7.
冬休みに入り、家族だけでささやかにクリスマスケーキを食べたりしながら、私は勉強に励んでいた。並行して受験校の願書の記入、パソコンで出願のフォームをダウンロードしたりして着実に自分の受験の準備をしていた。
もちろん、獣医学部以外の学部も受けないわけではない。浪人などできるはずがないため、滑り止めの準備も抜かりなくやった。
もし私が獣医学部に行かない未来を選んだら、おさむくんは本当に私を追いかけてきてくれるのだろうか。私を、恭介という鎖から解放してくれるのだろうか。
彼のあの時の言葉が嘘ではないと、信じている。だが、私風情が恭介から逃げることを選んでもいいのか。縋りたい自分と貫きたい自分がせめぎ合っていた。
私を好きでいてくれた恭介はもういない。彼はいつでも優しかったが、それは私が言いなりになっていたからだ。私が他の男子と仲良くするのを気に入らない彼は、まるで私のことを所有物のごとく手を出した。その理由があまりにも理不尽で、あぁやっぱり、”私でない誰か”を見ているんだと実感する。私は彼にとって単なる傀儡人形でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
それに比べておさむくんといると、対等な関係でいられる。それが意外にも心地よくて、ドキドキした。こんな私でも、「普通の女の子」として扱ってくれることに、シンプルに嬉しかった。
すぐに”もしも”のことを考えてしまう。”もしも”獣医になることを辞めたら。”もしも”普通の大学生になったら。”もしも”おさむくんを選んだら。
ずっとここにいられる未来が私にあったら、どんな夢を思い描いていただろう。私の今の夢は、傷付いた恭介がそばにいたから強くなっていった。この10年の間に大事なものを三つも失くした恭介。5年前に私のせいで失った彼の将来の夢への思いを馳せながら、彼は今、どんな将来を思い描いているのだろう。しかし彼の夢を知る権利は私にはない。だから、せめてそれが叶うように私は願うだけだ。
「それが、先輩の答えですか」
準備が整った時、私の隣にはおさむくんがいた。前にふたりで会った公園に来てもらったのだ。真剣に思いを伝えてくれた彼には、真剣に答えないといけない。
真冬の公園は寂しくて、静かだった。公園に植わっている木々の葉が落ち、丸坊主になっている。分厚い雲が広がった白い空からは、今にも雪が落ちてきそうなそんな天気だった。
「うん。今更、変更はできない。このために私はずっと準備してきたから」
矛盾していると解っていても、それを正すことができないくらいに自分が頑固であることも知っている。
私の夢は揺らぐことなく、計画通り進んでいる。共通テストも自分が思うよりも結果を出すことができた。このままのモチベーションで二次試験に臨めれば、良い結果を出せるのではないか、と予備校のチューター面談でも言ってもらえた。だからこそ、一縷でも希望に縋ることのないように、私はおさむくんに会った。
「…応援してます」
寂しそうに笑った彼は、小さな声でそう言ってくれた。夢を見せてくれた彼に、私は感謝しかない。
「ありがとう」
本当はもっとたくさん伝えたい。こんな私のことを気にかけてくれて、苦しんでいることを解ってくれて、それでも好きだって言ってくれたことをきっと私は忘れない。
もう、後戻りなんかできない。前に進むしかないのだ。行き場の無い痛みを抱えながらも、着実に時は刻まれていく。そしてついに、私は第一希望の学校の試験を目前に控えていた。
風呂から上がり、濡れた髪にタオルを被ったままベッドに腰をかけていると、真っ赤なスーツケースが目に映る。その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「千波」
私が中からそっとドアを開けると、空いたドアの隙間から顔をのぞかせたのは、母だった。
「明日、6時でいいのよね?」
「うん」
寝坊をしてしまわないように、夕飯の時に起こしてほしいとお願いしたのだ。しかし、母の表情で、そんなことを確認しに来たわけではなさそうなのは一目瞭然だった。
「寒いでしょ、中に入ったら」
私は母を部屋の中に招き入れた。
ふたり、ベッドに腰かけると、母は私の顔を焼き付けるようにじっと見つめながら口を開いた。
「明日、受験票とか、忘れ物ないようにね。ホテルに着いたら、メールしてね」
何度も聞いた話だ。私はつい苦笑いを浮かべてしまった。
「もう、何度も聞いたよ」
「だって…」
試験前に関わらずこんなことを言う母も、きっと何かを感づいているに違いない。
「なんだか、もうここには帰ってこないんじゃないかって…」
寂しそうな母の顔がそこにあった。確かに、そのつもりだ。
「…そんなの考えすぎだよ。まだ受かってもないのに」
それなのに、そんな母の寂しそうな顔を吹き飛ばすように、私は笑った。
「でも、北海道に行くために、必死に頑張ってきたんでしょう?」
寂し気に揺れる母の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「…恭ちゃんの足のこと、まだ気にしてるの?」
母にそう言われて、私の胸がチクリと痛みが走る。あの時、母は私に言った。
『事故に遭ったのが、千波じゃなくてよかった』
母はそう言ってくれた。それはもちろん恭介が事故に遭ってよかった、という意味ではなく、無事でよかったと言ってくれたことだと、こどもながらに理解していた。しかし、私は違った。そんなことをいくら言ってくれたからといって、私の心が軽くなることはなかった。
私はいつも事故に遭ったのが自分だったほうが100倍良かったと考えていた。私には秀でた才能もなければ、何かを失って惜しまれるようなものもない。
『お前が忘れ物なんてするからこうなった』と陰口を叩かれたりもした。恭介の見えないところで、彼を好きだった女子たちに集団で暴力を振るわれたりもした。しかし、私はそれを甘んじて受け入れた。それは、私への罰だったからだ。
それでも、私が彼から奪ったものを補うことはできなかった。親だけは私を肯定してくれる。でも、それではダメなのだ。
彼は、私のことを好きではなくなった。恋の相談を受けたとき、心の中で何かが崩れ落ちた。それが、私の一縷の希望だったことに気付いても、もう遅い。彼は私のことを許してはいない。それがハッキリと解った時、無邪気な顔をして私を責める彼に、私はどんな希望を持てるというのか。彼の足のことは、絶対に忘れてはいけない。
「違うよ」
誰にも言えない。言ってはいけない。だから、私は嘘をつくのだ。
「じゃぁ、なんで離れて行こうとするの」
母は知らない。私がどうして恭介から離れようとしているのか。知らないほうが、お互い幸せだ。私は恭介から母の存在まで取り上げようとは思っていないのだから。いなくなるのは、私だけでいい。
「恭介は、失くしたものが多すぎるから、その分幸せにならないと」
私はありったけの笑顔を浮かべた。
「彼は今、私の親友の愛佳とラブラブなんだよ。私、あいつが愛佳と付き合えるように頑張ったんだから。褒めてほしいくらい」
そんな母に、私は続けた。
「大丈夫だよ。私がいない間、恭介が来てくれるから」
すると、母は「そうね…」とうなずきながら私を抱きしめるのだ。母の腕は、とても暖かかった。
母が部屋から出て行ったあと、立ち上がって机に置いてある明日の受験票を手に取り、バッグにしまった。そして髪を乾かし、早々に布団に入ると、目を閉じた。
私の夢。それは幼い頃から変わらずに抱いてきた、動物のお医者さん。
彼の母親が亡くなってから2年後。恭介が心底可愛がっていたあの犬が息を引き取った時、彼は母親が亡くなった時には流さなかった涙をありったけ流していたのだ。また愛おしい存在が彼のそばから消えた。
私はおせっかいにも、彼のようなそんな人を救える獣医になりたいと、密かに夢を思い描いてしまった。
そしてそれは、おかしな矛盾を生みながら現実のものとなっていくのだろう。彼とすれ違うたびに、なぜ自分がこの夢を振り払えなかったのかと何度も自問自答した時もあった。しかし、違うのだ。獣医になるのは彼のためだけではない。私が今、自分を保つためには、どうしても理由が必要だった。私は自分のしたこと、彼が傷ついたことを忘れないために、獣医になろうとしている。彼には、私がどうして獣医になりたいかという理由は必要ないのだ。私はもう彼の言うことは聞けないけれど、彼の幸せを願い、彼のことを忘れずにいるためには、こうするしかない。
翌朝、目が覚めると頬が涙で濡れていた。そして、人に見せられないほど瞼が腫れてしまい、朝から氷で冷やす羽目になった。たとえ泣いても喚いても、もう私の運命は変わらない。予定通り試験会場に向かうために、私は家族に見送られて家を出た。
玄関を出ると、朝の日差しが眩しくて、思わず目を細めた。雲のない青い空の下は物凄く寒い。放射冷却現象だ。しかしその空は、私の背中を押してくれているかのような快晴だった。冷たい空気が頬を掠め、目が覚めるようだった。
(頑張ろう…)
白い息を吐きながら、しっかりと地面を踏み締め、私は歩き出した。
一人で乗り込んだ北海道の地は、関東の寒さとは比べ物にならないくらい本当に寒く、真っ白だった。まるで、これからの私のよう…
不安な気持ちを押し付けることなく、母はここに来ることを許してくれた。ひとりの人間の人生を左右する試験を、私は全力で受けに行く。もう行くしかない。
心細い気持ちや寂しい気持ちが入り交じる中、私の足は目的地へと向かっていた。
あぁ、私は彼の夢を諦めさせたくせに、自分の夢は叶えようしているんだな。もし恭介が私の合格を知ったら、彼はますます私を許してはくれないんだろうな。
それでも今までやってきたことをフルに発揮する。全神経をかけてこの試験に合わせてきたのだ。
手応えはあった。
これから、また新たなスタートラインに立つ。新しい場所で、新しい仲間と共に。