向かいの家
「あの席です」
店主は窓際の席を指さした。
午前の透明な光が落ちて、テーブルの上のメニューと紙ナプキンに青い影を落としている。隼人には、まるで誰かを待っているような席に見えた。
店主は続ける。
「美月ちゃんは、いつもあの席でした。お店が暇な時には、お仕事の話なんかも聞いてたので、いろいろと悩んでたんだとは思いますが、あそこに座って窓の外を眺めている彼女は、とても幸せそうに見えました」
断りを入れてから、隼人はその席に座ってみた。
美月が見ていた景色を見ようと、窓の外に目を向ける。
もしかしたら自分にも森が見えるのではないか――そんな思いもあったが、やはりそんなものは見えず、ただ道路を挟んだ向かい側の家の庭が見えるだけだった。
芝生が黒ずみ、生気の感じられない庭だった。
窓の外を見つめながら、隼人はカメラを取り出し、構えた。
シャッターを切る。
しかし、カメラの液晶画面にも、そこにあるはずのものだけが映っていた。
「何か気になりますか?」
店主の声に、隼人はハッとする。
「いえ……ただ、美月が何を見ていたのか、気になって」
森の影が写った写真のことは、店主には話していなかった。
少し迷って、そのことは言わないでおくことにした。
自分の店の外壁に、あるはずのない森の影が写っているだなんて言われて、気分の良い者などいないだろう。
「そのお向かいの家、もう住んではれへんやろ」
辰巳が言った。
彼の言う通り、窓にカーテンもなく、人の住んでいる気配は感じられない。
「水はけが極端に悪い土地やったらしく、家の基礎が傾きそうやいうて、引っ越していきはったわ」
「そうなんですね」
隼人は改めて庭を見た。
黒ずんだ芝生が、じっとりと湿って見える気がした。
「この辺りは、ドタとかスネタとか呼ばれるような、水はけの悪い田んぼやってん。ドタは泥の田んぼ、スネタは脛まで埋まってしまうじめじめした田んぼのことや。話してて思い出したんやけど、ここら辺にあった森はドタのモリサマって呼ばれてたわ」
「森があったんですね」
思った通りだ。
写真に写った、そしてこの席に座った美月が見ていた森は目には見えなくともここにあるのだ。
「すっかり面影もないけど、たぶんこの辺やったと思うで。お兄ちゃん、もし森に興味があるんやったら、郷土資料館に行ったら何か資料あるかもしれへんで」
「郷土資料館ですか」
「昔の町役場を改装した建物で、それだけでも見る価値あるんちゃうかな」




