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【私家版】探偵都市トキオ~高円寺一郎の事件簿  作者: 中田誠司
名もなき詩人 ~高円寺一郎の罪と罰~
8/55

 ゴトリ、と、マンホールが音を立ててずれた。

 そこから、ぬうと這い出てくる大きな影。

 月の、冷たい光だけが路上を照らす、それは真夜中のことだ。ぴたぴたと、濡れた足音がひびく。そして、ハッハッ……という、なにか生き物の息遣い。

 ――と、道の向こうに、新しい人影があらわれた。角を曲ってきた人物は、おぼつかない足取りを見るに、どうやら酔客か。

「ったくよぉ……」

 ぶつぶつと、何事かを呟きながら、彼は独り、夜道を辿っている。三十がらみの、くたびれたコートを着た男だった。

 突然、けたたましい音が、真夜中の通りに響き渡った。男が、道端のゴミバケツにつまづいて、それを倒したのだ。

「んだよ……こんなトコに……」

 自分からぶつかっておきながら、男は悪態をつき、よろよろとバランスを崩して、冷たいアスファルトにへたりこんだ。大儀そうに、再び起き上がろうとして……

「もし」

 ふいに、声を掛けてきたものがいる。

「失礼ながら、ずいぶんと、足元が危ないようで」

 月光を背後に背負った、小柄なシルエット。

「あん……?」

 うろんな目つきで見返す。それはひとりの老人だった。

 コツコツ、と、地面を叩くステッキ。白い髭をたくわえた老人の口元が、にいっ、と、笑いを形作った。だが、決して、見る者の気持ちをあたたかくさせる笑みではなかった。

「近頃、いつにも増して、トキオの夜は危険なもの。どこかにお泊まりになってはいかがかな」

 老人の片眼鏡が、きらり、と、月光を反射する。

「何、言って……」

「よろしければ、わたしの屋敷にいらっしゃるといい」

「…………」

 直感的に、男は危険を感じた。だが、彼が立ち上がるよりも早く、老人のうしろに、その巨大な影があらわれたのだ。

「ひっ――」

 喉が鳴る。

「わたしの息子が、お連れしましょう」

 そして、悲痛な、聞く者の耳にいつまでも尾を引く叫び声が、夜のしじまをかき乱した。だが、おそるべき怪人たちの跋扈する深夜の街に、あえてさまよい出すトキオ市民はいない。

 くっくっくっ――。

 渇いた忍び笑いだけが、街路をむなしくひきずられていく男の悲鳴に、応えているのだった。


 遠くに、その広い背中を見つけると、空木は自然と、顔がほころぶのがわかった。

「おおい」

 手を振りながら近付く。彼に気づくと、向こうも微笑み返してくれた。

「これ、そこで買ったんだけど、よかったら」

「いいんですか」

 湯気の立つ紙袋を受取る。中から出てきたのは、焼き芋だ。

 不忍池のほとりのベンチに、ふたりして腰を降ろした。

「この季節、木賃宿じゃあ隙間風も入るだろう。本当に気にせず、うちに来ればいいのに」

「いいんです。そこまで甘えるわけには」

 芋を割ると、黄金色の、ほどよく焼き上がった身があらわになる。

「きみの詩は素晴らしいけど、路上で詩を売るだけじゃあ、稼ぎも知れているしなあ」

「でも……なんだか、気分はいいんです」

 彼……今は、上野ゴローと名付けられた青年は、妙に晴れ晴れとした表情で言った。

「今まで自分がどこで、どんな暮らしをしていたのか思い出せないけれど、なんだか、今は自分はすごくいい状態にいるって気がするから」

「野宿同然の身なのに? よほど酷い環境にいたんだろうか。なにか思い出したことはないの」

 ゴローは、かぶりを振った。それを受けて、空木の眉が下がって八の字になったが、すぐに、ぱっと顔を輝かせて、彼は言った。

「ゴローくん。実は、ちょっとした提案があるんだ」

「なんですか」

「きみの詩をね、雑誌に載せてはどうかと思うんだよ」

 ゴローは、目を丸くする。

「ぼくはこれでも、帝都奇譚社にすこしは顔が利くからね。だいいち、きみの詩はすごくいいから、きっと、編集者も納得してくれると思う。そしたらいくばくかは原稿料だって出るんだし、そうすればもうすこしマシなところで寝られるだろう?」

 彼は、どう反応してよいかわからぬようだった。戸惑ったように、目をしばたかせる。

「ね、悪いようにはしないからさ。もしかしたら……きみの詩を誰か、きみを知っている人が目に止めて、きみの素性がわかるかもしれないよ」

「……僕を、知っているひと……」

「そうさ。会いたいだろう? どこからきたのか、それでわかると思うし……」

「……僕を、知っているひと……ぼくがどこからきたのか……」

 オウム返しにつぶやく。ふと、そこに痛みが走ったとでもいうように、彼は額を――あの、56という数字の刻印をおさえた。

「これは実際、すごくいい案なんだ。一石二鳥にも三鳥にもなる。……昨日、高円寺に話したら反対されたんだけどね。やつったら『無責任なことをするもんじゃない』なんていうんだ。でもあれは……たぶん、ちょっと拗ねてるだけなんだと思うな。ぼくがきみのことばかり話しちゃったもんだから」

「…………」

「大丈夫。『責任』はぼくが持つ。この空木惚介に、任せてみてもらえないだろうか」

「そう……ですね」

「よし! じゃあ、どの詩を載せようか」

 目を輝かせた空木に、ゴローは、ぼんやりと告げた。

「今……思いついたのがあるんです。よくわからないけど、僕のもといたところに関係がある気がする……」

 そして、詩人は立ち上がると、静かに、その詩を諳んじはじめた。


「なるほど。それでできたのが、これ」

「依然として、記憶は戻らないのだけど、無意識からイメージだけが浮かび上がってきたような……そういう感じじゃないのかなあ」

「ふうん」

 それはゴローが朗読する詩を、空木が書き留めたノートの切れ端だった。

「……いいでしょう。ちょうど、落ちた原稿があって空きがあります。使わせていただきますよ。いや、実際、なかなか詩情がありますな。そのうえ、空木先生の太鼓判とあれば」

「何なら、ぼくが推薦の文を書こうか」

「それはいい。是非、お願いしますよ」

 なじみの編集者が破顔するのを見て、空木は満足げな笑みを浮かべた。これなら高円寺も納得するだろう。

「じゃあ宜しく頼んだよ」

 そう言い残して、デスクを離れた空木に駆け寄ってきた青年がいる。

「空木先生!」

「一ノ瀬くんじゃないか」

 彼は、最近、売り出し中の若い探偵作家だった。

「先月号の……記事を読んだよ」

 空木がそう言うと、一ノ瀬と呼ばれた青年の頬にぱっと朱がさした。

「なかなかよく書けているじゃないか」

「き、恐縮です」

「けれど、毎回、違う探偵を追い掛けているんだね」

「はあ……」

 なぜかそこで、うつむき加減になる一ノ瀬。

「まあ、修行中はそれでもいいけれど。探偵と作家の信頼関係が文章にはあらわれるものだからね。ぼくたちは新聞記者とは違うんだから、一ノ瀬くんもいつか、パートナァが見つかるといいねえ」

「空木先生……」

 ひどく落ち込んだ声で、彼はつぶやく。

「あまり誰かに頼ったりしない、芯の強い令嬢に好かれるにはどうしたらいいんでしょうね」

 唐突な問いに、空木がいささか戸惑いながら応えた。

「そ、そうだね……。芯の強い、というのはそれだけ自分に自信があるということだしね。自分が強いことを知っている人間は、時として、他人の痛みにも鈍感になるよね」

「そう!そうですよね!」

 一ノ瀬は、今度は興奮してつっかかってきた。それに気押されながらも、

「そういうヤツ――いや、そういう女の子には、甘い言葉は逆効果だ。むしろ……」

 空木は、自分に言い聞かせるように言った。

「むしろ『責任』だよ。責任という言葉を使うと、きっとぐらりとすると思うよ、うん」

「そうですか。責任ですか」

「自分にだって立派に『責任』を果たせるんだ、ということを見せてやればいいんだ」

「そうですよね」

 男たちは、力強く頷きあった。

 ふたりともにとって、そこにある種の誤解と、間違いがひそんでいたことに、このときのかれらは知るよしもないのだった。


 そして、それは、降誕節の前日のことである。

 その日、トキオ市はひときわ冷え込みが厳しく、夜半には雪になるだろうとの予報だった。

「はい、高円寺事務所」

 電話が鳴ったとき、探偵は、いかにも寒そうな外の風景を窓から眺めていたところだった。

「ああ、警部。……え、怪盗ジャスミンの事件のほうを優先?」

 高円寺の形のいい眉が、ぴん、と、跳ね上がった。

「例の予告、あれは『クリスマス・イヴ』というのを指しておるのでしょう?」

 電話の向こうからは、熊谷警部のだみ声が聞こえてくる。

「そう考えて差し支えないでしょうね」

「だったら今夜だ! 高円寺さん、正式に、こちらの事件にも、ご協力願えませんか。今夜、敵が動くとわかっていて、むざむざ手をこまねいているわけには」

 高円寺は、すこし迷ったようだった。ようだったが、すぐに、

「わかりました。今からそちらに向かいます」

「おお。有り難い。イヴの夜にジャスミンがお縄だなんてことになれば、これは市民へのいいクリスマスプレゼントになります」

「……むしろ彼女のファンに恨まれぬことを祈ります」

 電話を置くと、探偵はトレンチコートを羽織り、壁にかけてあったパナマ帽を頭に乗せた。そのまま出掛けようとして――、ふと、思い出したように、机の上の『帝都奇譚』を手に取った。雑誌を丸めてポケットにねじこむ。

 ひときわ騒がしいクリスマス・イヴが、この後に待ち構えていたことを、名探偵はどこまで予測していただろうか。

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