愛の交換様式 上
上
「探求Ⅲ」、「可能なるコミュニズム」、「トランスクリティーク」、「世界共和国へ」、「世界史の構造」、「『世界史の構造』を読む」、「哲学の起源」、「帝国の構造」、「憲法の無意識」、「世界史の実験」、「力と交換様式」、「柄谷行人『力と交換様式』を読む」、約30年、このシリーズを読んできて、周囲の私に柄谷行人を勧めてくれた先輩や柄谷行人に関して共に語り合った友人たちも読まなくなって、それでも新刊が出れば、読んできたが、信じられないことにこのネタで延々と続けて未完になるかと思いきや、それは見事に完結して終わった。
そのような意味では、「本居宣長」を完結してその評論家人生を終わらせた小林秀雄に匹敵する偉業だ。
しかも最近、大江健三郎や坂本龍一といった柄谷行人と併走していたアーティストの物故が続き、やはり感無量な気持ちになる。
いや、私は何をつらつらと書き連ねているのだろうか。
しかも、ここから始めてもいいものを、既に「恣意性と「力と交換様式」」という前振りまで済んでいるというのに。
それでもその書き連ねのついでに言わせてもらえば、私は長い小説を書く時に一本のエッセイをしたためることにした。
前回の「脳内ヒーロー洋二」では「「虚無への供物」と「岸辺のアルバム」」を執筆前に入力して上げたので、今回の「洋二ふたたび 東京戦争」でもそれに当たるものはないかと考えていたが、それが思いつかず、書き始めたが、いやいや、大好きな柄谷行人について総決算的なエッセイなら書けるだろうと思っていた。
で、前回の「「虚無への供物」と「岸辺のアルバム」」が家族をめぐるエッセイで、実際書いた長編が家族をめぐる物語だったので、今回の長編が愛をめぐる物語にならざる負えないので、ああ、いいチャンスかとどちらが先か判らぬが閃いたのだ。
再度、先の交換様式を引く。
交換様式A 互酬(贈与と返礼) ネーション
交換様式B 服従と保護(略取と再分配) 国家
交換様式C 商品交換(貨幣と商品) 資本
交換様式D Aの高次元での回復 X
この交換様式Dは、①Cを経た上でAに高次元に回復するが、それは未来のことで、②共同体拘束でなく助け合い・自由・平等があり、③人為的に考えては実現できず、向こうからやってくるもの、④しかも商品に宿る物神=フェティッシュの存在を認め、⑤それはホップス「リヴァイアサン」における怪獣にも例えられ、⑥ABCと対置するものでなく、Dが国家や共同体には不可欠だが、DはABCを超えるものでもあり、⑦でも実は交換様式でなく衝迫としてあり、⑧観念的・宗教的で、⑨でも経済に深く関わり、⑨各々の願望や意思に基づくのでなく、逆に人間を強いる「力」を持ち、⑩霊的な「力」と置き換えてよいらしい。
(以上の抜き書きは「柄谷行人『力と交換様式』を読む」(文春新書)所収の「『柄谷行人』ができるまで―「交換の力を考え続けた六十年」と「講演 「力と交換様式」をめぐって」による)
特にそれだけの評論を、私の記憶では、書いてないが、イエスによる原始キリスト教団をよく柄谷行人は参照し、今回の近著「力と交換様式」と「柄谷行人『力と交換様式』を読む」にもイエスとその教団の例はよく出てくる。
私は柄谷行人の導きで、田川建三「イエスという男」等を読んだのだが、確かにイエスの先見性や根源的な思想の明快な分析にすっかり当てられてしまうくらい影響を受けたものだが、信心がないからか、頻出する「神の国」だけが、どうしても理解できなかった。
だが、この交換様式Dがその「神の国」だとすると実にしっくりくる。
世界宗教の始祖の言葉、神がかりで霊的な、それこのガイスト(Ⓒヘーゲル)にちなんだものなのか、それとも何かの暗喩なのかとも思われたが、まさにこの疑問含め、神の国=交換様式Dとしても矛盾はない無矛盾である。
やはりその傍証になろうが、私がこそシリーズでは少々異質な「哲学の起源」で展開されるイオニアのアルキメデスらによるイオニア学派のイソノミアをギリシア哲学の起源とおき、これも交換様式Dの変種と認め、本書の中でそのイソノミア的共同体を世界史の中から様々に列挙している。
付け加えれば、⑪亜周辺から交換様式Dは現れるのだ。
そして最初期からの⑫アソシエーショニズムという概念も含まれるであろう。
いったいこれは何か?
現在世界の例で、NAM時代の地域通貨や昨今では長野あたりへのIターンも含まれるという。
台湾の経済大臣や神学者たちが注目する交換様式Dは神の国で、イソノミアで、アソシエーショニズムであるもの。
それは果たしてなんなのであろうか。
私はそれを映画「人間革命」において丹波哲郎が独房において得た気付きのように脳内に浮かんだ。
それは「愛」だと。
ここから急いで補遺を付け加えればならない。
神の愛と恋愛における愛とは別のものなのか、否かはキェルケゴール等を読んで起こる疑問だが、それも交換様式Dの発想で解ける。
交換様式A 家同士の、部族内の結婚、いわゆる見合い(贈与と返礼)
交換様式B 隷属的関係、現在ならば共依存含む服従と保護(略取と再分配)
交換様式C 家事専業がいることで成り立つ家庭(貨幣と商品)
交換様式D 恋愛=Aの高次元での回復
なにより、柄谷行人がカントとマルクスを通して、この交換様式にたどり着いたのはマルクスは本来生産様式の観点だと思われたが、同志エンゲルスを含め、交換様式の視点を手放したことは一度もなかったとという思考が生まれたためだ。
では恋愛における生産とは何か、それは出産・育児に基づく。
実はここにセックスは入らないのは、それが交換様式だからだ。
交換様式Aと士族社会・定住革命のどちらが先か判らぬが、それはセットであり、否、同じ言葉の云い方違いに過ぎない。
これはそうとうの進化である。
既に交換様式Bの解説も含まれるが、この交換様式のおかげで、強姦・乱交・近親相姦はかなり激減された時代を人類は向かえたと言ってよい。
建前であるとはいえ、交換には主体が必要なため、財産の発生と共に、贈与と返礼、略取と再分配が生まれたのだ。
この時点で既に交換様式CとDも生まれていたハズだが、顕在化はしていない。
特に交換様式Cはあえて専業主婦を匂わす書き方で、近代を想起させるようにしたが、養う義務は近代以前にも既に存在したいたハズだが、交換様式AとBと混在され、見え辛かったのだ
そして交換様式Dとは、
①Cを経た上でAに高次元に回復するが、それは未来のこと~女性原理と男性原理はやがて母性原理と父性原理に行き着く。
②共同体拘束でなく助け合い・自由・平等がある~それは親同士や階級の上の者による命令ではない(いや、きっかけはそれもいい)総合扶助。
③人為的に考えては実現できず、向こうからやってくるもの~いわゆる一目惚れやビビ婚。
④しかも商品に宿る物神=フェティッシュの存在を認める~肉体のそれ。
⑤⑩怪獣や霊にも例えられ・置き換えられ~空想的で、実体がない。
⑥ABCと対置するものでなく、Dが国家や共同体には不可欠だが、DはABCを超えるものでもあり~敵対する共同体・人種・宗教の間にも突如発生するので、前提として共同体がなければ発生しない。
⑦でも実は交換様式でなく衝迫としてある~同上。
⑧観念的・宗教的である~同上。
⑨でも経済に深く関わる~同上、
⑨各々の願望や意思に基づくのでなく、逆に人間を強いる「力」を持つ~同上。
⑪亜周辺から交換様式Dは現れる~トップ同士や階級内ではなく、共同体の間に発生する。
⑫アソシエーショニズムという概念~共働き。
なにより、原始キリスト教やイオニア、全ての世界宗教のように当初の恋愛は続かず、どこかで交換様式Aに変化させないと関係自体が破綻するのだ。
奥泉光はシンポジウム「差異/差別、そして物語の生成」で中上健次の小説は近代ではあっても前近代的な荒れた世界を活写していて、そこで行われる恋愛というかセックスは交換様式AとBばかりであったが、「地の果て 至上の時」あたりでユーモアが生まれ、多くの遺作長編には近代小説の定義である、人間関係の構築、あるいはその萌芽が見られると言っている。
おそらく、中上健次も存命だったら、今頃、愛のある近代小説をものしたことである。
柄谷行人が愛にたどり着いたように。