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【私家版】探偵都市トキオ~高円寺一郎の事件簿  作者: 中田誠司
名もなき詩人 ~高円寺一郎の罪と罰~
9/55

 空木は、いつもならこんな寒い日は部屋から一歩も出ずに過ごすものだったが、この日に限っては、厚着をして身支度をすると、いそいそとどこかへと出かけるのであった。小脇に抱える一冊の雑誌は『帝都奇譚』。向かう先は、むろん、上野公園である。

「ゴローくん」

 彼は、いつものように、大きな背中を丸め、ベンチで、熱心に書き物をしていた。拾ったノートに、ちびた鉛筆でびっしりと文字を書き付けている。

「新作?」

「……というか……いつも言葉があふれてきていて……どうにかして、それを外に出さないと――って。僕、やっぱりどこか病気なんでしょうか」

「芸術家はみんな病気さ」

「空木さんも?」

「とびきり重い」

 苦笑しながら、雑誌を手渡す。

「ごらん。ゴローくんの詩が載ってる」

「本当に?」

 空木は、満足げに微笑んだ。この青年の才能の開花を、自分が手助けしたのだ。無責任だなどということがあるものか。

「空木さん、僕……」

「気にしなくていいよ。ゴローくんには本当にそれだけの力があるんだから」

「…………」

「きみが、最初にぼくに書いてくれた詩があるね」

「はい」

「すごく感動したんだよ。何度も言ったけれども」

「……ただ、ぼくはお手伝いしただけです」

「相手の心の中のひっかかりや疑問の応えが、自然とわかるんだと言ったね」

「ええ」

「そうだろうとも。いちばん好きなのは、『かの君は、ゆるべない孤独の星。銀河の端と端で、かすかな電波でひびきあう』というところだ。……これも話したね」

「…………」

「ゴローくん。ぼくはね、二十代の頃はそりゃあひどいものだった」

 空木は、ぽつぽつと、語りはじめた。

「ひどい鬱だったんだ。自分が、まったくくだらなくて、何の役にも立たないものだと思っていた。周囲の人間がすべて、ぼくのことを嫌っているようにも思えていたし」

「…………」

 冬の空の、張り詰めた空気は澄んでいる。ゆっくりと、ひこうき雲がそこを横切っていく。空木の耳の奥で、遠い昔に聞いた、あの声が甦った。しかしそれは、何年の時をへだてても、褪せることのない声だった。

(いいかい、空木くん。きみがすでにここにいる以上、きみの存在が無意味だなんてことはない。きみは許されているんだ。誰かがそれを否定したとしても――)

「でもそうじゃない、ってぼくは教えられて」

(否定したとしても、ぼくがきみを許そうじゃないか)

「それで、やっと人並みに生きられるようになった」

「…………」

「ぼくにできるのはこのくらいだけど、これがきっかけになって、ゴローくんのことをみんなが知ってくれるようになれば、それはきっと支えになるよ」

「空木さん。僕は……こわいんです。自分が誰かもわからない。でも、ときどき、断片的に夢に見る場面は、なにかとてもおそろしい……」

「えっ。なにか思い出したことがあるの」

「そうじゃ……ありませんけど……誰かに、ずっと命じられて、僕は、なにか、すごくおそろしいことの手伝いを……」

「そのとおり」

 嗄れた、しかし、しっかりとした声が、割り込んできた。

 ひゅう、と、木枯らしが、すっかり葉を落した公園の木々の枝をふるわせる。冷たい風に、インバネスの裾をはためかせ、ステッキをついた老紳士が、ふたりをねめつけていた。

「あ――」

 空木は、ゴローの瞳に、怯えの色が走るのを見た。

「詩人きどりとは恐れ入るな、五十六号」

 老紳士は言った。

「あのう、貴方は――」

「これは失敬。空木惚介先生ですな。いつもご著書を拝読しております」

「……それはどうも……」

「そうか、あの雑誌は、先生が口添えしてくださったのですな。それで合点がいきました」

「貴方はもしかして、彼の身元を」

「知っているもなにも」

 かっかっかっ、と、老人は愉快そうに笑った。

「……良いことを思いつきました。空木先生。私の息子を可愛がってくださったお礼に――」

「む、息子?」

「私の屋敷で、晩餐にご招待しましょう」

 白い口髭の下で、にっ、とアルカイックな笑みがつくられた。片眼鏡の奥の瞳が、研いだ刃物の光に輝く。

「あ、貴方はいったい」

「おお、申し遅れました」

 ばさり、とひるがえった黒いインバネス。

「カリガリ博士――この名をいずれ、トキオの市民は大いなる畏怖とともに、ヴィランズ名鑑にて目にすることになるでしょう」

 カッ、とステッキが地を叩いた。

「我が名において命ずる。56号! その男を捕らえよ!」

 ゴローの身体が、びくん、とふるえる。すでにその目は、あのやさしい詩人のものではなかった。


 *


「鉄の寝床から」 上野ゴロー


 そのとき ぼくは生まれて

 そのとき ぼくは生かされ

 見上げるは、遠き星々

 ゆらゆらと、水面の向こうに

 鉄の寝床から 

 父なるものの声を聞く

 見上げるは、流れゆく雲

 ゆらゆらと、水面の向こうに

 父なるものは ぼくに命じる

 問われるままに ぼくはこたえる

 そのとき ぼくは生まれて

 そのとき ぼくは生かされ

 見上げるは、遠き星々

 鉄の寝床から 

 あの影の向こうを、

 車が走り、人が行き交い、列車が渡り

 ゆらゆらと、水面の向こうに


(『帝都奇譚』大正九十一年十二月二十四日号より抜粋)


 *


「高円寺さん!」

 警官のひとりが、探偵を呼び止めた。

 まさに、彼は熊谷警部とともに、パトカーに乗り込まんとしているところだった。

「今しがた。警視庁のほうに届いたんです。高円寺さん宛で」

 それは、クリスマスカードのようだ。深い緑地に銀色の「メリィクリスマス!」という文字が躍っている。手に取ると、ふわり、と花の香りが、高円寺の嗅覚をくすぐった。――ジャスミン。

「何を悠長なことを!」

 警部が、その若い警官を叱った。が、高円寺はそれを制して、

「いや、これはまさにレディ・ジャスミンからです」

「な、なんですと!」

 カードを開いて読むうち、高円寺のおもてがたちまち厳しくひきしまった。

「警部。すみませんが、レディのお相手はやはりみなさんにお任せするよりないようです」

「な」

 熊谷警部は卒倒せんばかりに息を呑んだ。

「そ、そりゃ、なにかの脅迫で――」

「ある意味では、そうかもしれません」

 皮肉めいた微笑が、探偵の口元に浮かんだ。

「ですが、かわりと言っては何ですが、警部」

「…………」

「『下水道の怪物』事件は、今夜中に、必ず、解決してみせますよ」

 言いながら、もう、高円寺はきびすを返し、走りはじめている。

「あっ、こ、高円寺さん! わ、わたしはどうすれば……」

 しかし、探偵は、

「よい夜を! メリークリスマス!」

 と言って手を振っただけだった。


「……さん、空木さん」

 名を呼ばれて、目を開ける。

 身体が軋んだ。思わず、呻きをあげる。

「大丈夫ですか。ごめんなさい。ぼくは、カリガリ博士の命令には逆らえない」

 哀しげに、ゴローは言った。空木は、自身の身体が、椅子に坐らされた状態で、後ろ手をくくられているのに気づいた。頭がぐらぐらする。混乱から回復し、状況を把握するのには数秒を要した。そのため、彼はその後に続いたゴローのつぶやきを聞き取れなかったのだ。

「……そういうふうに、つくられているから」

「うう……ゴローくん」

「怪我は……」

「気分が悪い……でも、外傷はないようだから平気だ。……カリガリ博士だって? ヴィランズか。ヤツは一体」

「僕の父です」

「何。ゴローくん、きみ、記憶が――」

「いえ、父にあたる者、と云ったほうがいいでしょう」

 ゴローもまた、身体の自由が利かない状態であるのを、空木は見て取った。だが、空木のように椅子に縛られているわけではなく、ちょうど寝台を起こしたような、奇妙な装置のようなものに、身体を固定されているのだ。鉄のベルトが、彼の胸を縛り付けている。頭の上には、手術室の照明のようなもの。脳波計のようなコードが、彼の頭から数本、伸びているのが見えた。

「ここは、どこなんだ……」

「カリガリ博士のアジトです」

「…………」

 そこは、不思議な部屋だった。

 ズラリと並ぶ、大小さまざま、多種多様なフラスコ、試験管、ビーカーの群れ。薬品棚。てんびん秤。蒸溜器やアルコールランプのすがたを見るまでもなく、それはなにかの実験や研究に使われている部屋に相違ない。

 だが……

(気分が悪い)

 胸がむかむかする。この部屋はなにかおかしい、と空木は思った。なにかが、歪んでいるような、どこか不安定で、落ち着かない気分にさせる。

 ふいに、重々しい音を立てて、鉄の扉が開き、うす暗かった部屋に光が差し込んだ。

「お目覚めですかな、空木先生」

 小柄だが、戒められて自由の効かない身にしてみれば、ただおそろしく感じられる、細身のシルエット。

「わたしの実験室へようこそ」

「……目的は何だ」

「わたしがここから生み出したもので、帝都市民を驚嘆させることです」

 平然と、怪人は言ってのけた。

「全世界がわたしの素晴らしさに喝采し、屈服し、わたしを讃え、崇拝するように」

 くくく、と、邪悪な忍び笑いがまじる。

「……そのためには、ひときわ、人々の度胆を抜き、震撼させるような成果を見せる必要があるでしょう」

 老紳士は、コツコツとステッキをつきながら、ゴローに近付いていく。怪人が白衣を着ているのを、空木は見た。

「それはすなわち、恐怖です。……人の持つもっとも強い感情――恐怖を、最大限に呼び起こすようなものを、わたしは創り、世に放つ。誰もが、カリガリ博士の名を知るようになるでしょう」

「……狂ってる」

 空木はつぶやいた。ごくかすかなつぶやきだったが、カリガリ博士は、聞き逃さなかった。

「黙らっしゃい!」

 ステッキが、したたかに、小説家の頬を打ち据えた。

「空木さんッ!」

「おまえたちがかつて、わたしに投げ付けた嘲笑の、その報いを受ける時が来ただけだ! ……おまえたちが馬鹿にしていたわたしの研究が、ついに身を結んだのだぞ。そうだ……わたしはついに成功したのだ。……誰もが夢見ながら為し得なかった、禁断の――」

 空木の唇の端から、血がひとすじ、垂れ落ちる。

「禁断のわざ――生命の創造に」

「バカな!」

 空木の叫びに、老怪人は、はじけたような笑い声で応えた。

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