プロローグ
湿った闇を、幾条かの光が貫いた。
そして、ばしゃばしゃと水が跳ねる音。
「いたか――?」
「いいえ」
「とり逃がしたのか……」
切迫した囁きは、反響をともなっていた。
光の輪が這うのは、ひびわれ、朽ちかけたコンクリートの壁と、黒々とした水面である。
「どうですか」
「高円寺さん……」
深く落ち着いた声が加わった。
さっと、横切った光が、一瞬、暗闇の中でその男のすがたを照らし出す。
きらりと懐中電灯の光をはねかえしたのは、男の襟元に輝く徽章である。それがかたどる『金の梟』の意味するところを知らなかったとしてさえ、トキオ市民で、彼の顔を知らぬものはいなかったのではないか。
探偵・高円寺一郎。
「お話では、人のようであったと」
西洋人のように彫の深い顔立ちの中でも、ひときわ印象深いのが、濃い眉にいろどられた、力強いその目である。闇の中にあってさえ、炯々と真理を見通す灯火をいだいているように見えるのだ。
「ええ。ですが……」
闇をものともしない目があれば、そこに、高円寺を含めた4人の男たちのすがたを見ただろう。そして、群を抜いて背の高い高円寺以外は、トキオ市警察の制服を着た警官たちであることも。
探偵の問いに、警官のひとりが何か答えようとした、その時!
「おいッ、何かいるぞ!」
ざぶん、と黒い水が波打つ。
よどんだ地下の空気をふるわせる咆哮――。
誰かが、悲鳴をあげた。
そして、銃声がとどろく。
高円寺一郎――犯罪都市トキオの誇る名探偵は、数々の難事件、怪事件の真相を見抜いてきたその目で、光の輪の中に浮かび上がった、異形のすがたをたしかに見た。
人のようであって人ではない。
醜悪に、膨れ上がった、青白くぶよぶよとした肢体をもったなにものかが、威嚇とも恐怖ともつかぬ叫びをあげて、下水にぬるぬるとまみれた腕を振り回しながら、突進してきたのである。
(下水道の怪物――)
カストリ雑誌の、仰々しい見出しが、皆の脳裏に浮かぶ。
(七ツ星探偵、高円寺一郎、ついに件の怪物と遭遇。暗闇での死闘と追跡劇! おしくも取り逃したるが、年の瀬の帝都を騒がせる奇譚に、名探偵、満を侍しての出馬を決意せりとの伝。果たして怪物の正体やいかに。探偵はいまだ黙して語らず――)
そんな扇情的な文が、誌面を飾るのは、その次の号のことになった。
大正九十一年の、師走の出来事である。