タイトル未定2025/01/19 20:55
長い黒髪の女性が涙を流しながら、花びらがひらひらと舞う一本の桜の木をじっと見つめていた。
その女性の膝元には静かに眠る男性が横たわっていた。女性は愛しそうにその男性の頬を撫でながら
『想い寄せれば 桜舞い散る 君をさがして 見上げた 暮れていく 茜色の空』
と唄った。
来世でも私はあなたを愛しますと想いを込めて。
慶和国朱華の都、そこを治めている陰陽師一族・華僑院家。
その昔、初代当主は慶和国で暴れていた八大妖怪を八ヶ所に分けて封印した。
その功績を称えられて慶和国皇帝より華僑院の姓を賜り、そして慶和国全体を妖怪から守る妖怪退治の任、封印の強化・守護を務めるように皇帝からの命を受けたのだった。
安泰だと思われていた華僑院家では、現在とある深刻な問題に悩まされている。
それは後継者問題だ。
華僑院家では、性別関係なく当主の座に就くことができるのだが、その座に就けるような優秀な者がいないのだ。
当主は華僑院の名を名乗れる者。陰陽術を嗜んでいる者。
そして本家の人間、重役たち全員の合意が必要なのだ。
第一候補として名が挙げられるのは、先代当主の長女である華僑院 珱だ。
齢は十九。才色兼備という言葉が歩いているかと思うほどの優秀で美しい女性である。
珱は幼くして強力な術も仕えた才能のある陰陽師である。その才能に見合い、最年少で八つの封印のうち一番強く封印されている第一の封印の守護者に最年少で就任している。
しかし、珱は人の上に立つことが苦手だと言い張り、ずっと当主の座に就くことを断り続けている。
だが現在、当主代行を務めている珱の祖母・華僑院 珊瑚も諦めずに、珱に当主の座に就くことを何度も言い続けているのだが、珱は決して首を縦に振らない。
他に有力な候補もいないため、珊瑚は長期戦で珱の説得をしている。
珱が務めている封印の守護者とは、慶和国で悪事を働いていた八大妖怪を初代華僑院家当主が倒して封印をした。だが、他の妖怪たちに解かれないために、代々守護者をつけて封印を強化し、護ってきた。
現在の守護者は次の通りだ。
清澄の巫女 志月 心春
第八の封印 雲雀丘 守護者欠番 代行:椎葉 京一郎
第七の封印 七宝古道 守護者 早乙女 秋篠
第六の封印 六花の森 守護者 吉野 かぐや
第五の封印 松風渓谷 守護者 霧崎 拓磨
第四の封印 紅藍湖 守護者 城戸 時雨
第三の封印 鞍馬寺 守護者 羽生田 昴
第二の封印 いろはの滝 守護者欠番 代行:華僑院 玲
第一の封印…華僑山 守護者:華僑院 珱
現在の守護者は六名。
第二の封印・いろはの滝と第八の封印・雲雀丘の守護者が欠番なので、代行として第二の封印を珱の叔父である華僑院 玲が、軍官総督を務めている椎葉 京一郎第八の封印の守護者代行を務めている。
華僑院家の封印の守護者は基本的に本家の人間が務めることになっているのだが、人員不足もあり、分家や華僑院家に弟子入りした者の中から選ばれることもあり、本家以外の人間が守護者に就任した者は守護者の任の際は「華僑院」の姓を名乗ることが許されている。
さらに第一の封印から第三の封印までは華僑院家直系の人間が就任することが決まっているのだが、とある事情で第三の封印の守護者は華僑院家分家出身の羽生田 昴が守護者として正式に就任している。
守護者になると毎日、同じ時刻に禊を行うことになっている。
この禊によって封印が保たれて、大抵の妖怪は封印を解くことはできない。
禊にはかなりの霊力を使うため、禊後の任務に支障が出ては意味がないため、力がある陰陽師が守護者に就任することになっている。
封印の社にて、珱が禊のために着替えながら窓の外に視線を向けると、清澄の巫女である志月 心春が護衛と共に第一の封印の社にやって来たのが見えた。
清澄の巫女とは守護者と共に禊に行き、共に禊を行うのだ。場所は七日ごとに変わる。
今週は第一の封印だが、また七日経ったら今度は第二の封印・いろは滝と変わる。
「珱様、準備はお済でしょうか?」
「えぇ…」
部屋の外から少年の声が聞こえてきて、珱は返事をしながら扉を開けた。
扉の向こうにいたのは、清澄の巫女の護衛長を務めている少年・天童 陵羽だ。巫女の護衛は手練れの陰陽師が務めることが多いので、少年が護衛長を務めているなど珍しい。だが、少年の手や体格を見てみると、手練れだと一目で判る。
「珱様、参りましょうか」
「えぇ、宜しく頼むわ」
ふんわりと笑った心春と共に珱は社の奥にある華僑院家直系の人間と重役しか知らない滝へ向かった。
華僑院家が護っている封印はどこも同じように造られており、滝つぼの中に祠があるので、まず守護者はそこへ行き、霊力を込める。この祠が封印の本体であり、妖怪がここに眠っているのだ。
封印の結界が強化されると奥にある滝に向かい、滝の水に数分間打たれる。この水に打たれることで、封印のある土地に張られている結界が強化されるのだ。
これが守護者の行う禊の流れだ。
この後に清澄の巫女が滝の水を清めるのだ。巫女の禊は巫女にしか伝えられないので、珱は一切知らない。
陰陽師と巫女の関係をひと言で表すと陰と陽のようなものだ。だからお互いの禊に干渉することはできない。
禊を終えた珱は、社に戻り濡れた襦袢から桜柄の可愛らしい上衣と紅い袴に着替えて、用意されていた手拭いで髪を拭く。
珱は桜の花が舞う季節に生まれたので『さくら』と名付けられたのだ。そのため本人も桜をこよなく愛している。持っている着物は桜柄や、桜色のものが多い。着るものだけではなく、身の回りにあるものも桜にまつわるものを集めている。
「珱様、お支度は済みましたでしょうか」
「えぇ…」
珱の護衛官に声を掛けられて、二人の護衛官に付き添われながら本家内に戻った。
第一の封印は華僑院本家にあるが、その他の封印は朱華の都内に造られているため、俥で行き来する。
私室に戻るため、本殿の廊下を歩いていると、反対側から、叔父である華僑院 玲がやってきた。
「叔父さま、お戻りになられたのですね」
玲は、珱の母親の弟で、齢は三十九。現在空席である第二の封印の守護者代行を務めており、その他にも本家内の事務や本家に弟子入りをした幼い子どもたちの面倒を見ている。
「やぁ珱ちゃん、たった今戻ってきたんだ」
玲の髪はかすかに濡れている。本人の言う通り、ついさっき禊から戻ってきたのだろう。
二人が話していると使用人がやって来た。
「お話し中、申し訳ありません。玲様に中岡 滋様という方からお手紙が届いております」
「ありがとうございます」
使用人から手紙を受け取ると、玲はすぐに手紙の差出人を確認した。差出人に思い当たる人物がいないのか疑問に思いながら封を切った。
そして手紙を読むと、玲の顔は見る見るうちに険しくなっていった。
「叔父さま?」
「理…」
数日後、華僑院家にとある噂が広まった。
“玲の息子が華僑院家に戻ってくる。”
玲は十九歳のときに、当時侍女として働いていた水穂と結婚して、その次の年に息子を授かった。その名は華僑院 理と言い、珱にとっては従兄にあたる。
しかし理が五歳になった頃、突然水穂は理を連れて華僑院家を去っていってしまった。
祖母・珊瑚は華僑院家の血を引く子を取り戻そうとした。珊瑚にとっては長男・玲の実の子どもだ。手放したくはない。
だが翌年、正式に玲と水穂は離縁して、完全に水穂の消息が掴めなくなった。玲自身も捜す気はなかったので、珊瑚は渋々諦め、理は出奔として扱われた。
そして先日、玲の元に届いた手紙によると、水穂は離縁後に中岡 滋と言う男性と再婚していた。
数ヶ月前に水穂は病死して、中岡滋氏と血の繋がりがない理は実の父親の元に戻りたいと言い出したので、その連絡の手紙だった。
無論、玲にも華僑院家にも断る理由はなかったので、理を受け入れることにしたのだ。五歳のときに華僑院家を出たとはいえ、華僑院家の血を引いている人間を受け入れないわけがない。
「ふぅ…」
しかし心配事がないとは言い切れなかった。
五歳のときから十四年間、一度も会っていない息子にどう接していいのか不安だ。
そんなことを考えていると玲の部屋の戸がコンコンっとなり、音がした方を向くとそこには使用人の中村 ひな乃の姿があった。
「玲様、ご子息のお部屋は玲様の隣で宜しいでしょうか?」
「はい、しばらくは僕の部屋の隣でお願いします。準備ありがとうございます、ひな乃さん」
ひな乃には理が華僑院家に戻ってくる前に彼が過ごす部屋を用意してもらっているのだ。
華僑院家直系の人間にはそれぞれ個室が用意されており、空き部屋も多数ある。
理にはしばらく父の部屋の隣で過ごし、慣れてきたら好きな部屋に移動してもらおうと考えているのだ。
玲の確認が取れてひな乃はついでにと言わんばかりに玲の洗濯物を箪笥の中に片付け始めた。
「そういえば玲様、昴様がお探しでしたよ。今夜、守護者の会合を開きたいとのことですよ」
「あ…忘れていた…昴君はどこにいたの?」
「道場にいらっしゃいましたよ。まだお稽古の時間ですからいらっしゃると思いますよ」
「判った。ありがとう」
そう言って、書物を読んでいた玲は立ち上がり、道場に向かった。
華僑院家にいる人間は陰陽師として陰陽術の他にも体術、剣術などの修行をすることになっている。そしてそれは守護者の人間も例外ではない。
守護者になったからと言って修行が免除されるわけではない。むしろ、守護者になったからこそ、日々の鍛錬を欠かすことができなくなるのだ。
道場を覗くとそこには、道着姿の珱と年の近そうな青年の姿があり、最近弟子入りした子どもたちに指導をしていた。
珱と一緒にいる青年は第三の封印の守護者を務めている羽生田 昴である。
珱と昴は道場の入り口にいる玲の姿にすぐに気が付き駆け寄った。
「叔父さま、どうなさったのですか?」
「いや、昴君が探していたって聞いて」
「そんな…こちらから伺いましたのに…」
「いや良いんだ、ちょうど時間も空いていたし」
「もう半刻ほどで稽古が終わりますので、そしたら玲様の部屋に赴きます」
「うん、判った…あ、でもこの後に定例会議だから昴君と話す時間がないかもしれない…やっぱり夜でも構わないかい?」
「えぇ、大丈夫です…珱、後片付けは俺がやっておくから定例会議に行く準備しろよ」
「出たくないけど、出ないと後がうるさいから準備するわ…」
「お前は昔からひと言多いんだよ…」
昴は、華僑院家の分家出身で生まれてすぐに本家に弟子入りしたため、珱とは幼なじみのような関係だ。そのためお互いに何でも話せる間柄だ。珱も昴には心を許しているので、何でも話せる数少ない相手だ。
悪態をつきながら珱は道着から着替えるために一旦自分の部屋に向かった。
定例会議とは華僑院家直系の人間のみで週に一度開く会議である。もちろん、華僑院家の血を引く珱も出席しなければならない。
本家の人間が集まる会議は、珱にとって苦痛そのものである。
着物に着替えた珱が大広間に到着すると、すでに珱の実母・華僑院 碧や五歳下の妹の華僑院 珠は座って会議が始めるのを待っていた。
定例会議は当主代行を務めている祖母・珊瑚を中心にして、それぞれの座席は決まっている。
珱の席は母と妹の間だ。
本来ならば母親である碧に挨拶すべきだが、珱は声を掛けずに自身の席に着いた。
しばらくして、全員が揃ったことを確認すると玲が会議の進行を始めた。
「最初の議題は、私の息子・理が本家に戻ってくることになりました。それに伴い、理が戻ってきた日に宴を開くことになりましたので、皆様にはぜひ参加をお願い致します」
歓迎の宴…おそらく本家の人間も守護者もその他、本家に関わる重役も参加することになるだろう。そんなことを想像しながら息が詰まりそうだと珱は思った。
その他に簡単な業務連絡を済ませて今日の定例会議は終了した。
この場からさっさと去りたい珱は定例会議が終わると同時に立ち上がったが、隣に座っていた母・碧に呼び止められた。
「珱、宴のときにみすぼらしい恰好をするんじゃないわよ」
「まぁお母様、そんなことを言っては駄目ですよ。お姉様はお忙しい方なのですから着物を仕立てる時間もないのですよ」
鋭い目つきで睨んでくる母・碧、そしてクスクスと笑いながら珱を見る妹・珠。
血の繋がった家族だが、珱は二人と険悪な関係なのだ。
長女として厳しく育てられた珱と甘やかされて育った次女の珠。
そんな育ち方をした珠は修行の適齢期になっても危険なことはしたくないと嫌がり、碧がそれを擁護した。
碧は、今は亡き先代当主の妻であるため、教育方針について横から口出しができる人物がいないのだ。
しかも碧は幼い珱に育児放棄と呼べるほど、邪険に扱っていた。
珠には何でも買い与えていたが、珱には無理難題を課させ、達せないとひと月近く無視をする。そんな幼少期を送っていた。
冷たく姉妹差別をする母親に育てられても、珱がまともに育ったのは玲や乳母たちの存在が大きい。
大らかな性格の玲。幼くして家庭崩壊をしている珱に父親のように接していた。乳母たちも珱に愛情を持って接していたため、珱はどこに出ても恥ずかしくない立派な淑女と成長したのだ。
そんな二人と顔を合わせるのが苦痛で、珱は本家の人間が集まる会議があるとため息しか出ないのだ。
「…判っていますよ。もう宜しいですか。珠の言う通り私は忙しいので」
「なっ⁉」
「失礼します」
最後に悪態をついて珱は大広間を後にした。
いつまでも変わらない二人にため息しか出ない。
本家の人間だというのに陰陽師としても、本家内の運営にも携わっていない。そんな二人が豪遊生活をしているのを一族の人間はもちろん、他の人もいい顔はしていない。
自分の部屋に戻った珱は「はぁ…」とため息をつきながら文机に向かって座った。
血の繋がった家族だが碧や珠には極力関わりたくない。反りが合わないのだ。
そんなことを考えていると部屋の外から声を掛けられた。
「珱様、入ってもよろしいですか?」
「いいわよ」
許可を取ってから襖を開けたのは、使用人のひな乃だ。そのそばには洗濯物があった。どうやら洗濯物を片付けに来たようだ。
手際よく洗濯物を片付けているひな乃に珱は思い出したように声を掛けた。
「そうだ。ひな乃、悪いけど呉服屋を呼んでもらってもいいかしら?」
「畏まりました。来月にある宴用ですか?」
「えぇ…お母さまにみすぼらしい恰好はするなと言われたから…」
「承知いたしました。連絡しておきます」
ひな乃は笑顔でそう言って、珱の部屋を出た。
面倒臭いが後で碧や珠、珊瑚に文句を言われる方が面倒臭いので文句を言わずに従うしかない。
翌日、禊を終えた珱は、大広間に向かって本殿の廊下を歩いていた。
今日は昨日とは違い、足取りが幾分か軽い。その理由は、守護者のみの集まりである会合に出席するからだ。
親族のみの集まりである定例会議ではなく、慣れ親しんだ守護者の集まりだ。足取りが軽くなるのも当然だ。
大広間に着くと、幼なじみの昴たち守護者がすでに集まって会合の準備を着々と進めている。第四の封印の守護者の城戸 時雨と第六の封印の守護者の吉野 かぐやの二人が全員分のお茶の準備をしていた。
「秋篠、その包みは?」
お茶が入った湯飲みをそれぞれの席に置いていると、第七の封印の守護者の早乙女 秋篠の傍らに大きな包みが置かれているのに気が付いた。
「あぁ、今日の禊の帰りに町に寄って来たから今日のお茶菓子として買ってきたんだ」
「へぇ…上手そうだな」
そう言って秋篠は包みを開けた。中身は何なのか覗き込むとそこにはまだ温かいホカホカのどら焼きが入っていた。
すると秋篠の隣にいた第五の封印の守護者の霧崎 拓磨が目を輝かせながらどら焼きを見つめていた。拓磨は無口で何を考えているのかよく判らないのだが、守護者全員が拓磨は甘いもの好きだと一目で判る。
「やぁ、美味しそうな匂いだね」
一同が声のした方を向くと第二の封印の守護者代行を務めている玲が大広間にやって来た。
時雨とかぐやが淹れたお茶と秋篠が用意したどら焼きを目の前にして、会合が始まった。
今日の会合では、欠番となっている第二の封印と第八の封印の守護者の選定を行うことになっている。守護者も当主同様に誰でもいいわけではない。当主が認める実力がなければ就任するどころか選定の候補者としても名前は挙げられない。
そして今日は玲が選出した陰陽師から守護者たちの意見を取り入れてさらに絞るのだ。玲は作ってきた資料を珱たち守護者に配り、それぞれ目を通し始めた。
流石、玲が選定しただけあって、手練れの陰陽師たちの名が連なっている。最後の頁を捲ると、そこには『天童 陵羽』と書かれていた。
彼は先日、巫女の心春の護衛を務めていた少年だ。巫女の護衛長が務まるほどなのだから相当な実力者なのだろう。
「みんな、だいたい目を通したかな」
玲がそう言うと各々頷いた。
玲の提案としては、今回の候補者の中から一人を選び、第八の封印の守護者に就任してもらい、昴を第三の封印の守護者から第二の封印の守護者に代わり、第三の封印は時雨に兼任してもらい、その補助を玲が行うという内容だ。
「昴君、時雨君、どうかな?一番変わるのは君たちなんだけど…」
「玲様、俺はあくまでも分家の人間です。第三の封印も結構きついのに…それが第二の封印となると流石に…」
「…そうだよね」
「叔父さま、正式に第二の封印の守護者に就任していただけませんか?」
曇った表情をしている玲に珱がはっきりとそう言った。
玲は今年三十九歳で、一般的には陰陽師を続けている年齢だが、玲は守護者も陰陽師も二十代後半の頃に引退してしまった。
しかし人員不足なので、守護者の代行を務めることはしても正式な守護者となることはずっと拒否し続けている。
「珱ちゃん、ごめんね。それだけは受け入れられない」
「そうですか…」
結局、今回だけの会合では候補者の中から選出はできないので、候補者の実力を見てみて判断することが決まった。
こうして会合が終わろうとしたそのとき、玲が
「そうだ。最後に一つだけ、二週間後に僕の息子の理が戻ってくるから宴を開くので、是非守護者のみんなも出席してください」
守護者の面々に言った。みんな「判りました」と言って了承をして今回の会合は幕を閉じた。
数週間後。
ついに明後日、玲の息子が華僑院家に戻ってくる。そのため、本家は慌ただしかった。しかし、その父である玲はどこか上の空のようだった。
ある程度準備を終えた玲は自身の部屋の縁側に座ってボーっと空を見上げていた。
気になった珱は玲に声を掛けていた。
「叔父さま?どうなさったのですか」
「珱ちゃん…いや、理が明後日には戻ってくると思ってね…」
「そ、そうですね。でも私は理さんのこと、あまり覚えていなくて…」
「まぁ本家を出たのは五歳の頃だから仕方ないよ」
珱と理は同い年。理が出て行ったのは珱も五歳のときだ。記憶があやふやでも仕方ないことだろう。
「でも叔父さま、嬉しそうと言うよりは悲しそう…いえ、辛そうですね」
「え、そうかな…」
「何だか帰ってきて欲しくないみたいです…」
「そんなことないよ…大切な僕の息子だからね」
「ならいいのですが…」
珱と玲が話していると、午後三時を知らせる鐘が鳴り響いた。すると玲は立ち上がった。
「それじゃあ僕は子どもたちのところへ行かないといけないから」
「はい…」
玲が言う子どもと言うのは、幼くして本家に弟子入りした子どものことだ。
華僑院家には分家の子どもや孤児などが弟子入りして修行と言う名の共同生活を送っているのだ。陰陽師を引退している玲はその子どもの世話を一手に引き受けているのだ。
子どもが好きな玲が生き生きと弟子入りした子どもの面倒を見ていて、愛する妻と息子を失った心を癒しているのだろうと思っていた。
そんなことを考えていると使用人のひな乃が珱の元へやって来た。
「珱様、呉服屋の方がいらっしゃいました」
「判った、すぐに行くわ」
明後日に跡取り候補となる玲の息子が帰ってくるので、珱は着物を新調することにしたのだ。
こう言った宴は定期的に開かれるのだが、今回は本家の人間に関する宴なので、新しい着物を用意することにしたのだ。
珱が贔屓にしている呉服屋から仕立ててもらった着物に袖を通すと、大きさもちょうどよく手触りも良かった。
「珱様、よくお似合いですよ」
着付けを手伝ったひな乃が珱にそう言うと、呉服屋の者も同じように「珱様の美しさが引き立ちます」と誰もが世辞だと判るように言った。
「ありがとう…当日はこれにするわ」
「畏まりました」
珱が仕立ててもらったのは、桜色の生地に薄紅色の桜の花が描かれた着物だ。帯もそれに合わせて仕立ててもらったのだ。
新しい着物を脱ぎ、それをひな乃は衣紋掛けに皺が付かないようにかけた。
「そういえば、珱様。明後日の宴は斑一族の方々も出席なさるそうです」
「…それは本当なの?」
「えぇ…恐らく跡取り候補となる理様を一目見ようと…」
「…そう」
華僑院家直系には、斑一族と呼ばれる者たちがいる。
この一族は珊瑚の従兄・華僑院 斑の子孫なのだが、現在斑一族は華僑院家の政権から離れており、朱華の都の外交を担っている。
現在の斑一族は、斑の息子・華僑院 国靖、その妻・美凪。
そして二人の子ども匡成・瑛介・瑶平の三兄弟、そして三兄弟それぞれの妻である七緒・薫子・紗綾。
匡成・瑛介・瑶平の三兄弟は全員結婚しており、長男匡成には長女・琴織が、次男瑛介には双子の璃佳・瑠佳が、三男瑶平には長女・美玲と長男・瑛の二人の子どももいる。
「無事に終わるといいけど…」
二日後の早朝、玲に頼まれて、理の出迎えに珱も同行した。
理とは同い年だが、五歳の頃から会っていないので、理の顔がぼんやりとしか覚えていない。
理との待ち合わせは、本家がある山のふもとにある華僑院家が管理している神社の入り口だ。入り口には桜の花が咲き乱れていて、花びらがひらひらと舞い散っている。
神社への道を歩いていると、神社の鳥居が見えてきてそこに雰囲気が玲に似ている青年が立っているのが目に入ってきた。
「理…かい?」
「父さん?…久し振り、会いたかったよ」
玲が緊張しながら青年に声を掛けると、青年はニコッと笑って玲に駆け寄った。
やはりこの青年が玲の一人息子である理だ。玲よりも背が高く爽やかな笑顔が第一印象の好青年だと感じられた。
「理、珱ちゃんのことは覚えているかい?お前の従妹の」
「勿論だよ。珱も久し振りだね」
「お久し振りです、理さん」
「二人とも最後に会ったのは五歳以来だけどよく覚えているね」
「正直、私はうろ覚えです」
「…僕はよく覚えているよ。珱はちっとも変わらないね」
「そ、そうですか…?」
珱は違和感を覚えた。
玲の息子と言う先入観があるかもしれないが、何だか理らしくない不思議な雰囲気を持っている。そんな印象だった。
本家に到着して、理と玲は支度があるので、珱は二人と別れて大広間に向かった。
大広間に到着すると、豪華な着物に身を包んだ母・碧と妹・珠が仲良く談笑している。ため息をつきながら、珠の隣の席に座るとフフっという笑い声が珱の耳に届いた。
「何、珠」
「いいえ、随分地味な着物をお選びになりましたね。お姉様」
桜色の生地に薄紅色の桜の花が描かれた着物に鶯色の帯を選んだ珱に対して、珠の着物は金色の菊や芍薬の花柄の赤色の生地で誰が見ても豪華な着物だと判る。しかも珠は着物に合わせた豪華なかんざしで髪を結っている。
「たかが歓迎の宴でそんなに気合を入れなくてもいいんじゃないかしら?」
「あら、わたくしももう十四歳、嫁ぎ先を考える年ですよ。理さんはお姉様と同い年なのでわたくしの相手に宜しいかと思いました」
珠は箱入り状態で育ち、現在も本家に籠り、母と一緒に毎日道楽に興じている。そんな珠に求婚する相手など簡単に現れないだろう。
「ふーん…まぁ好きにしたらいいんじゃないかしら?選ぶのはあくまでも理さんなのだから」
「まぁそうですわね」
珠の今回の目的は理の嫁になることのようだ。珠と理は従兄妹同士であるので、結婚はできる。珱たち共通の祖父母である第二十四代当主・王影と珊瑚も再従兄妹同士で結婚しているので、華僑院家では親族同士の結婚が割と身近にある話である。
(まぁ、近年の医学的な意味で血が近すぎる結婚も問題にされているけど…)
珠とそんな話をしていると現在当主代行を務めている珱の祖母の珊瑚が到着して、迷うことなく自分の席に腰を下ろした。
そしてすぐに高級な袴に身を包んだ理と玲が大広間にやって来た。主役の理は上座の席に座った。
玲の挨拶を始めとして理の歓迎会が開始された。玲に続いて理も爽やかな笑顔で挨拶をした。
「皆様、お久し振りです。今日から改めて父の元へ戻り、再び華僑院の姓を名乗らせていただきたいと思います」
爽やかな笑顔で理がそう言うと、参加者から歓迎の拍手をいただいた。
その後、当主代行である珊瑚や重役たちの挨拶を終えて、本格的に宴が始まった。
珱が一人で食事を楽しんでいると、珱の隣に座っていた珠が立ち上がって理の傍に座った。珠の手にはお酌が握られている。
「理君、初めまして、それともお久し振りですと言った方が宜しいかしら?」
理が本家を出たのは、珠が一歳になる前だ。珠は覚えていないが、その頃に理と会っていた可能性は大いにある。そのためこんな意味深な言い方をしたのだ。
「もしかして、珠ちゃんかい?大きくなったね」
「今年で十四歳になりますからね、どうぞ」
ニコッと笑いながら珠は理の御猪口にお酒を注ごうとした。しかし理は素早く手でお猪口にふたをした。その行為に珠は一瞬驚いた表情をした。
「ごめんね、お酒は苦手なんだ」
「そ、そうなのですね…」
驚いた珠は慌てて徳利を手元に引き戻した。
それをよそに理は珠の装いを上から下へと観察するかのように見た。
「綺麗な着物だね」
「え、えぇ!今日のために新調しましたの」
「…でも着物も帯もかんざしも華やか過ぎでそれぞれの良さを殺している気がする」
「え…」
理の言う通り、珠の身に着けているものは一つ一つすべてが豪華で、傍から見ればごちゃごちゃしているようにも見える。
様子が気になって見ていたが理があっさりとこんなことを言うなんて、信じられなくて開いた口が塞がらなかった。
珠は想像していた理と違ったのと、言われたことが恥ずかしくて顔が赤くなり、衝撃を受けたような表情をしながらフラフラと大人しく自分の席に戻ってきた。
チラっと理の方を見ると玲が横から何かを話しているように見えたので、珠にきつい物言いをしないように言っているのだろう。
歓迎の宴が終わり、出席者はそれぞれ理と玲に挨拶をして退出していった。珱も挨拶をして帰ろうと思ったら、珱以外の守護者たちが先に挨拶をしていた。
守護者たちは、大広間を後にしてそれぞれの部屋に戻ろうと廊下を歩いていると昴が肩をグルグルと回しながら大きなため息をついた。
「あー肩凝った~」
「おいおい昴。こんなところ本家の人間に見られたら…」
時雨が昴にそう言った。時雨は昴同様に分家出身で、幼い頃に本家に弟子入りしたので、珱も昴も親しい間柄である。
「構わないさ…好きで本家にいるわけでもないしな」
「それにしても理様の印象ってもっと穏やかな方だと思っていました…」
前髪を縛って額を出している吉野 かぐやが先ほどの宴の最中の理のことを思い出しながら言った。玲の息子だと聞いていたので、もっと物腰柔らかな好青年だと思っていたかぐや。だが、先ほどの珠とのやり取りを見ている限り、ちょっとそう思えなくなっていた。
「昴君は昔の理様を知っているんじゃない?」
秋篠が昴に向かって言った。分家出身の者はある程度の年齢になると本家に弟子入りすることになるが、現在の守護者の中で最も早く弟子入りしたのは昴だ。しかも昴は珱と幼なじみと呼べるような間柄だ。知っていても不思議ではない。
「まぁ珱と三人で遊んでいた記憶はあるが…そこまで鮮明ではない。しかも本家にいた期間より外にいた期間の方が長いんだぞ。性格だって変わっていたっておかしくないさ」
「まぁそうだろうな…玲様とも一緒に暮らしていたのはわずか五年しかないし」
拓磨が呟くようにそう言った。
ぞろぞろと五人で歩いているとかぐやだけは、女性陰陽師・使用人が暮らす梅枝殿に部屋があるので曲がり角で別れることになった。
夜も遅いので時雨が梅枝殿の入り口まで送っていくと言って二人は昴たちと別れた。
時雨とかぐやは同時期に華僑院へ弟子入りしたので親しく、会合などが長引き遅くなった場合はいつも時雨がかぐやを送っているのだ。
「かぐや、その着物は新しく仕立てたのか?」
「まさか、珱さんのように次々と着物を仕立てられないわよ」
鶯色の生地に毬が控えめに描かれた着物。見た目が新品に見えたので、今日のために仕立てたのかと思っていたが、かぐやが幼い頃、師事していた女性のお下がりの着物を仕立て直したものだった。
守護者になれば一般陰陽師よりも給与も賞与も桁違いだ。
だが、本家の人間には叶わない。朱華の都を治めている華僑院家の血を引いている人間だ。それなりのものを身につけなくてはならないので、自然と値段も張る。
他愛もない話をしているとあっという間に梅枝殿の入り口に到着した。
「時雨、今日もありがとう。おやすみなさい」
「あぁ…おやすみ」
宴が終わり数刻経った頃、お風呂を済ませた珱は自室に向かって廊下を歩いていた。珱は昴たちが理に挨拶をした後すぐに挨拶をして大広間を退出した。その後すぐにひな乃に呼ばれて、お風呂に入った。
夜も遅い、このまま部屋に戻って寝ようか、読み掛けの書物を読んでしまおうか悩みながら歩いていると、目の前から人影が現れた。
よく見ると宴から解放された理だ。向こうも珱の存在に気が付き、微笑んだ。
「理さん…今日はお疲れ様です」
「うん、珱も出席ありがとう…」
「疲れたでしょう、ゆっくり休んでくださいね」
そう言ってこの場から去ろうとしたが、
「…珱に婚約者はいるの?」
「え…?」
労いの言葉を掛けた珱に対して、突然予想もしていなかった質問に珱は驚いた。
それにしても理は珠の媚び売りにも全く靡かなかった理がどうして自分にそう尋ねるのか理解ができない。
「…婚約者はいませんし、私自身結婚するつもりはないです」
「どうして?」
「…それは理さんには関係ないです。失礼します」
珱は理に一礼をして自室に向かって歩いて行った。行ってしまった珱を睨むように理は見つめていた。
珱に求婚した者は何人もいた。
どんなに良い家柄でもどんなに容姿が整っていても珱は頑なに首を縦に振らなかった。
珊瑚に何度も言われたが、珱には結婚というものに興味がないため、結局今日に至るまで婚約者と呼べる人物は生まれなかった。
結局珱は、部屋に戻るなり布団に入って眠りについた。
――十数年前、珠が生まれて数ヶ月が経った。母の碧は珠に付きっきりで子育てをしていてまだ五歳の珱はほったらかしだ。まだまだ母親が恋しい年ごろである珱は一人で遊んでいた。
「…珱、一緒に遊ぼう!」
「うん…!」
目の前に現れた男の子と一緒に珱は夜遅くなるまで遊んだ。
遊ぶことによって珱が感じていた寂しさは薄らいでいった。
しかし一緒に遊んでいた男の子の顔が思い出せなかった。
そんな幸せな日々は突然なくなってしまった。
――二度と男の子は現れることはなかった――悲しい夢だ。
チュン…チュン…雀のさえずりで目を覚ました珱。布団を片付けて袴に着替えて食堂に向かった。
華僑院家での食事は、食堂で摂ることが多い。本家の人間は使用人に頼めば、部屋に食事を持ってきてもらえることになっている。
珱が食堂の端で朝食を摂っていると、御膳を持って昴と秋篠が目の前にやって来た。そして珱の前の座席に座ると「いただきます」と言って食事を摂り始めた。
「相変わらず一人で飯を食ってんのか」
「別に構わないでしょう…」
「たまには碧様や珠様と話したらどうだい?」
「…話すことなんてないわ」
食後のお茶を飲みながら、珱はそう言った。
碧と珠は二人仲良く毎食を共に部屋で食べている。しかし二人に嫌悪感しかない珱は一緒に食事を摂るなんて考えられない。
「お前がそんな仏頂面しているから珠様も碧様も声が掛けられないんじゃないか?」
「生まれつきこの顔よ」
そんな話をしていると、ひな乃が珱の元へ来て、珊瑚が部屋に来るように言っていたと伝えられた。
嫌な予感しかしない。
食べ終えていた珱は食器を片付けて、すぐに珊瑚の部屋に向かった。するとそこには珊瑚と何故か理がいた。珊瑚の許可の元、部屋の中に入り、理の隣に腰を下ろした。
「…それでお祖母さま、お話と言うのは一体何ですか?」
「うむ、理が戻ってきたので、お前には理と婚約してもらおうと思う」
珊瑚に呼ばれた時点で嫌な予感はしていたのだ。
理の昨夜の話。そして珊瑚が簡単に諦めない性格なのは、当主の件で珱は重々承知している。
だが、珱の返事は決まっている。
「お断りします」
「珱、いい加減に…」
「お祖母さまは、私が結婚して上手くいくと思いますか?」
「珱…」
「お祖母さまがそう言うのなら私はいつでもここを出る決心はついております」
そう言って、珱は一礼をして珊瑚の部屋を後にした。続くように理も部屋を出た。
足早に珱は廊下を歩いて、理は慌てて走って珱を追い掛けた。
「珱、待って」
「理さん、申し訳ありませんが昨夜も言った通り私は結婚するつもりはないので、お祖母さまに言ったところで私は承諾しません」
「違う、僕はお祖母様に頼んでいない。あれはお祖母様が勝手に…」
「そうだとしても…私は誰とも結婚しませんから」
そうきっぱり言って、再び珱は足早に歩き出した。理は負けじと珱を追い掛けた。
「でも珱、お祖母様の言うことを覆すことなんてできやしない…言うことを聞いておいた方が…」
「理さん、一つ教えておきます」
「え?」
急にピタッと止まった珱は理の方に振り返り、きっぱり言い放った。
「私が第一の封印の守護者になったのは、本家での発言権が欲しかったからです」
「…え?」
現在、華僑院家内で発言力が最も強いのは当主代行を務めている珊瑚、その息子である玲、そして第一の封印の守護者を務めている珱も本家内の発言力が強い。
それ故、珱は今までに来た縁談話を全て断ることができたのだ。
珱が現在、第一の封印の守護者を嫌がることなく務めているのはこの発言力を自分のものにするためだ。
「だからお祖母さまも私にとっては怖くないのです」
「珱…」
「禊の支度がありますので失礼いたします」
そう言って珱は二度と理の方に振り向かずに行ってしまった。そんな珱に対して理はまた睨むように見つめていた。
――正午、守護者たちはそれぞれ封印のある社にて禊の準備に入っていた。
第六の封印の六花の森で、禊の準備をしているかぐやも襦袢に着替えて禊の支度をしている。
すると――。
…ドコニ…イルン…ダイ…デテ…オイデ…?
と言う不気味な声が聞こえてきた。妖怪かと思い、小窓から辺りを見回したが、誰もいない。妖怪の気配もなかった。
不思議に思っていると、入口の方から護衛官が声を掛けてきた。
「かぐや様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ!何でもないです」
着替えに時間がかかっているので、心配した護衛官が扉越しにかぐやに声を掛けたのだ。
周囲に妖怪の姿はないが、念のため式神を置いて社を後にした。
かぐやが禊を終えて本家に戻ってくると、ちょうど時雨と拓磨も禊から戻ってきていた。時雨はかぐやが不安そうな表情をしていたので尋ねた。
「かぐや、何かあったのか?」
「うん…禊が終わった後に不気味な声が聞こえて…」
時雨と拓磨に先ほどの禊であったことを話した。すると無口な拓磨が珍しく口を開いた。
「…俺もそんな声を聞いた…」
「え?松風渓谷でも?」
拓磨の話によると、謎の不気味な声が聞こえたが気のせいかもしれない。だが、何かあったときに対応が遅れたら困るから念のため、式神を置いてきたそうだ。
「時雨のところは何ともなかったの?」
「いや、何もなかったな…とにかく封印の警備を強化して対策するしかないな」
時雨のそのひと言に拓磨もかぐやも静かに首を縦に振り、三人は他の守護者にもかぐやが聞いた不気味な声のことを話して、封印の警備を厳重にするようにした。
理が帰ってきて、早くも一週間が経った。
その間、守護者の面々は時折、禊の際に不気味な声を聞くが一向に声の主の正体を見つけることができなかった。守護者たちは封印の警備を強化して、妖怪対策を万全にしていた。
「父さん、呼んでいるって聞いたけど…」
玲に呼ばれて、理は父の部屋にやって来た。
「悪いな。実は明日、定例会議があるから」
「定例会議?」
「あぁ本家の人間が集う会議だよ」
「ふーん…」
「明日の午後二時から大広間でやるから遅刻しないで来るんだぞ。僕は直前に禊があるから一緒に行けないから」
毎日の禊は正午に行うので、そこから戻ってくると時間ギリギリになってしまうので、理と一緒に行動するのは難しそうだ。
玲に対して理は「判った」と言って部屋を出て行った。
何だかそっけない理の態度に礼は違和感を覚えたが、十四年間の空白の時間があるので、父子と言うのはこういうものかと思った。
翌日、七宝古道で禊を済ませて、守護者の秋篠は濡れた襦袢からいつも着ている袴に着替えようと襦袢の帯に手を掛けると
…ドコダイ…?…隠レテイナイデ…デテオイデ…
不気味な声が耳に入ってきた。秋篠もかぐやと同じように小窓から周囲を見回したが、何もいなかった。
(気のせいか?…かぐやさんが言っていた不気味な声と言うのはこれか…)
「秋篠様、如何なさいましたか?」
「いえ…何でもないです、すぐに行きます」
社の外から護衛官に声を掛けられて、秋篠はすぐに着替え始めた。かぐやと同様に秋篠も式神を残して七宝古道を後にした。
秋篠が七宝古道を出た頃、あと数分で定例会議が始まる時間になっていた。本家に来たばかりの理は玲からもらった本家の地図を頼りに本殿を歩いていたが、広くて迷ってしまった。
困っていると目の前に人が歩いているのが見えて、理は藁にも縋る思いで声を掛けた。
「ちょっとすみません、大広間の場所は…?」
理は、ちょうど近くにいた女性に声を掛けながら肩に手を置いた。そして理が声を掛けたのは、禊を終えたばかりの心春で、その顔を見た理は息を飲んだ。
「理様…」
心春はニコッと微笑みながら大広間までの道を理に教えた。
「大広間はこの先を真っ直ぐ行ったところにございますよ」
「…。」
「…理様?」
道を聞かれたので、素直に答えた心春。しかし、理からの返事は一切ない。不思議に思い、理の顔を覗き込むと、衝撃を受けたような表情をしていた。
「…こ、なつ…?」
「え?」
心春の肩に置かれた手がパッと離れたと思ったら、その手はゆっくりと心春の首に向かっていった。
いきなりのことでとっさに抵抗することができずにいると――。
「心春っ‼」
名前を呼ばれて、ハッとして二、三歩後ろに下がった。そして声の主は心春を守るように前に立ちはだかった。
「陵羽…」
心春の前に現れたのは、巫女の護衛長を務める天童 陵羽だ。
「理様…一体何をなさるつもりですか?」
「…いえ、すみませんでした…失礼します…」
そう言って理は大広間と反対方向に走っていった。理が去って安心したのか心春はその場にへたり込んでしまった。陵羽はそんな心春に手を差し出した。
「心春、怪我はありませんか?」
「え、えぇ、大丈夫です…ありがとうございます」
「理様、様子が変ですね…」
「…そ、そうですね…」
理の謎の行動を不審に感じた陵羽と心春。だが、理は本家の人間だ。下手に動いて勘違いでしたでは済まない。二人は慎重に動くことを強いられる。
「明日から心春は第二の封印の場所に移るわね」
「はい…」
翌日、禊を終えて珱が心春に話し掛けると、暗い表情をしながら心春は返事をした。いつもニコニコと笑っている心春が暗い表情をしているなんて珍しかった。
「どうかしたのかしら?」
「…珱様、理様は五歳の頃に本家を出たのですよね」
「そうだけど…それがどうしたの?」
「理様が…姉の心夏の名を言っていたのです…」
「え…?」
一瞬、心春が何を言っているのか理解できなかったが、よくよく考えたらおかしい。
心春の年の離れた姉・心夏も清澄の巫女を務めていた。
だが、とある事件に巻き込まれて十年前に失踪してしまった。
華僑院家が捜しているが、この十年何の手掛かりもない。姉を見て育った心春は心夏のように清澄の巫女となったのだ。
年の離れた姉妹だが二人のことを知っている人間が見たら、二人は双子並みに似ていると話すほど、二人はよく似ている。
そして、心夏が清澄の巫女に就任したのは、珱が六歳の頃だ。珱と理は同い年。二人が九歳の頃に心夏は失踪した。清澄の巫女も陰陽師同様に修行をしなくてはなれないのだが、その修行場所は本家と離れている。
五歳のときに本家を出た理が心夏のことを知っているなんてありえないことだ。
禊を終えた後もずっと理のことを考えていた。
これは理の父親である玲に相談すべきか。だが、戻ってきてすぐに他の誰かに“心夏”と言う名前を聞いたのかもしれない。
「心春、心配なのかもしれないけどこの件、私に預からせてもらうわ」
「わ、判りました…」
帰ってきたばかりの理が発した「こなつ」という単語。
他の「こなつ」だったとしてもそれを心春に言うということは、「心夏」だという可能性が高い。
一体、どうして理は「心夏」を知っているのだろうか。
珱がそんなことを考えていると数日が経った。
第二の封印・いろはの滝では、守護者代行を務めている玲が考えごとをしながら禊を終えて社で着替えていた。
悩みごとの種は理のことだ。
理が帰ってきてひと月近く経ったが、息子が何を考えているのか一向に理解ができなかった。
ニコニコと爽やかに笑っていると思えば、ぼーっとしていることも多くて、もしかしたら本家の生活が合わなくて精神的疲労が溜まっているのだろうか。
「っ⁉」
「玲様…⁉」
「どうなさいましたか?」
急に玲が立ち止まり、その場に座り込んでしまった。慌てて使用人の二人が駆け寄った。
「…第二の封印に誰かが近付いている…」
「えっ⁉」
「まずい!あそこには…‼」
「ふう…」
心春が禊を終えて護衛が待っている場所まで歩いていると、どこからか「ぎゃあっ⁉」と言う叫び声が聞こえてきた。
慌てて声がした方に向かうと、そこには護衛官たちが血まみれで倒れていて、心春は素早く物陰に隠れた。
護衛官の周囲に見たことがない大きさの妖怪・女郎蜘蛛が何かを探すように歩き回っている。
ここで妖怪に近付くと、心春は不浄となり封印を清めることができなくなり、清澄の巫女としていられなくなってしまう。何とかこの場をやり過ごさなくてはならない。
…コォ~ナァ~ツゥ~…出テオイデェ~…
女郎蜘蛛は捜し回りながら何度も呟いた。
心春ははっきりと耳にした。女郎蜘蛛が『心夏』と言っていることに。
恐らく姉妹で顔立ちが似ているので、心春を心夏と勘違いしているのだろうか。だが、どうして女郎蜘蛛が心夏を捜しているのか謎だ。
…コォ~コォ~カァ~ナァ~…??
心春が考えていると、いつの間にか女郎蜘蛛は心春が隠れている岩の真後ろにまで迫っていた。
もうだめだ。
そう思った瞬間、『グアァアッ⁉』と言う女郎蜘蛛の叫び声が耳に入ってきた。
恐る恐る様子を伺うとそこには女郎蜘蛛を退治した陵羽の姿があった。
「陵羽…‼」
「心春、怪我はありませんか?」
「は、はい…」
安堵したからか、心春の目には涙が。
しかも護衛官の一人である陵羽は女郎蜘蛛にやられたと思っていたから生きていて本当に良かったとホッとしていた。
「すみません、怪我ですぐに動けなくて、助けに行くのが遅くなってしまって…」
「ううん、無事で本当に良かった…!」
「陵羽君っ‼心春さんっ‼」
第二の封印の異変を察した玲が珱たちを連れて駆け付けた。
陵羽以外の護衛官の三人はもうすでに息絶えており、心春は静かに手を合わせていた。
しかし、陵羽もだいぶ深手を負っており、珱の部下たちによって本家にある医務室に運ばれていった。心春も昴と拓磨と共に本家に戻っていった。
心春を見送ってから珱と玲は、女郎蜘蛛の死体を調べている時雨とかぐやの元へやって来た。
「あ、珱さん」
「何か判ったかしら?」
「こいつ抜け殻だな」
「…え?」
時雨が手でコツンコツンと叩きながらそう言った。確かに大きさに反して空虚な音が聞こえてきた。時雨の言う通り、この女郎蜘蛛の死体の中身は空っぽのようだ。
「じゃあこれを操っていた誰かがいるってことかしら?」
「恐らくな…俺、思うんだけど犯人は本家の中にいるんじゃないか?」
「え?」
「じゃなきゃ、巫女がここにいるって判らないんじゃないか?」
時雨に言われて気が付いた。
本家にいる人間なら確かに禊がいつどこで誰が行っているのか知ることができるし、それに合わせて妖怪を向かわせることもできるだろう。
しかし一体誰がこんなことを。
「珱ちゃん、君も心当たりがあるんじゃないかい?」
「叔父さま…でも“彼女”は…」
「珱、どういうことだ⁉」
「何か知っているのですか?」
時雨とかぐやに問われて珱は何も言えなかった。言えないというよりは話したくないと言った表情だ。
「珱ちゃん、僕が代わりに話そうか?」
「…はい」
「玲様…一体どういうことなのでしょうか?」
「本家に戻ろう。そこで守護者のみんなに話すよ」
玲にそう言われて時雨もかぐやもそれ以上は何も言えなかった。
本家に戻り、玲と守護者の面々は大広間に集まった。
そして玲は少しずつ話を始めた。
―――
――
―
十年前、まだ珱が九歳で、純真無垢な少女だった頃。
当時の華僑院家は二十五代当主で、珱の父親でもある華僑院 一二三が華僑院家を仕切っていた。
そして当時の第一の封印の守護者は――。
「華僑院 珪。本日より第一の封印の守護者に就任いたします」
「人知を尽くして働くように」
珱には妹・珠だけではなく、十歳年の離れた兄・華僑院 珪がおり、珪は珱同様に才能ある陰陽師で、当時最年少として第一の封印の守護者に就任したのだった。
そして誰もが華僑院家第二十六代当主を継ぐ者は珪だと云われていたのだ。
珪は、当時の清澄の巫女で心春の姉・心夏と恋仲になっていたのだ。
当時の華僑院家では巫女が不浄になるために、陰陽師と巫女の交際は禁止となっていたのだが、二人はお互いに惹かれ合い、いつしか愛し合う仲に進展していったのだ。
そして珪と心夏は、たびたび一二三たちの目を盗んでは華僑院家の裏庭で二人きりで会っていた。
「すごいです!十九歳にして第一の封印の守護者なんて」
「そんなことないさ。直系の人間だから甘いんだよ。いつか当主になって心夏を俺の嫁にするのが俺の夢だからな」
「珪様…」
心夏は珪の真っ直ぐな発言で顔が真っ赤になってしまった。すぐに真っ赤になってしまう心夏を珪は何とも愛しそうに見つめるのだった。
「“様”付けはやめてくれ。たった一歳違いだろ?心夏」
「珪…くん、今は私何もできないけど結婚したら珪…くんを助けられるようになるからね」
「それは俺の名前をちゃんと呼べるようになったらな」
「もう!…っと禊に行かないと」
「そうだな。お互いに気を付けような」
「はい!行ってきます」
と言って珪と心夏はそれぞれ禊に向かった。
珪が禊を終えて本家に戻り自室で本でも読もうと思ったら、途中ですれ違った父・一二三に呼び止められたので、そのまま一二三の自室に入った。
「それで話とは何でしょうか?」
「ところで、珪…お前、巫女の心夏さんと恋仲だと聞いたが?」
「それがどうしました」
「陰陽師と巫女の交際は華僑院家の掟で認められていない、今すぐにでも別れてもらう」
「…俺が当主になれば、関係ない」
「そんなことを考えているならお前を当主にすることはできない」
「俺を当主にしないのなら、華僑院家は滅びるぞ。俺以外に候補はいないんだからな」
「だったら、珱にでも継いでもらうさ」
「何で珱に…」
「お前が、心夏さんと別れないからだろう」
「…どうしてお祖父様はこんな奴を母様の婿に…」
「父親に向かって何だその言い草は⁉」
「本家の人間でもないあんたが、華僑院家の当主なんて俺は認めない‼」
「珪‼」
そう言い放つと珪は呼び止める一二三の声を無視して、部屋から出て行った。
一二三は当主の座を狙って、王影に媚び入りその娘である碧に婿入りし、そのまま華僑院家第二十五代当主の座に就いたのだ。
この事実を知った珪は父親に不信感を持つことになった。それ以来、先ほどの様なやり取りが多くなった。
「クソ…」
「珪君?」
「玲叔父様…」
一二三の部屋を出て、自分の部屋に戻ろうとした珪に声を掛けたのは、玲だった。玲は竹刀を何本も持っていたので、今まで弟子入りした子どもたちに剣技を教えていたのだと、珪はすぐに悟った。
「どうしたの?そんな怖い顔しちゃって」
「…どうして叔父様は、父様なんかに当主の座を譲ってしまったのですか?」
「え、どうしたの…急に…」
玲は、二十四代当主である王影の実の息子である。だから誰もが華僑院家は玲が継ぐものだと思っていたであろうが、実際は玲ではなく一二三が継いでいる。
「叔父様は華僑院直系です。お祖父様は叔父様に華僑院家を継いでもらいたかったのではありませんか?」
「うーん…まぁ一番は僕が当主には向いていないってことじゃないかな」
「そんなことはないですよ!」
「…そう言ってくれるのはありがたいけど、やっぱり僕には家を継ぐなんて無理だったんだ」
「叔父様…」
珪には華僑院家を継ぐ度量もその才能も備わっていた。だからこそ華僑院家の未来は安泰だと思われていたのだ。
翌日、会合を終えて自室に戻ろうとしたら、とある女性に呼び止められ、裏庭にやって来た。珪を呼び止めたのは、当時の第六の封印の守護者・稲垣 千穂利である。
「どうした?千穂利」
全くもって千穂利に呼び出された理由が思い浮かばなかった珪。
「あの…私…珪様のことが…‼」
「えっ⁉」
仕事のことで何か内密な話があると勝手に考えていたので、まさかの告白だとは全然思っていなかった珪は驚きの表情を隠せずにいた。
しかし、千穂利は一世一代の告白なので、それどころではないようだ。
「…千穂利、悪いが…俺には好きな人がいるんだ」
「…はい」
「でも――。」
珪は丁寧に千穂利の告白を断った。
もちろんどんな断り方でも千穂利を傷つけることは避けられないとは判っているが、だからと言って受け入れることはもっとできない。
この数日後、千穂利は珪を殺害。珪が自分の想いに応えてくれない心の傷がその手を血に染めたのだ。その後、千穂利を捕まえようとした当主・一二三も命を落とした。
華僑院家は当主と次期当主候補を失い、混乱状態に陥ってしまった。
そして混乱に乗じて千穂利は矛先を――珪の想い人・心夏へ向けられた。
だが、千穂利が心夏に手を掛ける前に心夏は本家を出て、失踪。現在も行方不明である。
その後、千穂利も華僑院家に追われて、崖から身を投げて自殺したところを目撃された。だが、遺体は華僑院家が総動員して探したが、見つからなかった。
それ故、千穂利は死亡扱いではなく、行方不明扱いとなっている。
―
――
―――
「――これが十年前の全て…僕と珱ちゃんは今回の犯人が千穂利さんだと思っている」
「でも崖から落ちて亡くなったのですよね。いくら守護者を務めるほどの陰陽師でも流石に落ちているとなると…」
「いや…当主が命を落としたんだ…何か禁忌の術を使ったのかもしれない…そしたら自殺に見せ掛けて、自分を死んだことにして息を潜めていたかもしれない」
「でもどうして千穂利さんが犯人だと思うのですか?」
「…心夏さんの妹が心春さん…二人はそっくりな姉妹だ…もしかしたら心夏さんだと思って心春さんを襲ったのかもしれない…」
そう玲が説明すると守護者の面々は納得していた。
心春が襲われたことを考えると千穂利が犯人の可能性が高いだろう。
しかし、珱の顔は苦々しい表情をしている。そのことに気が付いた昴が珱に話し掛けた。
「珱、何か他にも気になることがあるのか?」
「…私は…今回の主犯は理さんだと思っています」
珱のその発言に守護者だけではなく玲も驚いていた。
当然だ。
理の父親である玲が、理が犯人と言われて信じられるわけがない。
「さ、珱ちゃん…一体何を…」
「…今回の事件は理さんが戻ってきた時期と合います」
「っ‼」
珱の言う通りだ。
今回の事件の発端は守護者たちが感じた謎の視線だ。
それがあったのが、理が帰ってきた翌日。そしてその日から守護者全員がその視線を感じている。
「…それに心春が言っていたけれど…理さんが心夏さんの名前を言っていたそうです」
「え…っ⁉」
このことは心春も言っていたが、五歳からつい最近まで華僑院家を離れていた理が心春の姉である「心夏」の名前を言うことはありえないことなのだ。理は心夏の存在を知るわけがないのだから。
「理が…どうして…?」
玲はどうしても信じられなかった。実の息子を疑いたくない。やっと一緒に暮らせるようになったのに。
「叔父さま…理さんはもしかして…誰かに操られているのではありませんか?」
「え…」
「確かに状況は理さんがやったように思えますが…理さんには動機がありません」
「あ…確かに…」
十四年間、華僑院家と関わっていない理には心春を襲う動機がない。
だが、事件は理が関わっていると思われる。
この二点を踏まえると、理は誰かに操られているように思える。
その誰かと言うのは、恐らく千穂利だろう。
「叔父さま…理さんを一緒に救いましょう」
「父さん、話って何?」
理は玲に呼び出されて、とある場所に呼び出された。理には玲に呼び出される理由が思いつかない。
「理、僕はお前が…理が無事に帰ってきてくれて本当に嬉しいと思っているよ」
「…え、いきなり何…どうしたの?」
父の謎の質問に動揺するしかなかった。呼び出されていきなりそんなことを言われて動揺するなと言われる方が無理だろう。
「…お前は珱ちゃんのお兄さんを知っているかい?」
「勿論だよ、珪さんだろう?そのくらいなら覚えているよ」
「そう、珪君だよ…その珪君は十年前に亡くなった…その原因は当時の守護者の一人だよ」
「一体、何の話?その人なら今は行方不明でしょ」
「…そうだ」
「父さん、どうしたの…?」
急に玲の雰囲気が変わって、理はビクッとなった。一瞬、玲が怖い表情をしていた。こんな父の顔は見たことがない。
「どうしてお前、千穂利さんが行方不明だと知っているんだ?」
「え…?」
理は玲が言っていることの意味が判らなかった。
「千穂利さんが本家に来たのはお前がいなくなってから、そして失踪したのは十年前だ」
「っ⁉」
「…五歳のときに本家を出たお前が知るはずないんだ…」
『流石、引退シタト聞イテイタガ、マダマダ能力ハ衰エテイナイノダナ』
突然、理の雰囲気が変わったと思ったら、ずっと隠していた妖気を放ち始めた。そしてその姿は髪の長い女性へと変貌していった。玲にはその女性に見覚えがある。
「…あなたは千穂利さんだね」
『ソウダ…十年前ニ女郎蜘蛛ト契約ヲ結ンダ…ソシテ、“アノ人”ノ未来ヲ奪ッテヤッタノヨ‼』
千穂利の言っていることが正しければ、十年前に千穂利が起こした事件のときすでに千穂利は女郎蜘蛛の力を使い、珪を殺害し、その矛先を心夏に向けたのだ。
「千穂利さん、あなたは身も心も女郎蜘蛛に憑り付かれてしまったんだね」
『何ヲ言ッテイル?』
「ここが何の場所か…忘れてしまったのですね」
玲がそう言うと、北側にある舞台に明かりが灯された。理を呼び出した場所は本家の隅に作られている舞台を見る客席だ。守護者をしていた千穂利なら何度か来たことがある場所だ。
『コンナトコロデ何ヲ…』
「これも忘れてしまいましたか…珱ちゃんが…とある舞を使いこなすことができることを」
『ナッ⁉』
千穂利が逃げ出そうとした瞬間、昴が千穂利の周囲に、この場から逃げ出せないように素早く結界を張った。
すると舞台上に舞の衣装に身を包んだ珱が現れて、すぐに舞を始めた。
珱は初代当主の妻が持っていた能力である“治癒の舞”を受け継いでいる。
この舞は傷や病を治すだけではなく、妖怪に憑かれた人間を助けることもできる。
つまり千穂利に操られている理を救えるのだ。
「女郎蜘蛛…理さんを返してもらうわ…」
そう言って、左手に持っている鈴をリンっ鳴らすと、千穂利は苦しみだした。
『グッ…ヤ、ヤメロっ…‼』
「くっ…!」
千穂利は抵抗して、渾身の力で結界を破ろうとするが、昴も対抗して込められるだけの力を結界に注ぎ込んだ。
現役の守護者の昴の力に珱の舞で弱っている千穂利は勝てなかった。
『何故ダっ!…私ハただ…あの人ノ隣にイタカッタだけなのに…』
弱々しく、そう呟く。
珱の舞の力、そして逃げ出すために残りの力を使い、もう力がないのだろう。
千穂利はただ珪が好きだった。だけど、珪はその想いに答えることができなかった。
そしてこのことが引き金となり十年前の悲劇が起こったのだ。
「でも…兄さまは言ったはずよ…」
舞の途中で珱は花道を通って結界の中にいる千穂利に近付いた。千穂利はゆっくりと珱の方に顔を向けた。
「でも――好きになってくれてありがとう、と」
その言葉を聞いた瞬間、千穂利の目から一筋の涙が零れた。
十年前のあのとき、確かに珪にそう言われた。
だが、失恋と言う大きな心の傷を女郎蜘蛛に狙われて自我を失ってしまったのだ。
珱は最後に鈴を千穂利に向けてリンっと鳴らした。すると、千穂利は粉のように消えていき、理だけがその場に残った。
「う…っ…」
「理っ‼」
昴が結界を解くと、気を失っていた理が目を覚まして玲は駆け寄った。
「…ここは…?」
「理、僕が誰だか判るか?」
「え、えっと…?」
理は混乱しているのか自分がどこにいるのかも目の前にいる男性が誰なのかも判らない様子だ。
どうやら千穂利に憑かれている間の記憶がなくなっているようで、母・水穂が亡くなったことも、どうして自分がここにいるのかも覚えていなかった。
ゆっくりと現状を話すと、少しずつ受け入れようと玲の話を真剣に聞いていた。
「良かった理が無事で…」
「と、父さん…」
こうして千穂利事件は幕を閉じた。
――数日後。華僑院家に思いもしなかった客人が来訪した。
玲によって呼ばれた珊瑚、碧、珱はその突然の客人を目の前にして驚いた顔を隠せなかった。
一同の前に現れたのは、十年前から行方不明扱いとなっていた心春の実姉・心夏だった。心夏の隣には小さな女の子がちょこんと座っている。
「お久し振りです。珊瑚様」
「お前、本当に…心夏なのか?」
「はい…」
「それで、その子は…」
心夏が行方をくらましたのは十年前だ。十年前と雰囲気が変わり、幼さが抜け立派な女性となっていた。珊瑚は隣にいる女の子が気になっていたので尋ねた。
「珪さんとの私の子どもです。名前は芙瑢です」
「珪の子ども⁉」
「どうやって…」
十年前、失踪する直前に巫女を引退していた心夏は珪の子どもを身籠った。
だが、それを公表する前に珪が亡くなり、このままでは子ども共々、千穂利に命を狙われかねないと思い、命からがら本家を出て出産した。
だが、十年経って千穂利事件のことをとある人物に聞き、本家にやって来たそうだ。
「珊瑚様、私をここの使用人で良いので雇っていただけませんか?お願いいたします…」
「…お前は雇わない」
深く頭を下げた心夏に珊瑚はきっぱりと言い放った。
やはり十年間も行方をくらませていたものに仕事をやれないということなのだろうか。
「…でしたらせめて芙瑢だけでも…」
「無論、その子は華僑院家の子として扱う。そしてお前は華僑院珪の妻・華僑院 心夏だ。働く必要はない」
「…あ、ありがとうございます‼珊瑚様…」
珊瑚の言葉はつまり、珪と心夏の二人を夫婦として認めて芙瑢を華僑院家の子どもとして育てることができるのだ。その言葉が心夏には嬉しくて、嬉しくて、目から涙を流していた。
「お母さん、泣いているの…??」
「うん。嬉しくてね」
こうして正式に珪の妻となった心夏と、その二人の子どもである芙瑢は華僑院家の人間として本家で暮らすことになった。
話しを終えて大広間から出ると、慌てて走ってきた心春が現れた。
そして心夏を見て涙を流していた。無理もない行方不明になってから生きているかも死んでいるかも判らなかった心夏だ。そんな相手に十年振りに再会すれば誰だって涙を流す。
「お姉ちゃん…っ」
「こ、心春…なの?」
心春と最後に会ったのは心春が六歳の頃だ。成長して見た目が変わっていて、心夏が判らないのも仕方がない。心春は泣きながら心夏に抱き着いた。
「心春…大きくなったわね…」
「お姉ちゃん…生きていた…良かった…」
「ごめんね、心春…」
生き別れていた姉妹は、こうして十年振りに再会することができたのだった。
妹と再会を果たした心夏は珱の元にも挨拶にやって来た。
珪を通じて珱と心夏も以前から親しい間柄だったのだ。珱にとっては姉のような存在だ。しかし晴れて正式に珪の妻になったので、名実ともに義姉妹となった。
「久し振りね…珱ちゃんも大きくなったわね」
「心夏さん…」
「当り前よね、あれから十年も経っているのだから…」
出会ったときから思っていたが、珱は当時から可愛らしい顔立ちをしていて、現在は大人になり綺麗な容姿へと進化している。
「珱ちゃんは好きな人とかできた?」
「…私は誰かを好きになるつもりはありません」
「え?」
質問に予想していなかった回答だったので、心夏は驚いた。
「…私、怖いんです…大切な人を失うことが…」
「あ…」
珪と心夏は愛し合っていた。だが、千穂利によって珪は命を落とした。
珱は千穂利の一方的な想いで大切な兄を失った。
それ以来、大切な人を作るのをやめた。二度と大切な人を失う辛い思いはしたくないからだ。
そのため、珊瑚からの縁談話を全て断っていた。
守護者たちともある程度の交流はするが、常に壁を作って親しくなることを避けている。
「そっか…珱ちゃんがそう考えているなら私から言うことは何もないわ」
心夏はそれ以上、珱に何か言うことはなかった。
頭のいい珱が考えて、考えて、考え抜いたことだろう。
それに珱の人生だ。珱の自由にするべきだ。そう考えて心夏は何も言わなかった。
そして千穂利に操られていた理は、玲から現状を全て聞いた上で華僑院家に残ることを決めた。それと同時に陰陽師になるための修行も開始した。
「理さん、無理して陰陽師にならなくても大丈夫ですよ」
幼い頃に修行をしていたとはいえ、十四年間も普通の家庭の子どもとして育ったのだ。無理して華僑院家に染まる必要はない。そう思い珱は言ったのだが。
「ううん、守りたいものがあるから。華僑院家に戻れてよかったよ」
そう言う理の目には強い決意が宿っていた。
「そうだよな~理は小さい頃、珱ちゃんを守るって言い張っていたからな」
「なっ⁉…と、父さん‼」
玲がからかう様に二人に言った。玲の発言で理は顔を真っ赤にさせた。
「理の初恋の相手は珱ちゃんだもんな~」
「父さんっ!やめてってば‼」
「まーまー人生は短いんだから後悔しないようにな」
そう言って、あははと笑いながら玲は理から逃げて行った。対して理は顔を真っ赤にさせて息をゼーハーと切らしていた。
「理さん…大丈夫?」
「と、父さんが言ったことは本当だけど…いつか僕が一人前になったら…僕の言葉できちんと伝えるから‼」
――このとき珱は思った。
―――この再会が、珱と理の運命の歯車を動かした――のではないかと。