのかしら……」
そう思いながら、声をかけるべきかどうか迷っていると、老人がぽつりと呟きました。
「……また、吊ったんか……あの娘さん」
心臓が止まりそうになりました。
その言葉が私に向けられたものなのか、ただの独り言だったのか、それすらも分かりません。
けれど、その声は、まるで私の体験を知っているかのようでした。
「毎年のことや……カンジョ縄、かけへんから、ああなるんや」
「……何かご存知なんですか?」
私は、思わず訊き返していました。
老人は遠くを見つめたまま、一人で語り続けました。
「カンジョのモリサマ、あれはなあ……忌みの神さんや。昔は正月になると、守りが神さまの道を塞ぐために縄をかけとった。そうせんと、モリサマが外に出てきてしまいはるよってな……」
その言葉の意味はよく分かりませんでした。
けれど、聞き逃してはいけないと、本能が告げていました。
私は全神経を耳に集中させました。
「あの娘さんが首括ったんは、勧請縄かける前の晩やった。村のしきたりを破ったゆうて、家族ごと村八分にされてた。とうとうそれに耐えきれへんようになったんやろうなあ……。自分で命を絶ったんやろうって、皆にそう噂されとった」
私は何も言えず、ただ聞いていました。
「それからや……カンジョのモリサマで、たまに吊った娘さんが見えるようになったんは」
老人の声は、淡々としていました。あまりにも穏やかで、逆に背筋が凍るようでした。
この人は、自分が体験したわけではないのでしょう。きっと、ずっと昔に聞かされた話を、ただそのまま、繰り返しているだけ。そんな感じがしました。
そこで突然、老人が急にこちらを向きました。そして私の目を真っすぐに見て言いました。
「あんたも、見たんやろ……あの子のこと。まだおるもんな……あそこに」
私は、声を震わせながらも、思わず尋ねました。
「どうしてそんなことを私に話すんですか」
でも、老人は私の声を聞いてすらいないようでした。
ぼんやりと微笑み、「もう、帰らなあかんなあ」と呟くと、よたよたと杖をつきながら、どこかへ歩いていってしまいました。
その背中を、私は動けないまま、ただ見送りました。
家に戻ると、すぐに引っ越し業者を探し始めました。
もう一日だって我慢できないと思いました。ウィークリーマンションにでもなんでも、あの軋む音が聞こえてこない場所に、とっとと引っ越そうと思いました。
誰にも信じてもらえなくても、向かいの家のあたりには、かつていわくのある森があったというのです。
そう思えば、すべてがつながっているように感じました。
県外の分譲マンションに引っ越した今も、ときどきあの音が、どこからともなく聞こえてくるような気がします。
きゅう……
きゅう……
そのたびに、私はガラス扉の向こうに揺れていた白い影を思い出してしまうのです。




