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眠れないから書いてみる  作者: 梶野カメムシ
7/7

7.正月と火葬と締めくくり(完)



 三が日は何をするでもなく、腑抜けたまま過ぎてしまった。

 ゲームをしても気晴らしにならず、三十分も続かなかった。唯一集中できたのがこのエッセイで、皮肉にも母を思い執筆する間だけは、母のことを忘れられた。

 

 母は当然のように正月の用意をしていた。おせち用の食材を買い揃え(買い出したのは私だが)、餅も大袋で見つかった。何故か小豆と餅米があり不思議に思っていると、妹が赤飯の材料だという。一月と二月、私と妹の誕生日には、母が赤飯を炊いていたことを思い出し、胸が熱くなった。


 さすがにおせちは無理だったが、妹は雑煮を作った。澄まし汁に牡蠣を入れた、福岡出身の祖父由来の味だ。こちらも引越しまでに習っておきたい。

 二人ともテレビに興味がなく、さして会話もなく、ただ淡々と食するだけの夕食だったが、誰かが傍にいるのはそれだけで救われる気がした。



 4日、火葬の日。

 三日ぶりに喪服に袖を通し、朝からレンタカーを取りに行く。

 兄弟が集まる際、運転役は常に私だ。かつては父の役目だったが、死後は車を手放し、レンタカーで対処している。年一度の家族旅行でも、運転手は私一人だ。他人の命を預かる行為は可能な限り避けたいのが本音だが、運転できる者が他にいないのだから仕方ない。

 それを知ってか知らずか、母はきまって乗車時に「ありがとう」「お願いね」と声をかけて来た。私を労う存在がもういないことを考え、しばし出発が遅れた。


 市内に一つしかない斎場は、川辺の霊園に併設されていた。斎場は必要だが生活圏には欲しくないという人間の勝手を思い出す。年明けの斎場は予約が多く、僧侶も何人も行き来して、人違いをしそうだ。

 母方の親族が集まった頃、霊安室から母の遺体が運び込まれた。改めて喪主が呼び出され、焼き場の名札を確認する。遺体の取り違えもあるのかもしれない。

 

 住職の舎利礼文のなか、最後の焼香が終えると、棺は開くことなく炉の中に消えた。あっさりしたものだった。

 火葬が終わるまでの二時間は、近場のイオンに移動し、フードコートで食事を済ませた。話題は普段のもので、葬式の空気はすでになかった。私自身、これで最後という気持ちが先立っていた。三日休んだおかげだろうか。


 唯一出た母の話題は、遺骨の予想だった。病気は山ほど抱えた母だが骨は丈夫で、骨折も入れ歯もなかった。リューマチによる骨の変形には最後まで苦しめられたものの、骨はしっかり残るんじゃないか、というのが皆の予想だった。首に入れたボルトや心臓のステント、外されたはずのペースメーカーも気になった。


 炉から運ばれた母は、果たしてしっかりと骨を残していた。綺麗な歯の一本まで拾えるくらいだった。そして首元にはやはり、小指ほどあるボルトが数本。

 父の死後ほどなくして、母は突然、歩けなくなった。頸椎の異常による神経の圧迫が原因で、首を支えるために七本のボルトを入れた。危険な手術で成功率は五割を切っていたが、無事手術は成功した。それでも歩行はバギー頼り、家でも手すり必須の生活となったが、寝たきりだけは免れた。あれから五年近く。最近の不調もおそらくは頸椎から来ていたのだと思う。二度目の手術は不可能だと医師には言われた。年齢を考えればもっともだろう。

 

 ちょうどいい頃合いだった。この先、寝たきりの未来しかなかったとすれば、そんな風にも考えられる。母は最期まで恵まれた。天寿を全うした。

 そんな、外向けにこしらえた説明が、自分を慰めるための言い訳が、焼け焦げたボルトを見て、ようやく胸におちた。

 母は長い闘病レースを、ゴールテープを切って終えたのだ。自身、「こんなに長く生きるとは思わなかった」が口癖だった。リタイヤではない。


 神妙に御骨を拾いながらも、これはもうただの骨だと思っていた。私の母はもう心の中にいた。骨壺の意外な重さに驚いたくらいで、さしたる感慨もなく、斎場を後にした。

 年をまたぎ続いた母の葬儀は、これで終了した。



 帰宅した夜。

 私は覚悟を決め、ラインを立ち上げた。締めくくりに母とのメッセージを振り返ろうと決めていたからだ。フラッシュバックを恐れ、ここまで避けてきたが、今なら受け止められる気がした。


 母がスマホを買ったのは父の没後で、最初は「ラインなんて無理」と(かたく)なだった。それでも習うより慣れろと続けたところ、最後には私より絵文字を使うようになった。私とは毎日のようにやりとりしていた。


 最後の文面は私が送ったもので、「調子どう?」(12時)、「とりあえず直でいくから」(19時)。今は既読がついているが、母は未読のまま逝った。

 電話も一時間毎にかけている。母の死亡推定時刻は17時だったので、コールは聞こえていたかもしれない。当時の焦燥が蘇り、唇が乾いた。それでも構わず、メッセージを遡った。


 母のメッセージの大半は、スーパーの買い物指示だった。買い出しは毎日だったから当然だ。仕事前、或いは仕事後に買い物し、実家の冷蔵庫に仕舞うのが私の日課だった。品目を見れば、母がどんな料理を作ったかもおよそ思い出せる。


 指示の後には決まって、私の「買えたよ」報告と、母の「ありがとう」の一言。感謝の言葉は、何年も何年も繰り返されていた。哀しみより深い満足感を覚えた。


 そうだ。私は何年も母に尽くしてきた。

 足が()ったと深夜に呼び出されたことも、通院の帰りに歩けなくなり迎えに行ったことも二度や三度ではない。これがなければ執筆に集中出来るのに、と考えなかったと言えば嘘になる。

 それでも、一度も断ったことはなかった。母は、ずっと感謝してくれた。疑うべくもない、これはその記録だ。幼い頃に夢見た「本当の母」を得た私は、最後まで孝行を果たした。母にとっては出来の悪い息子だったろうが、それだけは胸を張れる。


 母の死にまつわる私の独白は、以上となる。

 そろそろ悲劇の主役を卒業し、冴えないおっさんに戻りたいと思う。

 今後も(おり)に触れ、母のことを思い出すだろうが、その数は減っていくだろう。いずれは思い出すことが喜びに変わるはずだ。これは悲劇ではない。誰にでも訪れる日常なのだから。



 最後に、死の喪失感を和らげるライフハックを見つけたので、書き残しておく。

 元気な子供に触れることだ。自分の子供でなくてもいい。動画でも構わないと思う。私も独身だが、屈託ない声や笑顔に驚くほど癒やされた。「死を補うには生」と書くと単純だが、本当に効く。その折はぜひ試していただきたい。



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