表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

母がとんでもない仮面妻だった件

作者: みや毛

「母上、その、ご相談があります」

「何かしら、サミュエル」

「その……じょ、女性に好いてもらえるような男、と言うのはどういうものなのかと……」

「まあ」


晩餐のおり、言葉につかえそうになりながらなんとか口に出すと母は目を丸くしてふわりと微笑んだ。その穏やかな笑みがいたたまれない。父の方も何やら微笑ましくこちらを見ている。頬が熱くなるのを感じながら俯くとくすくすと楽しそうな声も耳に届く。失敗した、いくら自分の両親たちが社交界でも評判の仲の良さとはいえ、やはり身内。このような話は友人にするべきだった。気持ち、小さくなって黙っていると美しい母の声が弾むように聞こえてくる。


「サミュエルもそういう年頃なのね」

「か、揶揄わないでください!僕はあくまで!紳士として!恥ずかしくない振る舞いをですね……!」

「ふふ、そうね。でもそれは令嬢にもよると思うわ。だから、一番大切なのは噂に左右されず自分できちんと考えて目の前の相手を見ることです」

「そ、そうですね」


基礎ではあるが人と接する上でとても大切なことだ。母の言葉にしっかりと頷き、改めて心に刻む。母はティーカップをおろし、こちらに少し身体を向けて、続きのアドバイスをしようとして。


「でないと、貴様のような悪辣極まりない売女を妻として遇するつもりはないと小娘を叩き出すような男になりますよ」

「は?」


なにやら、とんでもないことを言ってのけた。たおやかな笑顔で言われるには内容がなんとも……下衆、というか。咀嚼しきれず固まっているとぱりんとガラスが割れた音がする。そちらにぎこちなく首を向けると、一気に血の気の引いた顔で目を剥き、まばたきひとつせず母を凝視する父の姿。手元にあったワイングラスは今、床にいるらしい。尋常ではない父の様子に恐る恐る声をかける。


「ち、父上?」


こちらの呼びかけにはっと我に返り、父はごくりと唾を飲み込んだ。顔色を失ったまま、震える声で母へ縋るように話しかける。


「リ、リリィ、君は、私を許してくれていたのでは」

「? 許してくれとは言わない、と言ってくださったのはアル様でしょう?だから私、許さなくてもいいのかと思っていたのですが」

「う……」


不思議そうに首を傾げた母にざわざわと言いようのない不安が湧き出した。先ほどの暴言を父が母に向かって吐いた、そう思うしかないやりとり。ふと周りを窺うと使用人一同も同じように顔色を悪くしていた。どういうことだ。自分は両親の睦まじい様子しか知らない。むしろ、子供ながらに父の母への溺愛ぶりは見ていて暑苦しいと思うほどだ。

社交の場で母に近づいている男があればその年、下心の有無に関わらず大人気なく視線を厳しくし、母をエスコートする手を腰に回して露骨な牽制をする。何かと記念日の折には大粒のジュエリーやらをプレゼントしては君の美しさには劣ると砂糖を吐くような言葉を砂糖を煮詰めたような顔で囁く。そんな、まぁ、仲の良いことは何よりだがちょっと落ち着いてほしいな、と思うほどの父である。その父が、母を蔑ろにしたことがあったなど到底信じ難いが、母のただ透明なだけの瞳がサミュエルの心をひどく揺さぶる。


「え、ええと……?あの、父上……?」

「そうね、サミュエルも大人になったのだし、教えておくべきね」

「リリィ!やめてくれ!頼む……!」

「アル様がそうおっしゃるのでしたら」


必死な父の言葉ににこりと笑って、話を不自然なほどにあっさり切り上げる母。思えば、穏やかな母の気性からあまり気にしてはいなかったが、母が父を同じように深く愛しているような素振りを、自分は一度でも見たことがあるだろうか?背中を駆け上がる悪寒は、かえって自分を奮い立たせた。これは決して素通りしてはいけない違和感だ。腹に力を込めて、はっきりと声に出す。


「いいえ、どうか聞かせてください」

「サミュエル!!」

「申し訳ありませんが、邪魔立てをしようというなら、父上は出て行ってくださいませんか。僕はいずれ当主となる身、無知は罪です」

「ぐ……」


こちらの反抗に父は顔を歪めた。聡明な人だ、道理もなく自分の感情だけで他人を否定などしないだろう。渇いた喉を誤魔化し、テーブルの下で強く拳を握りしめながら、目を逸らさず父を見つめた。緊迫した空気の中時がすぎる、痛いほどの静寂を切ったのは父の側に控える初老の家令であった。紙のような白い顔色で家令は、震える口を開く。


「恐れながら、旦那様、いつまでも隠し通せるものではありません」

「しかし……!」

「サミュエル様のおっしゃることは、ごもっともでございます」


勢い立ち上がった父だが、不敬だとがなり立てることはしなかった。なにせあの家令は父の幼い頃からずっとこの家に仕えてきた信頼の厚い男だ。その男から説かれては流石の父も嫌とは言えない。何度か口を開きかけた父だったが、やがて崩れるように椅子に腰を下ろし、微かに頷いてみせた。


「……わか、った。だが、私もここにいさせてくれ……リリィ。君の心が知りたいんだ」

「お望みとあらば」


父の苦しげな眼差しに、母は静かに頭を下げて微笑む。その姿に愕然とした。いままで自分はこの人の何を見ていたのか。その眼差しは今も温かく穏やかなまま、過去への苦しみも父への憎悪も諦めも見えず、かと言って愛の温もりもない。他人のようなよそよそしさはないのに、情人らしい親しみもない。まるで、主人に首を垂れる使用人のようではないか。

間抜けに母の所作一つ一つを見つめていると、母は父から視線を外してこちらににこりと微笑んだ。その目が今度は家族を見る親愛の色にうつろったのをみとめて、余計に頭が混乱する。


母が語り始めたのは、自分が生まれる2年前。つまりは20年前のことだった。

リリィベル・ノードン。彼女の未婚の時の身分は子爵家の令嬢であったらしい。その時点で驚きだ。自分は母をクリムト伯爵家の出だと聞いていた。当時子に恵まれなかったクリムト伯爵家が遠縁から引き取り大切に育ててきた姫だと、そう言われてきたのに。そして、ノードン子爵家が今は無いこと。伯爵領から離れたところにノードン領があることを思い出して声もなく納得した。さほど目立ったところの無い領地だ。数度しか訪れたことはないが、その地を任せている代官はやたらと我々に恐縮した態度を見せていた。その理由はきっとこれだ。

さて、ノードン子爵令嬢――当時の母を今はこう呼称しよう――は今となっては考えられない環境に身を置いていたそうだ。彼女が13歳の時、子爵家の当主が落石事故に遭い帰らぬ人となり、代わりに叔父が当主代行の座についた。それから彼女の不幸が始まる。叔父は彼女に与えられていた令嬢として当然のもの、ドレス、宝石、食事、教育、果ては彼女の部屋までもをとりあげて自分の娘にそっくり与えたのだ。兄と違って相続できるものはなく、事業に手を出すも失敗続き。平民暮らしに不満ばかり募らせていた男は降ってわいた幸運に沸き立ち、兄へ向けていた見当違いの嫉妬や憎しみを忘れ形見の姪へとぶつけたのだ。無賃のハウスメイドとして昼夜こき使い罵声を浴びせ、慣れぬことに失敗する姪に手を上げては嬉々として罰の理由とした。もう少し叔父好みに長じていれば別の「折檻」があったかもと朗らかに笑う母にどう反応すればよいかわからずそっと目を逸らす。

そして、そんな生活を続けて、デビュタントも従姉妹に奪われて、やがて名前さえ忘れられたのではと令嬢が思うようにさえなった頃、彼女の名前は突然有名になった。男を取っ替え引っ替え遊び回る淫らな女として。

勿論、それは従姉妹の所業を押し付けられたものだ。そもそもノードン子爵令嬢には口に引く紅も与えられなければ、着飾るドレスもない。舞踏会に姿を見せないのは夜は男娼と楽しんでいるから、茶会に出られないのは朝帰りで起きだしてこないから。彼女の名前は好き放題に汚され、原型を留めなかった。


そしてある日、叔父がホクホクとした顔で帰ってきて、嬉しそうに言った。格上の伯爵令息との婚約をとりつけられたと。聞いた名前は伯爵家の中でも上位の家、叔父の手管を他人事のように聞いていたが、従姉妹の方は気に食わなかったらしい。貴族になってたった数年、伯爵家は子爵の一つ上、という認識しかなかった彼女はぎゃんぎゃんと騒ぎだした、王子様は無理でも侯爵様でしょう、と。娘の癇癪に困り果て、しかし、宥めることもできなかった叔父は面倒になってノードン子爵令嬢に代わりをやらせることにした。彼女からすれば青天の霹靂である。ここ数年で肩口まで髪は切り落とされ艶もなく、度重なる水仕事で手はあかぎれ、ろくなものを与えられなかったせいで身体は骨も浮き出ている。こんな貴族令嬢がいてたまるかという有様の彼女を否やを言わさず馬車に詰め込んだ。取り繕えるように簡素なドレスは押し付けてやったが従姉妹が一度袖を通したきりのお古であり、彼女に似合っているかというとそうでもなかったらしい。


そして、揺れのひどい馬車で伯爵邸に辿り着き、疲労困憊ながらも昔のように挨拶をしてみれば、屋敷から出てきた爵位を継いだばかりの若き伯爵――当時の父に蔑んだ目で見られ先の暴言を飛ばされ、挙句門を閉じられてしまったらしい。そんなことがあるのか。口を閉じるのも忘れ淡々と語る母を見た。視界の端に見える父は頭を抱え呻いている。


「……え」

「そう、私困り果ててしまったわ。叔父様は私を人として扱っていなかったから出戻りなどできないし。だけど追い出されて何もできないから、仕方なく職業斡旋所に行って、仕事をさせてもらえないかとお願いしにいったの。幸い代官様のお屋敷の人手が足りなかったからすぐ雇ってもらえたわ。それから一年、そこで働いていたのだけど」

「い、一年……」


もうただの使用人ではないか。唖然として呻くように母の言葉を繰り返す。婚約が結ばれたと思いきや来たのは悪評ばかりの子爵令嬢、嫌になる気持ちは理解できるが、あくまで噂。その下調べもせずそのまま追い出すものだろうか。いや、婚約者を別人で用意するのが一番問題ではあるのだけど。混乱しきりで、何をどう納得させたらいいのかわからなくなってきた。


さて、飲み込めていないが一度話を戻そう。

なぜ一年も子爵令嬢を放置する次第になったかというと、そも、その婚約自体、祖父母、つまりは父の両親があまりに潔癖で女性を寄せ付けず仕事ばかりの息子を危ぶんでとりつけたものだったそうだ。何度も見合いはさせたものの、令息のすげない態度に引き合わされた令嬢たちはうまくやっていける自信がないと辞退続き。いよいよもって、婚約という強硬手段に出てしまったのである。

しかし当人は寝耳に水、伯爵家に相応しい相手でなければどうするのかと両親に直談判したものの撤回はされず、挙句よこされたのは評判の悪い娘。腹立たしさに締め出して、両親に再度文句をつけようと思ったがふと、一つの考えがよぎった。


どうせこの婚約を白紙にしても次のあたりをつけて別の縁談を寄越してくるだろう。であれば、ほとぼりが冷めるまで放っておき「付き合いをしてみたが相性が悪かった」と理由をつけて撤回した方が時間稼ぎになるし、煩わされることもない。令嬢のことをろくに観察をしなかった彼はまさか彼女が家から見放されて迎えもよこされないとは考え付かなかったのだ。本邸から離れた領地に住む両親に考える期間を設け、婚姻までは待ってもらうと手紙を送り、そしてしばらくまた仕事に没頭し子爵令嬢のことはじっくり考えることもなかったそうだ。


そして子爵令嬢の方はというと、代官であるクリムト伯はやつれて身体に合わない古いドレスをきた娘が働かせてほしいと頼み込んできたのに何かを察して、使用人として扱いつつも気を配ってやった。生家では冷たい地下室に襤褸のシーツだけの寝床、食事は2日に1度という暮らしをしていた令嬢からは望外の喜びだった。同僚たちも優しく、穏やかな主、このままずっとここに仕えるのも悪くないと思っていた先、思わぬ再会をする。


「あなたも知っての通り、アル様は領地をあちこち回って代官様が横領をしていないか、問題はないかの確認の視察にいらっしゃるの。それで見つかってしまって、問い詰められたのよね。凄いわよね、私はアル様のご尊顔なんてまったく覚えていなかったのに、一目でばれてしまったのだもの」

「まず、問い詰めるより先にするべきことがあったと思いますけど……」

「そうかしら? ええと、そう、それで私はその時に初めて知ったのだけど、汚名が雪がれていたみたいなの。で、お世話になった代官夫妻とか仕事仲間の皆さんにも挨拶できないまま伯爵家に連れて行かれて」


父は普段城に出仕している。併せて領地の経営も出来ないことはないのだが、どうしても城にいる期間が多い都合上、領地からの要望や問題をよく検討し拾い上げるというのは難しくなってくる。なので代官をおき、その地に親しんだものたちで改善案を挙げてもらいどうしても伯爵の力が必要となるときに介入する、という形をとっていたのだが、そうなってくるとどうせ小さなところは見えないからと金を誤魔化す人間も出てくるわけで。

力ある伯爵家らしく広い領地をもつグレイソン伯爵家。定期的に各地を回っての視察を行うわけだが、子爵令嬢はその時目に入らぬようにと厨房で仕事をしていたのに令嬢を気に入った代官に呼び出され残念にも再会を果たしてしまったのだ。


そして、不幸中の幸いは二つあった。

ノードン子爵家のお家乗っ取りと従姉妹の所業が明るみに出たこと。

グレイソン前当主夫妻が真っ当な判断をしていたことだ。


まずは前者、すっかり代行の立場を忘れて子爵気分だった叔父は王家主催の舞踏会にて世間話としてこう持ちかけられた。


「ご令嬢と伯爵の子が領地を継ぐことになったのですか?」と。


とんでもない、自分が子爵なのだから次代は娘かその子であるとやや憤慨しながら返すと、話を振った男爵も周りの貴族たちも怪訝な顔。何がおかしいのかと問うてみれば、「どうも何も。いくらご令嬢の評判が悪くても、当主は彼女だろう?」と物を知らぬ子供でも見たような顔で男爵は首を傾げた。

そう。この国では女でも当主になれる。しかし、当主になれるのは「直系の子」だけなのだ。なれば叔父にも子爵位は継げる……と思うが、大きな間違いだ。すでに当主の座は彼の兄に渡っており、その直系といえばリリィベル・ノードンただひとり。だからこそ貴方は当主代行なのだと懇切丁寧に説かれて、子爵気取りはやっと自分の過ちに気がついた。正当な後継者を不当に虐げ、我が物顔で財産を食い散らし、挙句家から追い出した。これを乗っ取りでなくて何と言おう。「当主代行」に任命されていても、叔父は、もはや男爵でさえないのに。はくはくと口を動かしてあたりを探るも、叔父の大きな声はもう周りに届いてしまった。舞踏会の後、彼が役人から呼び出しを受けたのはいうまでもない。


それから芋蔓式に叔父家族の悪行が明らかになった。そもそも、ずいぶん昔からリリィベル・ノードンその人の姿を見たことがある人間はいなかった。日夜違う男と遊び歩いているとしてもそろそろ2巡目になるのでは、という頃なのにうしろくらいところのある男たちはそれらしい娘を一度も見ない。

それで今回のことだ。もしや令嬢はとっくに亡き者なのではないかとさまざまな憶測が飛び交い、かねてより美しさはあるがいつまで経っても行儀の身に付かなかった従姉妹は自分の遊びを押し付ける相手を失ったことで化けの皮が剥がされた。家族全員揃って元の生活に元通り……となればどれだけ幸せだったろう。庶民が貴族の身分を詐称した罪は存外重い。


そして、二つ目。きちんとした知識を備えたグレイソン伯爵前当主は従姉妹ではなく、きちんとノードン子爵令嬢と婚約を結んでいた。

というのも、かつて彼女の両親たちが壮健だった時に家族の睦まじさを見ており、よほどのことがあっても素直に育っていくだろうと思っていたのだ。

婚約の話を持ち込んだ叔父は「(礼儀知らずと)口さがないことを言われる娘ですが、全く違う。気立てのよいいい娘です」と自らの子を売り込んでいたのだが、それを「(男遊びがひどいとか)口さがないことを言われる娘ですが」という理解をした。だって当然だ、貴族でもない娘と婚約を結べと言われているとはまず考えない。


と、いうわけで。結果何の悪いところもない娘を叩き出し、長い間行方知らずになっているということが発覚し、両親に大雷を落とされ、偏見に塗れた先入観に我がことながら呆れ返った父はちっとも見つからなかった令嬢が足元にいたのを知って大慌て。ある程度の事情聴取を済ませてこれまた大急ぎで彼女を屋敷に送り、人間らしい、ではなく、貴族らしい扱いをするようにと使用人一同に厳命した。


……しかし、これは悲しいことに。

たった数年でも酷い生活が日常になっていた子爵令嬢にとって、取り戻した贅沢はひどく居心地悪かった。まるで伯爵夫人のように扱われ、指先の汚れさえ許されず、贅沢な食事を並べられては胃が受け付けず、残すばかりの日々。裏の事情をよく知った彼女はそれを心苦しく感じていたという。しかし、暇を苦痛に思って働きたいと口に出せば憐れみの眼差しを受け、休んでいいのだと天井を日がな一日眺めることになる。代官屋敷で働いていた時に、虐げられなどしなかったのに。もはや、貴族令嬢は働かないもの、という常識が遠くになってしまった彼女にとって本来の環境はただ戸惑うばかり。

花を育てたいとか、読書をしたいとか、刺繍をしてみたいとか。そういった淑女らしい暇の潰し方を提案すればいいのだとわかってきた頃には伯爵を含めた屋敷の者たちと普通にやり取りができるようになってきたという。


「で、それから三ヶ月くらいだったかしら。アル様の態度が何故か柔らかくなっていって、名前で呼び合いたいと言われたの。グレイソン伯爵様から急にアル様なんて、と戸惑ったけど、私、否とは言わせてもらえなかったし」

「君の意思は確認したが!?」

「私がアル様とお呼びするまで圧をかけることが意思の確認にあたるのですか?」

「あ、圧はかけていない……」

「アルフレッド様とお呼びしたらアルだ、アルだ、と仰っていたではありませんの」


焦る父にまるで子供のいたずらでも咎めるように眉を下げ、頬に手を添える母。思い返すと父の重すぎる愛情を受ける時、母は決まってこういう顔をしていた。子供ながらに照れているのだろうなと思っていたのだが、こういう話を聞くとただ純粋に母は困っていただけなのでは?という疑念が強まる。母の言葉に力なく項垂れる父、母との日々もあるのか若々しさを失わない人であったが、この晩餐で一気に老け込んだのではと感じるほどだ。


父は真面目な人だ。そして過去は継いだばかりの爵位を前に緊張して、その潔癖さに磨きがかかっていたのだろうと思う。その実直な父にとって、酷い環境に置かれても腐らず、人を憎まず、ただ穏やかに前向きに日々を過ごす子爵令嬢を見るうち、本当の恋慕が生まれたのだと思う。そして、彼女の意識はまだ「伯爵様」だったというのに、その温度差を埋めず親密になろうとした。それを想像すると中々に居た堪れない。


「で、それからまた少し経って、虫のいい話とはわかっているが君と正式に夫婦になりたい、とお話があったわ」

「本当に虫のいい話ですね」

「でも私安心したわ、この方にはちゃんとそういう自覚があるんだって思ったの、その時は」


もともとノードン子爵令嬢に帰れる場所はなかった。叔父家族のこともあり、一時ノードン領は王家預かりとなっていたからだ。それに、彼女からは当主としての教育は取り上げられてしまっていた。今から学んだとして、学のない小娘が領主であるということに不満を持つ領民も居よう。おまけにもう屋敷には彼女の両親が生きていた頃の使用人は残っておらず、心細い中でやっていくことになるのだ。であるのならこのまま伯爵夫人となり適切に育てた自分の子に委ねるほうが良い。そう判断して、子爵令嬢は伯爵の申し出にあっさりと頷き、何でもないことのように婚姻届にサインした。


しかし、父から見たそれは、育てた恋情に応えてくれたように映ったのだろう。


「その晩、寝室に招かれて、嫌なら拒んでくれと言われたの。だから嫌ですとお断りしたら心底傷ついた顔をされてしまって。それで分かったの。ああ、この人は自分が報われたいだけなんだ、って」

「…………」

「面倒くさかったから次からは月のものでもない限り拒まなかったわ。使用人のみんなからも誤解されていて、あたたかな目で見られていたし」


そこでやっと、彼女は同情でなく、伯爵が自分を望んで婚姻を申し込んだのだと気が付き、若干申し訳ない気持ちになったのだという。だがしかし、先述の理由から伯爵に嫁入りするのが最善手であるように思えたし、彼女にはやりたいこともなければ、連れ出してくれと焦がれる男もなかった。なのでその食い違いごと受け入れてそうして今に至るのだという。

その温度差で生まれて、自分は本当に良かったのだろうか?相思相愛と信じて疑わなかった両親の真実を前にサミュエルはなんとも気まずい心地だった。いや、本当に仮面夫婦で割り切って、世継ぎだけを相手と作るという貴族は全く珍しくないのだが。


「君は……私を愛してくれていたんじゃ……?」

「アル様が愛していると言ってほしい、とお望みになったから復唱しただけです。口吸いも同じことですわ」

「……言って、くれたら」

「より一層、放っておいてはくださらなかったでしょう?」

「……」


憔悴した様子の父が掠れた声で尋ねればまた母は困ったように眉尻を下げた。これに関しては流石に父が哀れだ。愛を乞うてそれを返してもらえたのなら、向こうに情があると考えて当然。まさか鸚鵡返しをして、要求に応じているだけとは思うまい。いくら面倒だったとはいえ、拒んだほうが良かったのではないだろうか。父に同情の視線を向けていると、母がこちらにふわりと微笑んだ。


「あなたの教育にも良くなかったから、ちゃんと睦まじい夫婦にみえるよう振舞いました。だからサミュエルは私に相談してくれたのよね?とても嬉しいわ」

「……母上」

「なあに?」

「僕は、父上によく似ていると言われます。そんな……憎い男によく似た息子で、僕のこと、嫌にはなりませんでしたか」

「まぁ、憎いなんて。サミュエル、それは勘違いよ。アル様のことは嫌いじゃないの」

「っ、リリィ……!」


項垂れていた顔を勢いよくあげ、瞳を輝かせながら母を見る父。しかし。


「だからって好きでもないけど」

「ぐはあっ……!」


この夜最大のダメージを喰らい、再起不能となった父はついにテーブルに突っ伏した。使用人たちもおろおろと互いを見合わせるのを見て、居住まいを正して母を見る。


「母上、僕、ちゃんと話し合うことを大切にしたいと思います」

「そうね。それが良いわ」

「はい。そして父上」

「……な、なんだ」

「僕の結婚式の挨拶は母上に頼むので座っててください」

「…………う、む」


憐れみはするがそれとこれとは別。ばっさりと言い捨てると納得もあったのだろう。悲しげに目を伏せながらもゆっくり頷いた。明日から自分は両親をどう見ていけばいいのだろうと思い悩んでいると、穏やかな母の声が自分を呼んだ。


「サミュエル」

「はい」

「どれほどあなたが誠実で、公正であろうとも、いつか誤ることもありましょう。人間なのです、それは致し方のないこと」

「はい」

「そして、その起きてしまったことはなくなりません。あなたが謝罪し罪を償ったとしても、相手の中にはずっと残っている。罰とは罪を犯した人間を救うためにあるものだし、謝罪は赦しと一体ではないのです。謝る権利こそ私たちが持つ精一杯のもの。相手には許す義務など全くないのです。それをどうか、忘れないでね」

「……はい」


その瞳には憎しみも悲しみもない。けれど母には許していないことがきっとたくさんあるのだろう。そして、それを改めるつもりはないのだというのも分かった、狭量だと言われてもそれが母の矜持を守るものなのだろうと自分は思う。つい、拳を強く握り込むと、明るい声で母が笑った。


「ふふ、可愛い娘が待ち遠しいわ」

「もう、母上!」

「…………」

「……アル様。いつまでも拗ねていないで笑ってくださいな」

「……この状況で、どう笑えというのだ。君からの愛が見せかけだと思い知って、息子からも軽蔑されたんだぞ」

「好きではないけど、もう家族ですもの。今更離縁など致しませんわ」

「そうです。尊敬の気持ちは相当減りましたが、それでも父上が良き領主であり、僕を慈しんでくださったことは変わりませんよ」

「おまえたち……」


喜べばいいか、悲しめばいいか、迷子のような顔で父はこちらを見た。そして、少しの間迷うように母を見つめて、すっかり縮んでいた背筋を伸ばし彼女に向かい合う。


「リリィ……いや、リリィベル」

「はい」

「改めて、すまなかった。これからは君の好きなように振る舞ってほしい、君の願いならなんでも聞こう。……離縁や浮気以外」

「父上、そういうところです」

「い、いや、ほら、家の醜聞があるとおまえの縁談もだな、ほら……」

「わかりました。では旦那様。まずは何かとくっついてくるのは控えてください、動きにくいです。耳元で喋るのもやめてください、周りの目が痛いです。あと私のことで何かと悋気をおこさないでください、怖いです」

「………………了解、した」

「見苦しいな……」

「おまえ、父に向かって……」


息子からの眼差しに冷ややかさが宿りはじめたことに父は目を逸らした。確かに、母を溺愛する父は人間らしくて、恥ずかしいとは思っていたけど嫌いではなかった。しかしそれも一方通行で過去には酷い扱いもあったのなら、同じように見ていくことは難しい。

だけれど、自分の父だし、やはり尊敬する人で。こうとやかく言う自分だって母の何もかもを知らなかった。だけど、情はまだ確かなまま。だから、まだ家族でいられると思うのだ。心に苦さと温かさを感じながらサミュエルは静かに笑う。


さてかなり脱線してしまったが、そもそもは自分の意中の令嬢との付き合い方について。明日からはより一層、話し合いを頑張ろう。冷めた紅茶を交換してもらいながら、サミュエルはしみじみとそう思った。


誤解が解けてお互い幸せ夫婦に…というのはよくあるハッピーエンドですが、温度差があると大変だよな、という話でした。あと、ラブラブ夫婦にもざまあで離縁、にもならないこともあるんじゃないかな、みたいな話。


3/30 日間ランキングありがとうございます。光栄です。

いただく感想でご心配いただいていますが、彼ら家族は別に離散もしなければ仲が冷え切るわけでもなく、適切な距離でこれからも家族としてやっていくと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] わかるわー 謝って罪悪感をなくすのは勝手だけど、謝られた相手がだからって謝罪を受け入れても、許すかは別の話ですよねー=_= 傷ついたのはコッチなのに、謝って自己満足で勝手にご解釈して「謝っ…
[良い点] 息子が真実を知り、誤解なく受け入れた事。 妻が夫からの仕打ちを許していない(現在進行形)事。 [気になる点] 温かな目で見ていた使用人達が、自分達がとんでもなく誤解していた事を知らされた今…
[一言] 深いお話ありがとうございます。 リリィベル様の発言の全てにうなづきながら読みました。 面白かったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ