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眠れないから書いてみる  作者: 梶野カメムシ
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2.母と私



 マザコン気質の私だが、溺愛されたからではない。むしろ逆だ。

 私は母から虐待を受けていた。


 成績はよかったが、忘れ物が多く、規律や団体行動ができない子供だった。今ならADHDなど名前がつきそうだが、当時は「ルールを守れない子供」で、それが厳格な母には許せなかったのだろう。母は名門短大卒、金融関係の仕事を経て専業主婦になったお嬢様で、潔癖のきらいがあった。大きくなってからも「あんたとは(常識の)物差しが違う」と何度も言われた。

 

 虐待が悪化したのは、兵庫から大阪に引っ越してからだ。

 私はすぐ泣く子供だった。母に怒られるごとに泣き、母は泣き止ませようと叩く。叩かれるのが痛くて泣く、という無限ループが夜通し続き、近所から苦情が来たこともある。父は多忙で顔も思い出せず、幼少時は母に怒られた記憶しかない。寝る前に「本当の親が迎えに来る」ことを願うのが、私の日課だった。

 

 引っ越しで友人が消え、この性格から(容姿のせいだとずっと思っていたが)クラスにも馴染めず、家にも居場所のない私が逃げ込んだ先が図書館だった。今の私があるのは、間違いなく母のおかげだ。本を読んでいる間だけは孤独を忘れられた。

 

 後に知ることだが、母の躾が苛烈になったのには理由があった。

 引っ越し先は父の実家で、祖父の他、叔母四人と同居だった。子供から見ても口さがない小姑たちとの共同生活が母を追い詰め、そのはけ口が私だった。泣きじゃくる子供を止めるには、親が泣くのが一番効くことを私は学んだ。


 結局私は図書館で育ち、親に期待しないオタク男に育った。

 二度の受験に失敗し、高校では成績は落ちる一方だったが、小説を書くことを覚えていたので気にならなかった。中学に上がった頃からは、流石に親に叩かれることも少なくなった。


 虐待が減った理由はもう一つある。母がⅠ型糖尿病を発病したからだ。

 そんな家系でもなく原因は不明だが、入退院を繰り返す母に家の環境は激変した。私と妹は結婚して家を出た叔母を頼らざるを得ず、弟は母の妹に預けられた。私個人は叔母への悪感情はなかったが、妹と弟は思うところがあったらしく、いまだに父方の親戚筋を嫌っている。


 家から消えた母は、奇妙だが母としての存在感を増した。苛烈な性格が和らぎ、優しくなった。会えない時間の影響や家族に迷惑をかけている負い目もあったのだと思う。ただ、私の感情はとっくに冷えていて、母を想う気持ちはあれど、もう期待はなかった。子供ながら家の危機に対応するだけだった。

 

 それが変わったのは、母が謝ったことだ。

 高校生になっていた私に、幼少時の虐待を、母ははっきり口に出して謝罪した。


 聞いた直後の感想は、正直「今さら」だった。

 もう人格は形成されてしまった。変わることなんてない。砂漠に多少雨が降ったところで、緑化なんてしない。そう思った。返事も「別に」と愛想なく答えた。

 その雨が、止むことなく続くとは、考えもしなかった。



 死んだ母の部屋の壁には、古い竹製の定規が吊られている。

 洋裁を習っていた母が、嫁入り道具に持ってきたものだった。指が衰え、もう使うこともなかったはずだが、最後まで捨てなかった。


 子供の頃、「物差しが違う」と叱られるたびに見上げていた定規だ。

 救急隊が母を囲むのを見守りながら、何故かそんなことを思い出していた。

 


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