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愛の交換様式 下



    下



実はこの交換様式の視点で恋愛を見ることをやっているのは、現在日本にいる女性作家で、だから最近顕著に質が高い。

(更に実は長嶋有はまさにこの視点を持っていたがため、「泣かない女はいない」や「夕子ちゃんの近道」は傑作足り得たのだが、今は読んでいない)

津村記久子や李琴峰らが挙げられるが、島本理生こそ毒親との戦いや女性のヴァルネラビリティを描き、交換様式としての恋愛を問い続けている。

故に、主に交換様式AとBの作家だ。

ここいらで、遂に竹宮ゆゆこの名を挙げるものだが、私は以前から「とらドラ!」こそ秋幸三部作を読んだ後に読むに収まりがいい、まさに第4作めだと云ってきたのだが、「力と交換様式」を読んで、それは主人公・竜二の父がまさに秋幸のような人物で、その息子の物語として読めるからだ、以外のエビデンスを長々提示できないでいた。

しかし、まさに最後の一行、「そういうふうになっている」(アニメ版では「そういうふうにできている」)こそ柄谷行人が説く交換様式D=アソシエーショニズム=イソノミアに他ならない。

島本理生は交換様式Bという保護と被保護の関係に根ざした恋愛=交換様式Bを書くことで傑作が多く、駄作・失敗作が皆無だが、交換様式Dを追い求める竹宮ゆゆこは困ったことに失敗作が多い(但し駄作はない)。

大河の父娘の関係がまさに交換様式Bの隷属的関係なのだが、では竜二はというと、その貧困からCか、クラメートとの恋のさや当てから共同体内の人間関係が話の主眼だから、Aを想起してしまうものだが、なにより、竜二の場合は、母・泰子との近親相姦の回避が大河の出現とその恋愛において成し遂げられているのだ。

竜二と泰子の関係は母と息子のAであり、母に逆らえない(そもそも逆らう必要がない)はBの共依存であり、泰子が水商売で稼ぐために専業主夫となっているからCの状態である。

泰子は作中で何度も、逃げたのか死んだのか判らぬ竜二の父という昔の内縁の夫を重ねるのだが、それは大河の出現で緩やかに彼女へとスライドされる。

「共同体拘束でなく助け合い・自由・平等がある」恋愛を、後に「Cを経た上でAに高次元に回復する」恋愛関係を竜二と大河は獲得して物語は終わる。

小説というジャンルは無論、批評家の敷いた理論に合っているか、合っていないかで判断されるものではないが、「とらドラ!」の凄味はまさに柄谷行人が交換様式に希望を見出した時に、それを小説として物語としたことにある。

もう一度いうが、批評家の敷いた理論に合っているか、合っていないかで判断されるものではない。

だが、例えば、田辺聖子の短篇を映画化した犬童一心「ジョゼと虎と魚たち」という男子大学生と足が不自由で車椅子生活を強いられる中卒女子の恋愛ものがあるが、あれは交換様式Dで始まりながら、階級、障害者/健常者といった交換様式D以外が作中に侵入してきたために、2人が破局して終わる。

類似の構造は坂本裕二「花束みたいな恋をした」にも見られ、まったく見ず知らずの2人が、お互い趣味が一緒で意気投合し、愛し合うのだが、お互いの親というA、男の子の方がサラリーマンになって趣味を捨てるが経済的には安定というCを切り抜けたが、最終的、D要素がなくなったために、女の子は別れを切り出すが、男の子は結婚という交換様式BとCを提示して、交換様式Dの代わりにしようとし、破局する。

そう、この2作は交換様式Dの崩壊を描くのだが、交換様式Dがあったことを逆説的に証明している。


私は「力と交換様式」に70年代から現在までのアニメ史を見出した後に、恋愛のディスクールを柄谷行人に見たが、これも恣意性なのであろうか。

柄谷行人は「フォークナー・中上健次・大橋健三郎」の中で、こう述べている。


 晩年において、彼(中上健次)は「熊野大学」を作り、その標語として「真の人間主義」を唱えた。あのような小説を書いている中上健次が、そういうナイーブな言葉を吐くとは! と思う人がいるかもしれない。たとえば、フォークナーの「ノーベル賞受賞演説」を想い浮かべればよい。小林秀雄がどこかでドストエフスキーの作家の日記を例にとって、優れた作家の理想は意外に単純なものだという意味のことを書いている。


この本人の言葉にならい、柄谷行人という「優れた作家の理想は意外に単純なもの」だと私は云いたい。

マルクスと同じくらい漱石を読み込んだと豪語する柄谷行人、あの恋愛ものの大家を読んで、この発想がないとは言わせない。

そしてこの30年、柄谷行人は運動の実践の場に出たが、LGPTQやMeeTo運動といったセクシャルな動きには、私が知る限り、関与してこなかったが、この国家=ネーション=資本を揚棄する交換様式Dこそ、女性たち・同性愛者たち・性的少数者の希望だと思われる。

この交換様式Dを私は、女から突き付けられる匕首のようなものだと理解している。

そのような言い方がどうにもロマン派っぽく映るとも思われるので、このような云い方はどうか。

どこかで、柄谷行人はレヴィ=ストロースの偉業を倫理や道徳でなく、ロジックで近親相姦の禁止を組み立てた件を評価していた。

目に見えず、いつ来るか判らず、そして顕現しても脆くて壊れやすい、そのような愛に似ているものに交換様式Dと名付けたことを偉業と呼ばずしてなんと呼ぼう!


 しかし、Dが来る。向こうから来るといっても、もちろんやることはやらないといけないれども、Dは自分たちが意図してできることではないんですね。


おたく話から始めたので、それで締めよう。

恋愛がいつやってくるかは知らないし、好きでもない相手とムリに付き合ってもお互い不幸になるだけで、でも髪型に気を配ったり、こざっぱりしたもの服を着たり、そのくらいの「やることはやらないといけない」と云っている気がしている。

やはり、優れた作家の理想は意外に単純なものなのだ。

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