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「いいや! すでにわたしは何度も成功しておるのだ! 今に見ておれ、わたしの創造した生物たちが、トキオ中を駆け巡り、そして――」
「やめてください!」
悲鳴をあげるように、割り込んだのはゴローである。
「もう……やめてください! あなたは、ただ、生命をもてあそんでいるだけだ。空木さん。彼は狂っているのです。生命の創造なんて出来ません。ただ、博士は、とらえた動物や人間を、改造し、変身させる技術を――」
落雷――かと、空木は錯覚した。
目に灼き付く、閃光――そして、尾を引く悲鳴。なにかが焦げるような匂い。
カリガリ博士がなにかの機器を操作したとたん、ゴローの身体を縛るベルトが、電撃を放ったのである。
「黙らんかッ! この――わしの人形の分際でッ!」
(人――形……?)
空木は、ゴローの顔が、肉体の苦痛とは違う、痛みに歪むのを見た。
「おい、やめろっ、彼にひどいことを……」
言いかけて、空木は言葉につまる。
カリガリ博士が、彼のほうを振り向いたからだった。
(狂人だ)
博士は笑っていた。貼付けたような、仮面のような笑みだった。その三日月型の目は、この世の風景を見ているとは、もはや到底、思えない。彼にしか見えないものを見ているのだ。
一歩を、狂った老博士は踏み出す。空木の喉が鳴ったが、どうすることも出来なかった。
「あなたは名探偵の専属作家でしたな」
「…………」
「どんな脳髄を持っているのか、興味深い。……非常に面白い、実験になるでしょう」
(実験……)
作家としての想像力を持ち合わせていたことを、その瞬間ばかりは、空木は後悔した。
そのときだった。
ガクンッ、と、天地がはげしく揺れた。ビーカーの幾つかが床に落ちて、割れたようだった。
そして、なだれこんでくる足音。
「そこまでだ。狩屋博士!」
(あ――)
オペラ歌手のように、朗々とひびく低い声だ。たった一声、それを聞いただけで、空木は胸がしめつけられるような気持ちになった。
(どうして)
狼狽する、老怪人を狙った銃口が鈍く輝く。
「何だと……」
出来過ぎだ。探偵作家は、極度の緊張からか、かえって笑い出してしまいそうだった。なぜなんだ。なぜ、こんなにも鮮やかに、こんなにもドンピシャなタイミングで、こんなにも、こんなにも――
(高円寺一郎!)
名探偵が、そこに立っていた。
そしてその背後に居並ぶ警官たち。
(なぜ、きみは、そんなにカッコイイんだ)
「どうやってここに!」
カリガリ博士は呪うように言った。とうとう、空木は、吹き出してしまった。ぎょっとして、彼を見た怪人に向かって、空木惚介は答えた。
「それは彼が、高円寺一郎だからさ」
刹那、小説家と探偵は目を見交わした。
かすかに、探偵は笑った――ような気がした。
「おのれ!」
ガラスの割れる音が、うす暗い実験室にひびく。続けて、もうもうと立ちこめる白い煙が視界を奪う。
「空木くん! 息を止めろッ!」
「逃げたぞ!」
「追えっ!」
どやどやと靴音が床を踏みならし、怒号が飛び交った。
「こ、高円寺……」
「いや、もういい。毒ガスではないようだ」
思いのほか、近くで探偵の声がしたので、空木はどきりとする。ふいに、縄が解かれ、身体が自由になる感覚があった。煙幕が晴れず、彼のすがたは見えない。もし見えたら……人目はばからず、抱き着いていたかもしれないな、と、いう思いが、一瞬、空木の念頭をよぎった。
「高円寺、ぼくは馬鹿だ」
「頭でも打ったのかい。なにを脈絡のないことを」
「カリガリ博士は『帝都奇譚』の詩を見て、ゴローを見つけたんだ。ぼくは紹介文で、上野の森に彼がいるって書いてしまった」
「…………」
「おかげで、彼を危険な目に……高円寺が来てくれなかったらどうなっていたか。きみの言ったとおり、ぼくは無責任なやつだよ。なんにも考えずに、ぼくは」
「空木くん。でも、きみが雑誌に載せてくれた詩のおかげで、ぼくはカリガリ博士のアジトを発見したんだぜ」
「…………何だって?」
ようやく、煙は晴れて、高円寺一郎の、西洋人めいたハンサムな顔が、彼の顔をのぞきこんでいるのが見えるようになった。
「いいかい。まず、彼の詩は、そもそも、厳密にいうと詩じゃないんだ。彼は誰か他人にもとめられたことを、詩のような、暗号のような、とにかく、言葉に変換して返しているだけなんだ。――機械的にね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、意味がわからない」
「ぼくも正直、しくみのすべてを理解できていない。カリガリ博士しかわからないだろうな。……とにかく、言えるのは、あの『鉄の寝床から』は、彼がこの場所で見た風景を言葉にしたものだ」
「…………」
「実は、きみがかどわかされて、下水道に連れ去られたという目撃証言があってね。それで、わかった。ぼくは例の『下水道の怪物』が、なんらかの生体実験、ないし、一種のバイオハザードの結果だろうという仮説を立てていた」
「げ、『下水道の怪物』事件とこの一件が関係あるのか。まさか、カリガリ博士が言っていたのは……」
「『下水道の怪物』の出現は、トキオ市の東側に集中している。なにものかが、かれらをこのあたりの下水道に遺棄したのだとぼくは考えた。実際、下水道網はヴィランズの移動手段としてはよく使われる手だしね。ところで、一口に下水道といっても、よくよく調べてみれば『怪物』があらわれた下水道はすべて、下水処理場を通過したあとの下流の下水道なんだ」
「……えっと……」
「つまり、そのあと、河へと放流される手前、ということだよ。そこでぼくは、『怪物』の出所は、トキオ市の東側にある、河の近くだと見当をつけたわけだが」
白い光が、天からさっと降ってきて、高円寺を照らした。それは部屋のなかをなめてから、また唐突に消える。この部屋には天窓があったのか、と、空木は今さらながら思った。
「今のは、今回、協力してもらったトキオ市警の潜水夫のサーチライトだ」
「潜水……?」
「『見上げるは、遠き星々/ゆらゆらと、水面の向こうに/鉄の寝床から』だったね」
高円寺は暗唱する。
「あの詩は彼が、そこの鉄のベッドによこたわって、天窓から上を見上げた情景を読んでいる。ここ……カリガリ博士の実験室は、隅田川の水底を潜行する潜水艦の中にあるんだ」
「なんだって!」
部屋は……そう、かすかに揺らいでいるのである。ここが水の中だとすれば……空木は思った――そうか、この気分の悪さは船酔いか!
「『あの影の向こうを、/車が走り、人が行き交い、列車が渡り』という一節もあったね。水底から見上げた橋の影のことだろう。隅田川には非常にたくさんの橋がかかっている。観光名所にもなっているのは、きみも知っているだろう?」
「そう……だったのか」
うたれたように、空木はつぶやいた。
「高円寺さん!」
警官が声を張り上げた。
「申し訳ありません。逃げられました。一人乗りの、小型の潜水艇のようなものが積まれていたようで、賊はそれで脱出した模様です」
「いらぬところでヴィランズらしい」
高円寺はかすかに舌打ちをした。
「まいったな。熊谷警部に今夜中に事件を解決すると啖呵を切ってしまった」
「僕が……」
空木はびっくりして、声のほうを向いた。警官たちに戒めをとかれたゴローだった。だが、警官に支えられてやっと立っているような有様だ。
「ゴローくん、病院へ行ったほうが」
「いえ、僕は平気です。……あなたが、高円寺さんですね」
「はじめまして。空木くんが世話になっているね」
「僕のほうこそ。……カリガリ博士を追いましょう。僕なら、彼の居所がわかる」
「ほう。そうなのかい」
「お、おい!」
「よし、わかった一緒に行こう」
「ぼ、ぼくも行く!」
「空木くんこそ、傷の手当てをしてもらえ」
「こ、このくらい――」
「きみは来るな!」
高円寺は、ひどく強い調子で行った。ゴローや、なりゆきを見守っていた警官までもが、ぎくりとしたほどだった。
「……ぼくがいたら……邪魔なのかい……」
かすれた声で、空木が訊ねる。
探偵は、ほんの一瞬、躊躇ったような素振りを見せた。しかし、すぐに、思いなおしたように、はっきりと頷いて、告げたのだった。
「そう思っても構わない。今夜はクリスマスイヴだ。おとなしく家で……お祈りでもしていてくれ」