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9.

 あれから数日。時間が欲しいと言ったのは自分なのに、北海道へ発つ時間だけが刻々と迫り、私は困惑していた。明日、卒業式に出たら、私は旅立たなければならない。誤解が解けた後、私は両親に恭介が事故にあった後の話を聞いた。最初こそ、母は辛い思い出だったと語りたがらなかったが、全て話してくれた。私が思いもよらぬ飛び火を受けたことは、当時私の両親も恭介の父親も重く受け止められていたのだ。


 今思えば、当時の記憶が曖昧なのだ。母は、あまりの出来事に自分自身をシャットアウトして、殻に閉じこもっていたのだろう、と語っていた。確かに、そうだったかもしれない。周りの人から言われた自分を悪者にする言葉だけが私の中に残り、それだけを信じて、自分の罪として受け止めていたのだ。


 どんなに恭介が許してくれていても、外野の人間が言っていたことも間違いではないとわかる。みんな、東田恭介という一人の人間をそれだけ惜しんだということだ。彼の才能のことを思えば、みんながそう口にしてしまうこともわかる。やはり事故にあったのが恭介ではなく私の方が良かった。私が走れなくなっても、これからの人生に支障はないのだから。


 そんなふう考えていると、LINEの通知音が鳴った。

「今からうちに来ない? 見せたいものがあるんだけど」

 送り主は恭介だった。

(え…)

 一瞬、身構える。しかし、正直に気持ちを伝えてくれた彼が、もうあんな真似はしない。私はリビングのソファで読んでいた雑誌を閉じて、上着を着た。

「これからお出かけ?」

「ううん、ちょっと恭介のところ」

「じゃぁ、これ持っていって」

 母は冷蔵庫から大きいタッパーウエアを取り出すと、手つきのビニール袋に入れて私に寄越してくる。

「ん。わかった」

 タッパーウエアの中身は、今日の夕飯に大鍋で作っていたあの肉じゃがだろう。

 私はそれを受け取ると、彼の家へと向かった。




 相変わらず、恭介の家の玄関のドアの鍵は空いていた。玄関には恭介の靴が出しっぱなしなだけで、彼の父の革靴はなかった。今夜も恭介しかこの家にいないようだ。

 玄関を上がり、いつものように2階に上がると、彼の部屋の前に立った。心の準備をしてからドアをノックしようと思っていたのに、ドアが開くのは突然だった。

「いらっしゃい」

 恭介は、穏やかに笑いながら私を部屋の中に招き入れてくれた。しかし、私の顔を見た途端、表情を曇らせていた。

「そんなに警戒しなくても、もうあんなふうに手は出さないよ」

「え?!」

 まさかそんな心配をさせるような顔をしていたなんて思わなかった私は、慌てて首を横に振った。

「そう? ならよかった」

 彼は背を向けて本棚から大きなアルバムを取り出して部屋の真ん中に置いてあるローテーブルの上に置いた。


「アルバム?」

「うん。このアルバムにはポン太の写真がたくさん貼ってあるから、久しぶりに一緒に見たいなって思って」

 彼はアルバムを開くと、私を隣に座らせた。

 ポン太は、真っ白な北海道犬の男の子で、東田夫妻がここに引っ越してくるときに迎え入れた犬だった。彼らがこの家にポン太が来た時はまだ生後2か月の子犬だったそうだ。アルバムを開き、ページをめくると、その時の愛くるしい姿のポン太の写真がたくさん収められていた。

「ポン太は俺が生まれた時からいたんだよな。赤ちゃんだった俺が泣いてたら、すぐ母さんを呼びに行ってくれたり一緒に遊んだり、面倒見てくれてさ」

 赤ん坊の恭介と一緒の写真もたくさん貼ってあった。最初は恭介のお兄さんだったポン太は、彼が成長するにつれて弟のような存在になり、やがて彼を静かに見守る優しいお爺さんのようになっていった。

 私も一緒に写っている写真もたくさんあり、子どもの頃の懐かしい思い出に思わず顔が綻んでいた。


「でもポン太に病気が見つかって、11歳で死んじゃって…」

 アルバムには元気な彼らが写っている写真ばかりだが、彼は遠目で過去を思い出しながら続けた。

「母さんが死んじゃった時は泣かなかったのに、ポン太が死んじゃった時はギャンギャン泣いてさ」

 苦笑いしているが、恭介はあの時に感じた胸の痛みを思い出しているかのように目を伏せた。

「俺さ、母さんが死んだ時、よくわからなくて、実はあんまり覚えてないんだ。悲しくなかったわけじゃないんだけど、たぶん亡くなったこと自体がよくわからなかった、そんな感じ。あの時親父に言われたのが、『もう会えないということが解った時に泣いていいんだ』って。ポン太が死んだ時、あぁ、こう言うことかって納得したっていうか…」


 ポン太の病気は、もう少し早く病院にかかっていれば治ったかもしれない、と獣医さんに言われたそうだ。彼の父親は仕事が多忙で家を不在にしていることが多く、なかなかすぐ病院に行けなかったために、発見が遅れてしまったのだと、私は母から聞いていた。

 恭介とポン太が戯れている写真を眺めながら、私もその当時の様子を思い出していた。記憶を深く辿らなくとも、よく覚えている。私たちが小学3年生の時だ。ポン太の調子が良くないことを恭介は心配して、毎日看病をしていたのだ。私たちが学校から帰ってくるとすぐに様子を見る。彼の姿を目にすると、ポン太は弱っていながらもゆっくりと尻尾を動かして喜んでいた。そんなポン太を抱きしめながら、恭介は甲斐甲斐しく世話をしていたのだ。


 そんな状態が続いていたある日、学校から帰った私たちはいつもの様にすぐにポン太の元へと向かった。するといつもと様子が違うことに恭介はすぐに気付いて、急いで駆け寄った。そこでポン太の体が冷たくなっていたことを私たちは知ったのだ。動かなくなってしまったポン太を抱きしめ、少年は声が枯れるまで泣き叫び続けていた。

 彼の心の叫びともとれるその声を聞きながら、私は漠然と頭に浮かんだあるひとつの可能性を考えていた。もし、私が動物たちの命を救えるようなお医者さんだったら、こんなふうに悲しむ人が少しでも減るのだろうか。彼は自分の母親が亡くなった時と対照的に、今ここで感情を爆発させている。そんな彼をもっと大事にしてあげたい、と思ったのを私は今日、恭介の部屋で思い出している。


 あの時抱いた夢は、自分が幼過ぎて漠然としていた。恭介が事故に遭った時にその夢を強く抱くようになり、それがいつの日か自分自身を支えるための夢になり、最初に抱いた根本の思いをあえて思い出さないようにしていた。もちろん、矛盾していることに気が付いていたが、気付かないフリをして蓋をした。

「俺はもうサッカーは昔みたいにはできないけど、お前がポン太のことをきっかけに獣医になる夢を諦めないで進もうとすることに嫉妬したことなんてないよ」

 彼が私の顔を覗き込んで来る。彼の視線を感じ、そっとその視線に交わるように合わせてみると、彼はふっと穏やかな笑みを浮かべていた。

「…本当に?」

「当たり前だろ。お前がポン太の死をきっかけに獣医を目指してることを知った時、俺、すげー嬉しかった」


 私はかつて、この人のために獣医になることを決めた。

 心の中の霧が晴れて、今はっきりと心からそう言える日が来たのだと、素直にそう感じている。それを伝えるために、ここに彼は呼んだのか。そんなことを考えたら、もう答えはひとつしかない。

「…恭介。私」

 うつむいていた気持ちを上げるように、私は彼の名前を口にした。

「向こうで頑張ってくるね。…本当に待っててくれる?」

「もちろん」

 彼のよどみのない返事は、全身に波紋の様に広がっていく。その瞬間、今までずっと堰き止めていた思いが溢れ出しそうになり胸が苦しくなっていた。何か言わなければ…と思えば思うほど目の前が霞み、私は溢れんばかりの涙を流していた。


「私、恭介のこと好き…」

 すると、大きな掌が私の頭に優しく触れた。思いのほか温かいその掌は、とても心地よくひどく安心する。  

「一番大事なものは、いつでもそばにあったのにな…」

 私の言葉でその笑顔になった彼を見て、私はハッとした。それでも恭介は眉を八の字にしながら、困ったように笑っていた。

「俺たち、もっとお互いに期待しすぎたのかもしれないな。言わなくても、わかってるだろって。でもそれだとダメだって今更気付くなんて、俺たちもまだまだだな」

 私の涙を彼の指が拭い取る。私の頬に彼の指が触れたとき、ドキッとした。目を合わすのが恥ずかしくて、ちゃんと見られない。そんな私を笑いながら、彼は私の手を取って、自分の頬に寄せた。

「もう、この手は絶対に離さない。 お前がどんなに遠くに行っても」

いつの間にか、私の顔にはとっくに無くしていたと思っていた笑顔が咲いていた。




 翌日、卒業式を迎えた私たちは、笑顔でこの日を迎えられた。寒さも和らぎ、暖かい日差しを受けながら、私は恭介と一緒に登校した。

「おはよう」

 教室に入ったところで、愛佳が手を振りながら私たちの元へと駆け寄ってくる。

「愛佳、おはよう」

 もう何もしがらみのない気持ちで、私は挨拶を返した。

「恭介くんも。おはよ」

「ん、おはよ。いろいろありがとうね。愛佳ちゃん」

「私は何もしてない。むしろ千波に追い打ちをかけちゃって…」

 申し訳なさそうに目を伏せる愛佳に、私は首を横に振った。

「ごめんね、千波」

「私の方こそ…」

 涙で言葉が途切れても、気持ちを分かり合える友人がいる。そう思うだけで心強い。出会えてよかったと今になってそんな思いを噛み締める。高校最後の日がそういう日になって、本当に良かったと心の底からそう思ったのだった。




 卒業証書を手に、私は図書室の前にいた。普通、今日みたいな日は空いていないのだが、何となく足が向いたのだ。

 いつもの様に引き戸に手をかけると、簡単に戸が動いた。鍵が開いている。

「失礼します」

「どうぞ」

 いつもの声が耳を掠めると、声のする方へと顔を向けた。すると、いつもは図書委員の仕事場である貸出カウンターに、今日は珍しく秋間さんが立っていた。

「いらっしゃい。よく開いてるって気づいたわね」

 いつもの様ににっこりと上品に笑う秋間さんは、室内の奥にあるいつものフリーアクセススペースに視線を動かした。

「お待ちかねよ」

 しっとりとした赤いリップの彼女は、微笑みながらカウンターの奥へと入っていった。私は、水曜日に勉強机代わりに使っていたテーブルへと進んだ。


「おさむくん」

 窓を眺めながらひとり椅子に座っている彼に、私は話しかけた。私の声で、現実に引き戻されたかのようにハッとして、彼は「あ…」と漏らしながらこちらを見た。

「西野先輩。卒業おめでとうございます」

 笑顔でそう口にした彼だったが、どことなく寂しさを滲ませていた。

「本当に合格しちゃうなんて、すごいですね。職員室で話題になってましたよ。うちの高校から北大が出たって」

「フフ。ありがとう」

 私はいつもの席に座り、彼と向き合う。

「さっき、卒業式が終わって体育館から3年生が出てきたときに見かけたんですけど、先輩たち仲直りしたんですね」

 多くを語らずとも、おさむくんにはすぐにバレてしまう。隠しても仕方がないことだ。私は素直にうなずいた。


「恭介とちゃんと向き合うことにしたの。これからしばらく離ればなれになっちゃうけど、頑張ろうって」

「そっかー…」

 うーん、と思い切り伸びをする彼。あくびをして、目じりに涙が浮かんでいた。

「じゃぁ、俺はきっぱりと諦めるとします」

 ニコっと笑って、彼はそう口にする。そして、右手を差し出してきたのだ。

「これから大変だと思います。…本当に頑張ってください」

 私は、求められている右手を差し出し、握手した。

「うん。自信を思い出させてくれてありがとう。感謝してる」

 お互いにぎゅっと握り、しっかりと握手する。私よりも一瞬遅れて手を離した彼は、苦笑いしながらその手を引っ込めた。

 私たちは、そこで別れた。もうおさむくんと会うことはないだろう。私は、おさむくんを残して先に図書室を後にした。そして、恭介と愛佳の待つ校門へと向かう。振り返ることなく、私の足は彼らの元へと向かって行った。


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