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「まいったね」
櫻麗寮は、調度類や室内のしつらえも皆、ちょっとしたホテル並だった。学生寮の食堂、などというと殺伐とした雰囲気を、惚介などは想像していたのだが、そこはまるで銀座のカフェーを思わせる内装だ。出された珈琲も申し分ない。
「あの殿村女史の言い訳は矛盾だらけだ。悪魔だと言ってはいるが、ぼくに依頼をしてきている以上、犯罪だと確信しているわけだろう? 自殺などする生徒はいないと言うが、殺人を犯す生徒はいてもいいんだろうか」
「おい、高円寺」
今度は、惚介が相棒をたしなめる番だった。
「驚くことはないだろう。……これはヴィランズの事件ではないよ」
「それはそうだろうね、地味すぎる」
「この建物内にいる人間の9割は生徒だ。当然、犯人も生徒である可能性が高い」
「一応、形としては密室と言っていいと思うが」
「しっかりしてくれ、空木くん」
心底、情けない、といった調子で、高円寺はあきれたような声を出した。
「ぼくにはまったく密室だなんて思えないよ。仮にこれを――こんなものだが密室と呼んだとしたって、そうだね、ざっと五十通りは解決を思いつく」
「…………」
惚介が、こんなふうに小バカにされるのは、いつものことである。だがいちいち、この中年は大人げなく腹を立てているのだった。
「稚拙だ。驚くほど稚拙な犯行なんだ、これは」
珈琲を啜った。
「逆に、それが鍵なんだよ。どうして、こんな稚拙な犯罪を、わざわざ起こしたのか」
「なぜなんだい」
不機嫌な声。
「怒るなよ。……『白蛇館の惨劇』で、密室講義を書いただろう?」
「密室は5つの条件で成立する」
「そう。覚えているだろうね」
「その1、犯行時に犯人が室内にいる。その2、犯行時に被害者が室内にいる。その3、発見時に犯人が室内にいない。その4、発見時に被害者(死体)が室内にいる。その5、発見時まで部屋は密閉されていた」
「そう。見かけ上、その5つの条件が揃っているかのように見える錯誤、これが『密室』だ。実際にはむろん、どこかに錯覚かトリックがあって、5つの条件は成立していないことになる」
「この場合は……まず、塔内に住谷実花と犯人がいたと仮定する。自殺じゃないとすれば、だけど。条件1と2だ。しかし、発見時には塔内に犯人らしき人物はいない。条件3。被害者は塔から転落して……他に、あれだけの高さがあるものはないから、事実上、塔内から出ていないのと同じことだ。条件4。そして塔の扉は閉まっていた。条件5。……これで、密室とぼくは考えたわけだけど」
「そうかい。どこからでも崩していけるぜ。けれど……まあいい、彼女たちに話を聞いてみようか」
高円寺があごをしゃくった。
食堂の入口から、数人の少女たちが団子になって、かれらの様子をうかがっている。
「こんにちは。きみたち、寮生かな」
惚介がせいいっぱい愛想よく笑顔を見せながら、席を立って近付いていった。
少女たちは何事かをささやきあうと、くすくす笑いながら、さっと散っていってしまう。
廊下まで追い掛けた。
きゃあきゃあと黄色い声。箸がころげても可笑しい年頃だというが。困ったもんだな、と惚介は思った。
「先生」
声をかけられた。
ひとりの、小柄な女学生が、一冊の本を胸に抱いて、そこに立っている。その後ろに隠れるように、何人もの少女たちが惚介をのぞきこんでいた。
「あ……」
「高円寺さんと先生のご活躍、いつも楽しみにしています。これ、わたしたちで書いたんです。どうぞ読んでください」
本をおしつけると、それだけ言って、ぱっと、きびすを返し、廊下をぱたぱたと走り去っていく。
まるで……悪戯な妖精のようだ、と、惚介は、呆然と女学生たちの制服の後ろ姿を見送った。
(わたしたちで書いた、って?)
てっきりサインでももとめられるのかと思ったが――。渡された本は、薄い、手製本の冊子のようで……。
ぐう、と、おかしな音が、惚介の喉の奥から漏れる。
(な、な、なんだこれは)
目眩――。
少女たちのくすくす笑いが、耳の中で渦巻いていた。
読書室、と掲げられている部屋である。いくつかのテーブルと椅子、そして書架が並んでいた。
「正田月子さんだね」
声をかけると、そっと本から目をあげて、彼女はうっすらと微笑む。
「ご機嫌よう。……高円寺探偵にお会いできるなんて、光栄ですわ。……空木先生にも。わたくし、空木先生のご本はすべて読ませていただいています」
「おやおや」
高円寺は苦笑した。
「探偵小説は禁止されているのでは?」
「先生たちも、陰では読んでいるのです」
にべもなく、少女は言った。
「そうでなくて、どうして高円寺さまを呼ぶでしょう」
「住谷実花さんは」
その名が出ると、かすかに、少女の瞳に奇妙なかぎろいのようなものが映る。
「きみたちの創作に参加していたんだね」
惚介は、あっと口を開けた。
「高円寺? それはいったいどういう――」
「さっき、きみが寄贈を受けたような本のことだよ」
「あ、あれは、しかし」
惚介は狼狽していた。こんなものは到底、高円寺には見せられない、と、すぐに隠したというのに。
「そうです」
ぱたん、と、本の表紙を閉じて、少女は静かに肯定する。
「高円寺さまは、最初からすべてご存じだったのでしょう」
微笑した。
正田月子は、艶やかな黒髪の、清楚可憐な美少女だった。このところ、トキオでも西洋人風に髪を染めたりする女性も少なくない中、かえって濡れたような髪の黒さがはっとさせるほど印象的だった。
「わたくし、高円寺さまを欺けるほど、思い上がってなどおりませんわ」
「なぜあんな、幼稚な『密室』を」
ふふふ、と、少女は櫻色の唇をほころばせた。
「高円寺さまにお会いしたかったからですわ」
「八百屋お七でもあるまいに」
「あら」
本当に、彼女は十代の女学生なのだろうか。惚介は信じられない思いで、月子を眺めた。まるで高級娼婦のように、あでやかであやしい美しさと凄みを彼女はそなえていた。
「わたくしたち、高円寺さまのためなら何でもしますよ」
「…………」
「言っておきますけれど……きっとお察しの通り、住谷さんはご自分で落ちられた。あれは事故だったんですの。ただ……わたくしたちがそれを密室殺人のように見せ掛ければ、体面を重んじる学院はきっと高円寺さまに依頼をする。そうわたくしが持ちかけましたら、どなたも反対はなさらずに、協力してくださいましたよ」
うたうように、彼女は語った。
「『白蛇館の惨劇』でございましたわね。もちろん拝読しております。あの例にのっとっていえば、条件その4の錯誤。発見時に、塔内にはまだ人がいたのです」
「あっ」
惚介が小さく声をあげた。にっこりと、少女が微笑みを返す。
「寮生全員の共犯と考えれば、何の不思議もございませんでしょう? ひとりが鍵を閉めて塔内にこもり、殿村さんを呼びに行く。殿村さんが鍵を開け、階段を途中まで登ったところで、死体に気づかせ、現場に向かわせる。塔の最上階にひそんでいた、鍵を閉めた生徒はそのあいだに降りてくればいいだけのこと。そもそも条件その4は最初から成立していませんの。塔内が発見時に無人であったとは、確認されていないのですから」
「きわめて幼稚だ」
「でも、こうして高円寺さまとお会いできた。それに、繰り返しますけれど、あれは事故です。わたくしたち、なにか罪に問われますかしら。高円寺さま恋しさに、ほんの出来心ですこしだけ嘘をついてしまっただけのわたくしたちは」
「きみたちが突き落としたのでないと証明できるかな」
「その逆もしかりですわ」
名探偵・高円寺一郎と、可憐な女学生とのあいだに目に見えない、烈しい火花が散った。
惚介は、探偵が怒りに拳を握りしめるのを見た。
「いいだろう。犯罪はなかった。でもきみたちに罪がないとは言い切れない。そのことは忘れないでおくんだね」
それだけ言うと、探偵はさっときびすを返した。
「お、おい、高円寺。いったい何なんだ。どうして彼女たちは……」
「住谷さんは」
代わって、月子が応える。
「わたくしたちとは違いましたの。あの方がお書きになったり、お読みになったりしたものは」
月子は一冊の小冊子を取り出した。それは、さきほど、惚介が女学生から渡されたものだった。月子の細い指が頁をめくる。
惚介は、探偵が背中を見せていることに安堵した。それでも、わああと叫び出して、本を隠したい気分だった。
紙面には、ふたりの男性が抱き合っている図案のイラストレーションが描かれていた。なかなか達者な筆だったので、その一方が他ならぬ高円寺一郎であることは、すぐにわかった。帝都奇譚にときおり掲載される似顔絵のイラストと、同じ特徴を、それはそなえていた。
だがもう一方の男性は……
(わたし――なのか?)
惚介は顔が赤くなるのを感じた。イラストは、実際の空木惚介の100倍は美化されていたが、それはまぎれもなく、高円寺と惚介のラブシーンを描いた絵に他ならないのだった。
「高円寺さまが空木先生を愛しておられるさまを思い描くのはわたしたちにとっての至福です」
うっとりと、月子は言った。
「ちょ、ちょっと待ちたまえ」
必死に気持ちを落ち着かせながら、惚介は訊ねた。
「きみたちは、どこから、そんな……」
まさか惚介の頭の中の妄想が漏れたわけでもあるまいが。
「空木先生のご本を読めばわかります」
ガーン。空木惚介は立ち直れないくらいのショックを受けた。そうだったのか……バレていた……のか……?
「高円寺さまが空木先生を愛しておられることくらい」
(なに?)
どこかが、ちぐはぐだった。
(いや、それは違う、むしろ話は逆で……)
「それが住谷さんときたら、ハレンチにも、先生が高円寺さまを襲うようなマンガを」
「えええええ!?」
思わず、呻くような声をあげてしまった。
「先生もおかしいと思われるでしょう? どうみたって、先生のほうが『受』じゃありませんか」
「う……」
脂汗がじっとりと、惚介の額を光らせていた。
その肩を、高円寺が叩く。
「彼女が言っているのは彼女たちの世界での話だ。現実の、ぼくやきみとは関係のないことなんだよ、空木くん」
「え……っと」
「つまり、こういうことだ。彼女たちのグループでは高×空が主流なのに、住谷実花だけは頑固に空×高を描いていた」
「はぁ!?」
「しいていえばそれが『動機』だ。たったそれだけのことで、あの少女はいけにえに選ばれてしまったんだよ」
「たったそれだけのことですって!」
月子は声を荒げた。
「それがわたくしたちにとってどれだけ大切なことか……」
「だからといって」
「他の誰かの、やはりその人にとって大切な思いを踏みにじっていいということにはならないんだ」
高円寺の燃えるような眼光が少女を射抜いたが、彼女は決して怯まなかった。
「そんなもの!」
アンファン・テリブル――恐るべき子どもたち……そんな言葉が、惚介の混乱した頭の中に浮かぶ。正田月子は最後に、こう言い放った。
「そんなもの、わたしにはなんの関係もないことだわ」
事件がいつも、胸のすくような解決を見るとは限らない。
だが、このときの後味の悪さは格別だった。
帰りの車の中は沈黙に支配されている。助手席の高円寺は窓の外を向いたままで、表情はわからないが、どうやら怒っているらしい。
惚介はハンドルを握る手に力をこめた。
(やはり、あんなものの題材にされるのは、気持ちのいいものじゃないんだろうな……)
惚介は、そう考えるにつけ、どっと気分が落ち込んでくるのを感じていた。あまりのことに腰を抜かしてしまったけれど、結局のところ、あの同人誌に描かれていたことと、五十歩百歩な妄想を、抱いたおぼえがあるのである。
「空木くん」
ぽつり、と高円寺が口を開いた。
「きみがショックを受けるといけないと思って、知らせていなかったんだけど」
「…………」
「あの手のものは、わりと普通にあることなんだよ。ときどき、事務所に送られてくることもあった」
「…………」
「気を悪くしたかもしれないけれど」
「……いや」
「ぼくは否定も肯定もしない。それに、さっきも言ったが、現実のぼくらとは何の関係もないことなんだからね」
「……彼女も、そう言っていたな」
「そう……。ひとりひとりの問題なんだ」
「…………」
「あまり気にしないでくれよ」
高円寺にしては、妙に歯切れが悪かった。
「誰が何を夢想するのも、それは人の自由なんだからね」
しばし、沈黙。
「……空木くん。箱根の宿はもうキャンセルしてしまったのかい」
「えっ」
「いや……思ったより早くこの件が片付いたからね……」
「高円寺……」
「約束破って悪かったよ」
ぐいっと、惚介はアクセルを踏み込んだ。急に車のスピードがあがる。
「お、おい。危ないな」
「すぐ出発しよう」
「これからかい!?」
「高円寺の気が変わらないうちに!」
さっきまでの憂鬱もどこへやら、恋する中年の頭の中には、浴衣姿の高円寺一郎の、とても言葉にできないような妄想しか、もはや存在しないのだった。
「櫻の園の犯罪」――(了)