6.
気が付いたら、もう年末に差し掛かっていて、私の受験も佳境になってきた、ある日。恭介を心配している母は、どうもご飯を作って彼の家に持って行っているらしい。私との関係がうまくいっていないこともなんとなく察しているようだが、母は私に余計なことは言わなかった。
冬休みの前日、下駄箱で外履きに履き替えていると、ひょっこりとおさむくんが私の前に現れた。
「西野先輩、一緒に帰りません?」
恭介も愛佳もいるその場所で、おさむくんは堂々と私に話しかけてきたのだ。
「あ…、ど、どうしたの。びっくりした」
「今日、この後息抜きになんか食って帰りましょうよ」
私の驚く顔もそのまま、彼は靴を履き終わった私の手を引いて、下駄箱から外に連れ出したのだ。
「おさむくん、ちょっと今のは…」
校門のところまで言ったところで、私は足を止めてそう言った。
「いいじゃないですか。どうせなにも解決してないんでしょ。だったら、たまには息抜き」
悪びれることもなく、彼は屈託なく笑っている。そんな顔を見ると、自然と私の顔も緩んでしまう。
「どこかおすすめのところがあるの?」
「ん-、どこがいいかな」
上目遣いで考えるおさむくんに、私はどこか期待をしている。
「今日、予備校何時から?」
「今日は、夕方からだよ。17時20分から」
「じゃぁ先輩、パンケーキ好き?」
「好き!」
私がそう答えると、彼は嬉しそうに私の手をぎゅっと握ったのだ。
「ちょっと並ぶかもしれないけど、そこに行こう」
彼は飛び切りの笑顔を浮かべて提案してくれた。私もつい楽しくなってそれに応えている。普段から連絡なんてすることはないけど、彼はこうやっていつでも私のことを考えてくれていることに、単純に嬉しかった。それと同時に、離れてしまうことに負い目も感じている。こんなに求めてくれているのに、私はきっとそれに応えられない。そう思うと、今だけ楽しければいいと割り切ることは、正直難しかった。
それでも、おさむくんと一緒にいると、嫌なことから解放されるようだった。きっと付き合ったらこういう感じなんだろうな、というふわふわした感覚が私の中にじわじわと浸透していくのだ。こんなふうに誰かといることが、こんなにも癒しに感じたことはなかった。誰からも干渉されずに彼と一緒にいられたら… そんなことを考えないわけがなかった。
しかし、それはシンデレラのように魔法には限りがあって必ずタイムリミットがやってくる。パンケーキを食べ終え、少しだけお茶して話をしていたけれど、もう予備校の講義の時間が迫っている。私の癒しの時間はもうすぐ終わる。
「年が明けたら、もうこんなふうに誘えないですよね」
さびしそうに笑いながら、おさむくんは呟いた。私もどう答えたらいいかわからなくて、小さく笑って目を伏せた。
「自由登校っていつからでしたっけ」
「2月からだよ」
「そっか…」
1月の中旬に二日間の日程で共通テストが行われる。そのあと、国立大学の願書を出して、2月後半に試験を受ける流れだ。年が明けたら、正直、誰にも構っている余裕はない。
会話が途切れ、お互いに紅茶を啜る。やはてカップのお茶がなくなってしまった。私たちはお店を後にして、予備校まで一緒に移動することにした。
「大学、決まったら教えてくださいね」
「うん」
手を振り、私はおさむくんに背を向けて歩き出す。
「俺は、まだ諦めてないから」
(え…?)
私の背中に向けられた彼の言葉がぶつかった。思わず足を止め、振り返る。
「この間言ったこと、嘘じゃないから」
じっと強い視線で私の瞳を捉えている。
『先輩が近くにさえいてくれたら、俺が先輩の見る風景を変える』
この言葉は、嘘じゃない…
きっと、おさむくんとこんなふうに会うのは今日で最後だ。次にいつ会うのかさえわからないのに、結論を出すことなんて、できるのだろうか。
「私は…」
「千波、何やってんの、ほら、授業に遅れる」
急に腕を掴まれ、引きずられるようにおさむくから引き離したのは、恭介だった。
「ちょっ、恭介? なに? 離して!」
「お前、頭の中お花畑にでもなってるわけ? 時間、ヤバいだろ」
「離してよ!」
私がいくら叫んだところで、恭介の力に敵うわけなく、彼は私を力任せに引きずっていく。その時、おさむくんが掴む恭介の手から私の腕を解放してくれたのだ
「あなたには他に可愛い彼女がいるんでしょう? もう西野先輩をもののような扱うのはやめたらどうですか?」
いつになく怒っているおさむくんは、恭介から私を守るように前に出て、恭介を睨みつけていた。
「お前には関係ないだろ? だいたい、千波をもののように扱ってなんかねぇよ」
「じゃぁなんで、西野先輩はいつも苦しんでるんですかね? その理由を考えたことあるんですか?」
「いやだから、お前には関係…」
なんで、こんなことになってるの? 恭介が私のことでムキになることなんて、あり得ない。こんな無駄なやりとり、意味がない。
「もう、いいから…!」
私は、睨み合う二人を制止した。
「おさむくん、大丈夫だから。ごめんね、今日はありがとう」
「先輩!」
おさむくんが叫ぶのも虚しく、私は手を振りながら恭介と予備校の入るビルに入っていった。どんどん進んでいく恭介は私の前を歩いており、何も言ってこない。そんな彼に、私はため息を吐いた。
「嫌がらせ、好きだよね」
受付を通り過ぎて、自分の教室に向かって歩く彼の背中に、私はため息とともにそう呟いた。すると、恭介はくるりと振り返り、眉間に皺を寄せながら詰め寄ってきたのだ。
「アイツはお前のなんなんだよ? お前はあの後輩と付き合ってるわけ?」
この間と同じで、彼の顔は苛立ち不機嫌だ。
「この時期にそんなわけないでしょ」
「じゃぁ、なんでアイツと一緒にいる時、あんな楽しそうにしてるんだよ?」
「楽しそう…って、どういうこと?」
見てたの? 後をついてきた…?
「アイツと一緒なのは、今日だけじゃないだろ」
「そうだけど…」
嫉妬でなければ、恭介のこの態度はなんなのだろうか。仮にも自分には愛佳という人の親友と付き合っているくせに、どう言うつもりでこんなことを…?
「…楽しいよ。嫌なこと全部忘れられる。彼は、私の欲しい言葉をくれるし、一緒にいたら安心する。…でも私は彼を選ばない。…誰も選ばないよ。…これでいい?」
自嘲的に笑いながら、私は恭介から逃れるように自分の教室に向かった。恭介はやはり、私の幸せなど決して許していない。
(私は、この先も幸せになんてならないよ…)
席に着き、テキストを机に出した。最初の授業は現代文だ。今日はミニテストがある。出題範囲を確認しながら、私は泣きたいのを我慢して、必死に自分を落ち着かせていた。
その日、最後の授業が終わると私は自習室に寄って勉強してから帰宅した。恭介はもう先に帰ったのか、彼の教室には姿がなかった。予備校を出て、一人で駅まで歩いていると、それを見計らったかのようにLINEが入った。
(愛佳…)
すぐに既読をつけず、とにかく駅まで行こうとつい足早になる。煌々と光る照明で明るい駅の構内に入り、ホームで電車を待ちながら愛佳から届いたメッセージを読んだ。
『今日の帰りに来た子って、2年生の子だよね? 付き合ってるの?』
正直、うんざりだった。しかし、無視するなんてできない。私は、『違うよ』と簡単に返信する。すると、またすぐに愛佳からメッセージが届いた。
『そうなの? まぁ、確かに今はそれどころじゃないしね。こっちも恭介くんも勉強が忙しいみたいだから、あんまり会えないよ』
読んでいる間に、彼女からのメッセージが連続で送られてきた。
『私に告白してくれたけど、他に好きな人がいるみたい』
(は、はぁ? まさか、そんなこと)
返信の指が震える。
『次に恭介に会ったときに、お説教しなきゃね』
とスタンプと一緒に返信すると、愛佳からは『ありがとう』と『おやすみ』のスタンプが送られてきて、私たちのやりとりはすぐに終わった。
『絶対に同じ大学に行こう』
今更ながら、恭介に言われた言葉を思い出す。胸が痛い。だけど、棘が刺さったまま取れない痛みをどうすればいいかなんて、そんな解決法なんて私には要らないのだ。あの日、恭介の足を奪ってしまった日から、私はこの痛みを忘れてはいけないのだから。だから、いつまでも治ることなどない。
あの言葉に深い意味などないのだ。恭介はあの日から、私を守ることをやめた。だから、私はもう恭介にとって特別な存在であるはずがない。そんな彼に心を寄せたところで、報われるはずなんかないのだ。その証拠に、初めて恭介から好きな人の相談を受けた時、わかっていてもショックを受けた。私は今日まで、あの時の胸の苦しさを忘れたことなどなかった。そしてそれ以来、彼が私に与えた役目なんだと理解した瞬間だった。
家に着くと、自宅前に人影があることに気付く。目を凝らして見てみると、そこにいたのは恭介だった。
「…こんな遅くまで勉強してたのかよ」
門灯に薄く照らされた恭介が口を開いた。夕方の苛立った様子でもなく、気持ちは落ち着いているようだ。
「そうだよ」
私は多くを語らず、短く返事をした。
「…お前はそんなに勉強して、どこに行くつもりなんだ」
気温は下がり、吐く息も白い、凛とした静かな夜。雲が晴れた空には、今にも夜の闇に紛れて消えてしまいそうな細い月が現れていた。そんな漆黒な空の下、彼の声はか細く響いている。
私は、深呼吸をしてそのひんやりとした空気をゆっくりと吸い込み、吐き出した。そして小さく笑いながら、切り出した。
「この間も言ったけど、もうあんたの相談には乗れそうにないから、ここいらで私のこと、もう忘れてくれないかな」
「だから、それ、どいうことなんだよ…?」
目を見開いて驚く恭介に、私は構わず続けた。
「私がここからいなくなったって、すぐに忘れちゃうよ。あんたには愛佳がいるんだもん、大丈夫」
「フフ」と声に出して笑いながら、会話が噛み合っていないことを自覚していた。よりによって私の親友のことを好きだという男に、本音で話すつもりはない。
「違う、俺が好きなのは」
「…愛佳でしょ。そう自分で言ったじゃない」
何度でも言う。何度でも自分の中で繰り返す。私は、恭介よりも幸せになんかならない。自分からは求めない。誰も選ばない。この町から消えるかわりに、あなたの幸せだけを願ってる…
私はいつものイダズラな笑顔を浮かべた。
「あ、そうそう。愛佳があんたのこと心配してたよ! 他に好きな人がいるんじゃないか、って。ダメだよ、カワイイ彼女にそんな心配させたら〜」
胸の痛みを無視して、私は意地でも笑う。
「…じゃぁね」
彼を追い越し、門を開けると、私は自宅の敷地に足を踏み入れた。そして、振り返ることなく家の中に入っていった。