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恣意性と「力と交換様式」上



    上



「力の交換様式」(岩波書店)読了した時に、いや読んでいる最中、いやいやこのシリーズに付き合って既に20年以上の間に、以前から思っていたことをしたためたい。

それは「トランスクリティーク」の批評空間からの発刊である2001年から始めるべきか、「マルクス その可能性の中心」が「群像」に発表された1974年からにすべきか、まずはそのAtoZを挙げて悩むフリをしてみたが、〈転回〉から始めるべきであろう。

他者の他者性を論じた「探求Ⅱ」からの続編である「探求Ⅲ」の連載を「群像」で当時よく立ち読みしていたものだが、文芸誌を熱心に立ち読んでいたことに我が事ながら驚く、隔世の感がある。

その連載中に<転回>からこのシリーズは始まり、協同組合の実践に着手するのだが、まったく同時期に「おジャ魔女どれみ」がスタートしている。

最初にこのシリーズの理念を知った時に〈可能なるコミュニズム〉とはMAHO堂のことだと思ったものだ。

資本=ネーション=ステイトを超える<可能なるコミュニズム>、この第4項目が際立ってくるまでに時間を擁するのだが、本書に即して云えば、交換様式Aがそれぞれの家庭、Bが学校のクラス、Cが魔女界、DというABCの権力を揚棄(対抗)するために存在するのがMAHO堂なのだ。おジャ魔女たちは娘として、小学生として、魔女見習いとして、それぞれのABCの交換様式に〈定住〉するのだが、同時にDであるMAHO堂の成員である。


交換様式A 互酬(贈与と返礼) ネーション

交換様式B 服従と保護(略取と再分配) 国家

交換様式C 商品交換(貨幣と商品) 資本

交換様式D Aの高次元での回復 X


ところが、ABCは残り続けるが、MAHO堂は1年経つと解散し、シリーズ完結の折には壊滅している。

だが思い出して欲しいのはDであるMAHO堂がいちばん活躍する時は、あいこの離婚した両親の問題(互酬のA)の対処といったまさに「Aの高次元での回復」であり、長引く登校拒否児童問題(保護のB)、先々代の女王様による魔女界の混乱(Cの交易の頓挫)なのである。

交換様式Dは霊や怪獣と同じく魔法・魔女というのカタチで現れ、自分の力ではなく「向こうからやってくる」ものなのだ。

「おジャ魔女どれみ」完結後、ナージャという(定住から)<漂泊>の物語を経由し、プリキュアの時代になり、それが20年続ているが、これこそ国教化したキリスト教であり、一国社会主義なのだ。

本書における〈力〉ではなく、形而下な力による解決は交換様式Dの必要性を逸した。

実はこのような見立てはいくらでもできるように見えるが、<可能なるコミュニズム>と云いながら、左翼あるいは元左翼である宮崎駿や高畑勲、押井守にはこのような見立てが成立しない。

ナウシカやコナンといった原始共産制の賛美を持つ宮崎駿はキリスト以前どころではなく、古代ギリシア以前の通じ(実はそれはそれで語るに値するのだが)、パトレイバーやケルベロスという体制内の小集団を描く押井守は安住した時点で交換の視点が皆無だ。

そんなこより、「平成狸合戦ぽんぽこ」がタダの日本共産党史でしかないことで高畑勲の存在にこそ驚くものであるが。

高畑・宮崎と同世代にして、足立正生の後輩であり、安彦良和の同僚であった、ノンポリの富野由悠季の方が、左翼を客観的に見られる分、交換様式Dに敏感であった。

(急いで付け加えれば、1974年の「マルクス その可能性の中心」こそ富野由悠季がトリトンからライディーンといったオリジナルを制作する過程でもある)

家族・国家・戦争を描いたガンダムはおジャ魔女サーガ程、厳密に別れておらず家族と云えばアムロの家族が挙がるが戦争で引き裂かれており、ザビ家はイコール国家である。

そもそもジオン公国がナチ化したザビ家であり、アムロが戦場以外で敵軍に遭った時に、ラルには食事をご馳走されそうになり、シャアにはお礼するよう云われるのは交換様式Cにおける〈交通〉であり共同体が切れて時に起るコミュニケーション(戦闘含む)なので、富野由悠季はこの3階層を満遍なく描く。

だからこの交換様式Dとしてのニュータイプの交流が発生する。

思えば、富野がこのニュータイプに拘泥して、ガンダムを混乱させたのは当然ななのだ。

本書によればそれは意識的に生まれるものでなくまさに〈霊〉のような存在だからだ。

(ララァとの交歓シーンで、島だかに波がザブンとブツからトリップのような描写があって、何だろうと考えたいたのだが、昔中古レコード屋でガンダムのサントラLPを掃除していた時にライナーノートを読んだら、どの島はニュータイプの理想郷だったそうな。つまり、富野由悠季はこの時点でニュータイプを共同体として捉えていたのだ)

だが、なにしろ交換様式Dは脆く、壊れ易い。

続編のZこそ交換様式Dを求めて、国家(連邦の内輪揉め)、資本(ラオ商会やアナハイム)、ステート(地球の重力)が勝りに勝り、交換様式Dというニュータイプの能力は死者との対話でしか発揮されなくなり、その上で発狂は当然の帰結であったのだ。

実は交換様式Dがエヴァにもない。

国家の上にゼーレ、使徒の上にカヲルと階層を増やしてごまかしているだけだからだ。

強いて上げればシンエヴァの第三村がそうなりそうな予兆はあった。

(あの第三村こそ放映されたメイキングのドキュメンタリー番組で庵野秀明がいちばんこだわったもので、主人公のモチベーションを上げるべきものだったのだろうが、後半にほとんど響いていない。だが、あれこそまさに単純なユートピアである)

富野由悠季の直弟子・永野護はこの交換様式Dを作中で展開しようとしている。

それより、実は本書を読んで確信したのだが、この〈可能なるコミュニズム〉シリーズはやはりおたく文化について書かれていると思う。

まずアニメや特撮、鉄道やアイドルについて最初に触れるのは家族との交流による贈与によるものから始まるのでまさに交換様式Aで、ここからおたく趣味は始まる。

次にサークルや部活、オフ会等で家族以外におたく趣味を話せる友人ができるのだが、ここにはマウント取りしてくる先輩がいる。

そうでなくてもSNSはにわか退治は溢れていて、ここに服従と保護のBがある。

そしてCの資本主義こそ、おたく趣味浪費に他ならない。

そこで交換様式Dなのだが、これが何かと云うと、やはりコミケなのだ。

しかし待って欲しい。コミケには企業ブースがもう20年以上幅を利かせ、儲け主義だけの壁際サークルもおり、転売ヤーも多く、これは交換様式Cの資本主義の変奏でしかない。

そうなのだが、むしろ交換様式Dはコミケが年に2回、計多くても年に6日であることが重要なのだ。

つまり残りの249日、コミケはどこにあるかと云えば、参加者の心の中にある。

これは永野護がFSSでハスハ民族の心の中にしかない国家アトール聖導王朝と同種のものである。

(永野護はアトール聖導王朝以外に作中に、第5の星フォーチュンやNo.37以降のミラージュ騎士といった理念だか、現実にあるかどうか判らぬ存在を提示している)

むしろコミケ準備会はそのような企業ブースら資本家を排除しなくて正解なのだ。

彼らの心にコミケはないし、稼ぎ目当てのサークルや転売ヤーも同様だし、そのうち来なくなる。

おたく嫌いの柄谷行人の書物からこのような想起をイヤミっぽく取られるだろうが、私は本気で、コミケ設立メンバーの多くが左翼学生上りで、学生運動が退潮した70年代半ばから創始したのは偶然ではないと思う。

柄谷行人に反旗を翻した東浩紀が最初に拠点としてのはニコ動でもYouTubeでもなく、コミケ会場だったのもなんとも示唆的であろう。

だが彼はもうアニメを論じず、でも浦沢直樹を呼びはする。

東浩紀も昔は交換様式Dがあったのだが、Cに完全に移ったのだ。

コーラス6が亜辺境のカステポーとアトール聖堂王朝のある聖宮ラーンから始めたようにコミケから始まる人は多数いるのである。

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