第1章37話【授術揺籃】-アーテル、心内に-Ⅲ
捻り曲がり垂れ下がった右手は意思を持たず堕落する。振動する肺の起伏は、日頃よりも落ち着きを求められ。強張る頬。その額から汗が、静かに滴った。
調整は常に完璧だった。不安定になる事は無く、程よく馴染んだからだ。
無機質な室内に一つの明かり。これと言って特徴の無い部屋に今日も赴く。無機質とは言っても、観葉植物程度の物は置いてある診察室で、問われる解にそれと無く答えるだけ。磁力で浮遊する円形の椅子に腰掛けると、ふぅと一息、心の騒めきを鎮めさせる。そんな室内。肌がヒリつき、焼けるような何かを常に感じていた。
それが後の実験に関わっているとはこの時、考えを回していなかった。しかし、覚悟は持ち得ていたのだ。全てを受け入れ、変格する覚悟が。
全ては、瞳を閉じた後、終わっていた。
名など問うた事は無い。静かに眠る少女に、同情すらも獲れなかった。稲穂のような黄色のアーテルは眠る少女に包まれ、静かに揺れていた。繋がれる機器の数に、制限は無い。それ程に、確執たるアーテルを持っているのだ、この少女は。
n回目の思考?実験。既に幾度か行われたそれは、数える事すら億劫に成る程、時が経ったのだろう。
ある日、ある時、自ら志願した拡張実験は、奇跡的な成功と記録された。既に確定した肉体への授術。誰しもが可能性を見失っていた。
ーー異例の成功。
若い肉体を持ってしなくとも、授術はできてしまった。それが始まりの壱きっかけにすぎない。しかし、その一歩は、大きな歯車へと昇華した。
ストベニーツァの意思とは無関係に………。
→→→
「やるわね。貴女。確か……ヴァルエ、そう、ヴァルエね。覚えたわ。」
「……。」
クルリと辺りを見回すヴァルエは、誰かを探すように……。
その紅く燃ゆる瞳は、目の前のストベニーツァを映していなかった。
それからパッとこちらに向き直ると……
「ーー君、誰だっけ?ーーんーと、、あー。いや、大丈夫。今思い出した。確か、あの時の警察ね。邪魔。ーー奴を殺しとかないときっと碌な事にならない。それだけは分かる。だから……早くどいて。じゃないとほんとに君まで死んじゃうよ?」
呆然。何を言われたのだろうか。ストベニーツァは理解ができなかった。いや、理解したく無かった。
ーー深く深く滑落した失意。
彼女は既に私など見ていなかったのだ。相手にされていない。まるで元から存在していなかったかの様に。
何度目だろうか。自身を見失ってしまう程、溢れる憎さ。ーー憎悪。
そして口にした言葉が、侮蔑。自身が最も嫌悪するモノを、発して…。
「記憶に関する媒体すら代償として失われてしまったのかしら?仕方ないわよね。穢れた血族は、統べるべきでは無い。そうでしょう?ーーティンザニィン。」
燃ゆる焔。ゆらりゆらり揺れるその蒼は、ヴァルエの周囲を纏い、包む。そのカタチを見届けるように細めた瞼で追う彼女は、一体何を映しているのだろうか。
「ーーふざけるな。……ふざけるんじゃないわ。」
お前がそんな顔をするな。お前がここに居て良い訳が無い。居るべきじゃない。
緑光。生み出された粒子はアーテルに反応し昇華する。それは水刃の様に広範囲に散り、生命に対し刃を向け…、ヴァルエを仕留めんとし……。
彼女は、軽々と飛んで避ける。その先、待っていたのはーー緑碧。突如光り輝き……
ーー閃光。
→→→
ストベニーツァが逆情したかと思えば、寸の出来事。眩いアーテルの瞬きが、瞳奥まで反響する。
まさか、ただの目眩し??
息苦しい、熱い?
肌身で受ける劈く痛み。身体の芯に針を刺されたかの様な感覚に絶句する。
態々殺す為に練られたかの様なアーテルは確かにヴァルエを蝕んだ。
ボヤける視界の中、微かに見える粉塵。響く頭の中にキーンと高い音が木霊する。その状況を鑑みるに間接的に攻撃を通された事を実感した。私は今、騙されたのだと。ストベニーツァは始めから本気では無かった。手加減をしていたに過ぎないと。
ーー果たしてそうだろうか。
彼女、ストベニーツァは片腕の機能を半永久的に失い、今も私に睨みを効かせている。
何故始めから全力では無かったのか。制約があるのか、縛りがあるのか。
だが、今のヴァルエにとって、そんなのどうでも良かった。
彼女のアーテルが何であろうと、どんな戦略を使おうと、ヴァルエにとっては壱愚策に過ぎないのだから。
頭皮を掻き乱していた左手を抑えて、ストベニーツァをその瞳で憎たらしく捉える。
響くような閃光。まただ。また同じ攻撃を。
身を翻し難なく交わす。
共振、共鳴の様な妙な感覚に、尾が立ち、身の毛が余立つ。
ーー気持ち悪い。
ただ一つの感情が先行する。そんな気分も人知れず酔い知れた。そのアーテルとの共感覚の様な代物は、自然とヴァルエに還る。
刹那ーー宙に浮いた身体を掠めたのは、覆う様な青い青い氷刃。
「ーーだれっ!?」
知らない攻撃。知らない色。
その憧憬に今、背筋が凍る感覚に襲われる。左脚を地に付け、着地すると同時だった。
左右に迫る氷刃壁。その先端は確かにヴァルエの胴を裂かんとーー構えられる。
利き足を踏ん張………。れない。痺れ、燃え滾る様な熱さ。頬を歪め、それでも前を向く。
慣れない左脚を駆使して、正面に飛び込まんと再び太腿、脹脛と徐々に力を込め………。
動かない!??足元に視線を向けると、緑色。緑碧によって固定された左足が……。
悪寒ーー。瞳をストベニーツァに向ける様に戻し………。
彼女は嘲笑っていた。垂れた右腕をそのまま左手と同じく構え、何かを解き放つかの様に。その紫髪を輝かせ、
ーー嗤う。
変わらない景色、いや、正確には正面に緑光が、ヴァルエを包み………。




