森の匂い
「以前は森があったんやけどなあ」
後ろで声がして、店主は慌てて立ち上がった。
隼人が振り返ると、カウンターの端にあるレジのところに、老夫婦が立っているのが目に入った。
「すいません、辰巳さん、お帰りですね」
「ごめんな、葵ちゃん。話してる途中に」
夫婦とも品の良い笑顔を浮かべている。正確な年の頃は分からないが、二人とも白髪が綺麗だった。
常連客のようで、店主の方も親しげな笑みを浮かべている。
「あの、森があったんですか?」
隼人が訊いた。
中学生の頃の記憶は曖昧だ。茂みや木立ならあちらこちらにあったが、森と呼べるようなものがあっただろうか。
「森いうても、そんなに大きいもんやないで。たぶん一反もないようなとこの方が多かったんちゃうかな」
突然話しかけられたにもかかわらず、辰巳と呼ばれた男性は戸惑うことなく答えた。
夫人は隣でにこにこしながら頷いている。
「いくつかあったんですか?」
「六守谷は、その名前のとおり六つの森があったんや。どれも村の守り神やった。そやけど、恐ろしいとこでもあって、年寄りには、枝とか葉っぱを持ち帰ったら祟られるて言われとったもんや」
「六つ、ですか。どこにあったのか分かりますか?」
「それはもう分からんなあ。六守谷もすっかり様変わりしてしもうたわ」
辰巳は、遠くを見るような目をした。
「ワシが若い頃は、たしかこの辺りにも森があったはずや。開発が進んでしもて、今じゃ影も形もないけどな」
「でもねえ」と、そこで夫人が口を開く。
「ときどき、ふっと木の匂いがするねんよ。森の匂いかな」
「森の匂い……?」
「そうやな。土や葉っぱが濡れたような、少し湿った匂い。昔、嗅いだことのある匂いや」
夫人の言葉に、辰巳が静かに何度も頷いた。
「まあ、気のせいかもしれんけどな。でも、森がない場所で森の匂いがするちゅうのも、変な話しやな」
隼人は思わず、手元のカメラに目を落とした。
写真に映る、ありえないはずの影。
店主が語った、美月の「森が守ってくれる」という言葉。
森とは一体何なのだろうか。
「あの、その森には、どういった神様が祀られていたんですか?」
隼人の問いに、老人は少し首を傾げた。
「神様が祀られているというよりも、森自体が神様みたいなもんやったなあ。みんな“もりさま”と呼んでたわ」
「森が神様……」
森が――
モリサマが――
守ってくれる――
じわりと、隼人の胸の奥底に不快な感情がこみ上げてきた。
まるで美月が他の男性に心を開いていたかのように受け止めている自分がいた。
「あの……」
今度は、店主に向き直って隼人は口を開く。
「美月が最後にこの店に来た日、どの席に座ってたんですか? どの席から窓の外を指さしたんですか?」




