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ゴトリ、と、マンホールが音を立ててずれた。
そこから、ぬうと這い出てくる大きな影。
月の、冷たい光だけが路上を照らす、それは真夜中のことだ。ぴたぴたと、濡れた足音がひびく。そして、ハッハッ……という、なにか生き物の息遣い。
――と、道の向こうに、新しい人影があらわれた。角を曲ってきた人物は、おぼつかない足取りを見るに、どうやら酔客か。
「ったくよぉ……」
ぶつぶつと、何事かを呟きながら、彼は独り、夜道を辿っている。三十がらみの、くたびれたコートを着た男だった。
突然、けたたましい音が、真夜中の通りに響き渡った。男が、道端のゴミバケツにつまづいて、それを倒したのだ。
「んだよ……こんなトコに……」
自分からぶつかっておきながら、男は悪態をつき、よろよろとバランスを崩して、冷たいアスファルトにへたりこんだ。大儀そうに、再び起き上がろうとして……
「もし」
ふいに、声を掛けてきたものがいる。
「失礼ながら、ずいぶんと、足元が危ないようで」
月光を背後に背負った、小柄なシルエット。
「あん……?」
うろんな目つきで見返す。それはひとりの老人だった。
コツコツ、と、地面を叩くステッキ。白い髭をたくわえた老人の口元が、にいっ、と、笑いを形作った。だが、決して、見る者の気持ちをあたたかくさせる笑みではなかった。
「近頃、いつにも増して、トキオの夜は危険なもの。どこかにお泊まりになってはいかがかな」
老人の片眼鏡が、きらり、と、月光を反射する。
「何、言って……」
「よろしければ、わたしの屋敷にいらっしゃるといい」
「…………」
直感的に、男は危険を感じた。だが、彼が立ち上がるよりも早く、老人のうしろに、その巨大な影があらわれたのだ。
「ひっ――」
喉が鳴る。
「わたしの息子が、お連れしましょう」
そして、悲痛な、聞く者の耳にいつまでも尾を引く叫び声が、夜のしじまをかき乱した。だが、おそるべき怪人たちの跋扈する深夜の街に、あえてさまよい出すトキオ市民はいない。
くっくっくっ――。
渇いた忍び笑いだけが、街路をむなしくひきずられていく男の悲鳴に、応えているのだった。
遠くに、その広い背中を見つけると、空木は自然と、顔がほころぶのがわかった。
「おおい」
手を振りながら近付く。彼に気づくと、向こうも微笑み返してくれた。
「これ、そこで買ったんだけど、よかったら」
「いいんですか」
湯気の立つ紙袋を受取る。中から出てきたのは、焼き芋だ。
不忍池のほとりのベンチに、ふたりして腰を降ろした。
「この季節、木賃宿じゃあ隙間風も入るだろう。本当に気にせず、うちに来ればいいのに」
「いいんです。そこまで甘えるわけには」
芋を割ると、黄金色の、ほどよく焼き上がった身があらわになる。
「きみの詩は素晴らしいけど、路上で詩を売るだけじゃあ、稼ぎも知れているしなあ」
「でも……なんだか、気分はいいんです」
彼……今は、上野ゴローと名付けられた青年は、妙に晴れ晴れとした表情で言った。
「今まで自分がどこで、どんな暮らしをしていたのか思い出せないけれど、なんだか、今は自分はすごくいい状態にいるって気がするから」
「野宿同然の身なのに? よほど酷い環境にいたんだろうか。なにか思い出したことはないの」
ゴローは、かぶりを振った。それを受けて、空木の眉が下がって八の字になったが、すぐに、ぱっと顔を輝かせて、彼は言った。
「ゴローくん。実は、ちょっとした提案があるんだ」
「なんですか」
「きみの詩をね、雑誌に載せてはどうかと思うんだよ」
ゴローは、目を丸くする。
「ぼくはこれでも、帝都奇譚社にすこしは顔が利くからね。だいいち、きみの詩はすごくいいから、きっと、編集者も納得してくれると思う。そしたらいくばくかは原稿料だって出るんだし、そうすればもうすこしマシなところで寝られるだろう?」
彼は、どう反応してよいかわからぬようだった。戸惑ったように、目をしばたかせる。
「ね、悪いようにはしないからさ。もしかしたら……きみの詩を誰か、きみを知っている人が目に止めて、きみの素性がわかるかもしれないよ」
「……僕を、知っているひと……」
「そうさ。会いたいだろう? どこからきたのか、それでわかると思うし……」
「……僕を、知っているひと……ぼくがどこからきたのか……」
オウム返しにつぶやく。ふと、そこに痛みが走ったとでもいうように、彼は額を――あの、56という数字の刻印をおさえた。
「これは実際、すごくいい案なんだ。一石二鳥にも三鳥にもなる。……昨日、高円寺に話したら反対されたんだけどね。やつったら『無責任なことをするもんじゃない』なんていうんだ。でもあれは……たぶん、ちょっと拗ねてるだけなんだと思うな。ぼくがきみのことばかり話しちゃったもんだから」
「…………」
「大丈夫。『責任』はぼくが持つ。この空木惚介に、任せてみてもらえないだろうか」
「そう……ですね」
「よし! じゃあ、どの詩を載せようか」
目を輝かせた空木に、ゴローは、ぼんやりと告げた。
「今……思いついたのがあるんです。よくわからないけど、僕のもといたところに関係がある気がする……」
そして、詩人は立ち上がると、静かに、その詩を諳んじはじめた。
「なるほど。それでできたのが、これ」
「依然として、記憶は戻らないのだけど、無意識からイメージだけが浮かび上がってきたような……そういう感じじゃないのかなあ」
「ふうん」
それはゴローが朗読する詩を、空木が書き留めたノートの切れ端だった。
「……いいでしょう。ちょうど、落ちた原稿があって空きがあります。使わせていただきますよ。いや、実際、なかなか詩情がありますな。そのうえ、空木先生の太鼓判とあれば」
「何なら、ぼくが推薦の文を書こうか」
「それはいい。是非、お願いしますよ」
なじみの編集者が破顔するのを見て、空木は満足げな笑みを浮かべた。これなら高円寺も納得するだろう。
「じゃあ宜しく頼んだよ」
そう言い残して、デスクを離れた空木に駆け寄ってきた青年がいる。
「空木先生!」
「一ノ瀬くんじゃないか」
彼は、最近、売り出し中の若い探偵作家だった。
「先月号の……記事を読んだよ」
空木がそう言うと、一ノ瀬と呼ばれた青年の頬にぱっと朱がさした。
「なかなかよく書けているじゃないか」
「き、恐縮です」
「けれど、毎回、違う探偵を追い掛けているんだね」
「はあ……」
なぜかそこで、うつむき加減になる一ノ瀬。
「まあ、修行中はそれでもいいけれど。探偵と作家の信頼関係が文章にはあらわれるものだからね。ぼくたちは新聞記者とは違うんだから、一ノ瀬くんもいつか、パートナァが見つかるといいねえ」
「空木先生……」
ひどく落ち込んだ声で、彼はつぶやく。
「あまり誰かに頼ったりしない、芯の強い令嬢に好かれるにはどうしたらいいんでしょうね」
唐突な問いに、空木がいささか戸惑いながら応えた。
「そ、そうだね……。芯の強い、というのはそれだけ自分に自信があるということだしね。自分が強いことを知っている人間は、時として、他人の痛みにも鈍感になるよね」
「そう!そうですよね!」
一ノ瀬は、今度は興奮してつっかかってきた。それに気押されながらも、
「そういうヤツ――いや、そういう女の子には、甘い言葉は逆効果だ。むしろ……」
空木は、自分に言い聞かせるように言った。
「むしろ『責任』だよ。責任という言葉を使うと、きっとぐらりとすると思うよ、うん」
「そうですか。責任ですか」
「自分にだって立派に『責任』を果たせるんだ、ということを見せてやればいいんだ」
「そうですよね」
男たちは、力強く頷きあった。
ふたりともにとって、そこにある種の誤解と、間違いがひそんでいたことに、このときのかれらは知るよしもないのだった。
そして、それは、降誕節の前日のことである。
その日、トキオ市はひときわ冷え込みが厳しく、夜半には雪になるだろうとの予報だった。
「はい、高円寺事務所」
電話が鳴ったとき、探偵は、いかにも寒そうな外の風景を窓から眺めていたところだった。
「ああ、警部。……え、怪盗ジャスミンの事件のほうを優先?」
高円寺の形のいい眉が、ぴん、と、跳ね上がった。
「例の予告、あれは『クリスマス・イヴ』というのを指しておるのでしょう?」
電話の向こうからは、熊谷警部のだみ声が聞こえてくる。
「そう考えて差し支えないでしょうね」
「だったら今夜だ! 高円寺さん、正式に、こちらの事件にも、ご協力願えませんか。今夜、敵が動くとわかっていて、むざむざ手をこまねいているわけには」
高円寺は、すこし迷ったようだった。ようだったが、すぐに、
「わかりました。今からそちらに向かいます」
「おお。有り難い。イヴの夜にジャスミンがお縄だなんてことになれば、これは市民へのいいクリスマスプレゼントになります」
「……むしろ彼女のファンに恨まれぬことを祈ります」
電話を置くと、探偵はトレンチコートを羽織り、壁にかけてあったパナマ帽を頭に乗せた。そのまま出掛けようとして――、ふと、思い出したように、机の上の『帝都奇譚』を手に取った。雑誌を丸めてポケットにねじこむ。
ひときわ騒がしいクリスマス・イヴが、この後に待ち構えていたことを、名探偵はどこまで予測していただろうか。