5.
やがて私も、彼らを避けるように過ごしていた。また、水曜日、図書室に行けば気持ちをリセットできるのに、私はそれを選ばなかった。
恭介は、きっと私が幸せになることを許さない。私はこんなにも彼の幸せを心から願っているというのに。私たちは平等ではない。
夕飯を家族で食べていると、母はぽつりと零すのだ。
「恭ちゃん、ちゃんとご飯、食べてるかしら」
しかし、私はそれに答えることはなかった。恭介がどこで何をしているかなんて、もう私の知るところではない。
きっと相手が愛佳でなければ、こんなにも苦しくないんだろう。夕飯が終わり、自分の部屋へ戻ると、机に置きっぱなしのスマホにLINEが来ていた。
(畠山くん…)
その文面はとても簡潔で、気遣いを感じる。
『先輩、元気にしてますか』
もう会うこともやめてしまった私に、こんなふうに声をかけてくれる。時々、思い出させてくれる。自分が他人に求められているということを。
『元気だよ』
私も簡潔に返信した。すると、すぐにメッセージが飛んでくる。
『通話してもいいですか』
彼の誘いに、スマホを見ていた瞳が揺れた。少しだけ震える指で、『いいよ』と送ると、すぐに呼び出し画面に切り替わった。
「もしもし」
『こんばんは』
「うん」
少しだけ、心が暖かくなる。唯一の光。
『…やっぱり、元気ないじゃないですか』
電話の向こうで、苦笑いを浮かべているようだ。なぜ、彼にはバレてしまうのか。”もしもし”と言っただけなのに…
「…そんなことないよ。今、元気出たし」
『先輩が好きなのって、東田先輩ですよね』
なぜ、彼は恭介のことを知っているの…
「え…」
『なんかあったんですか』
「何にもない。何にもないよ…」
きっと、畠山くんには通じない。それでも私は否定した。
『なんかあったんですね』
ほら、やっぱり彼は気づいてしまう。だから私は揺らいでしまうのだ。何も考えずにそっちに行けたら、どんなに楽か…
『先輩の愚痴、聞かせて下さい』
…どうしてあなたは、そんな真っすぐに言葉を紡げるのだろうか。
「…いで」
『え?』
「そんなに、優しくしないで…」
心が壊れてしまう。どうしたいいのかわからなくなってしまう。どうしてこんなに自分が頑張っているのか。「頑張らなくていいよ」って言われたら、私の生きている価値がなくなってしまう。
『会いに行っていいですか。住所、教えてください』
「…もう時間遅いよ。ってか、会いにって…」
困る、と思う自分よりも嬉しいと思う自分の方が断然大きくて、どうしてって何度も胸の中で叫んでいるのだ。
私は、家の住所を彼に伝えていた。
「すぐ行くから」彼はそう言って、通話を切った。私は、その場にうずくまり、恭介から逃れるために畠山くんを利用しようとしていることに心が痛んだ。それなのに、拒めない。自分がこんなにも自分勝手だったなんて…
30分後、再び彼からLINEが入る。
(もう来た…)
私は、母にコンビニに行って来ると伝えて、外に飛び出した。駅の方に向かうと、ジャージ姿の畠山くんが見えた。
「…本当に来た」
私が思わずつぶやくと、彼は白い歯を見せて笑った。
「嘘、つくわけないでしょ」
彼がそんな子でないことは解っている。解ってるのに…
「公園で話しようか」
私は彼を連れて、近くの公園へと移動した。
ブランコ2機と、滑り台と砂場だけの小さな公園を訪れた私たちは、迷わずブランコに座った。子どものころを思い出しながら、小さく漕いで遊ぶと思わず笑顔がこぼれてしまう。
「懐かしいね」
「はい」
少し遊んだら気が済み、ブランコをベンチ替わりにして深く座ると、ブランコから出る軋む音が静かになった。
「学校で先輩を見かけたとき、だいたい3人でいますよね、東田先輩と吉野先輩と。先輩は、東田先輩のことが好きなんだな、って気づいて」
「え?!」
そんなにわかりやすく顔に出しているのか、と驚く。畠山くんは続けた。
「図書室で先輩が本を読んでたら、東田先輩が呼びに来てた時があって。雰囲気で、あぁ、この二人付き合ってるんだなって思ってたんです」
いつのことかも分からないくらい、前の話のような気がする。受験生になる前は、私が図書室にいると、恭介が迎えに来てくれた。時々、愛佳も一緒に来てくれたりもした。去年のことなのに、ものすごい昔のことのように感じてしまう。
「え、去年、から?」
私が聞き返すと、彼はそっとうなずいた。その目は少しだけ恥ずかしそうにはにかんでいた。
「見てるだけで、話しかける勇気はなかったけど」
彼はそう付け加える。すると、私も少し恥ずかしくなり目を伏せていた。
「そっか…」
「でもちょうど今年の夏前ぐらいから、先輩が一人の時が多かったですよね」
その頃、恭介が愛佳を好きだと言い出した頃だ。私は恭介が愛佳とふたりになれるようにと、「用事があるから」とか「ひとりで集中したいから」とか適当に言って図書室に通っていた。
「だから、チャンスだと思って声をかけたんです」
地面を靴の底で悪戯に擦りながら、彼はそう言ったのだ。
「もし、あの2人が先輩に辛い思いをさせてるなら、俺が守りたいって思ったんです」
その言葉が、私の胸に刺さった。彼は私の欲しい言葉をくれる。それなのに、返す言葉が見つからない。私はただただうつむいて、その言葉を噛み締めていた。
「…先輩?」
下を向く私を呼ぶその声は甘くて優しい。…それが、苦しかった。
「あの、さ、畠山くん」
私は下を向いたままそう呼びかけると、ブランコのきしむ音をさせながら、彼の体がこちらに向いた。
「はい」
「…私にとってあの二人はすごく大切な人たちなの。だから、二人は悪くない」
彼の真っすぐの目を見る勇気がなかった。それでも、言わなければならない。
「そうなんですか?」
私は顔をあげて、うなずいた。
「じゃぁ、どうして傷ついた顔してるんですか」
眉をひそめ、彼はそう続けた。確かに私は傷ついた。あの二人が恋人同士となってしまったことに、少なからずショックを受けた。でも、恭介の望みは私の望みだ。それで恭介が幸せになれるなら、私の望みは叶ったも同然だった。
『愛佳ちゃんとする前に、お前で練習したい』
あの時の恭介の欲を抑えたようなかすれた声が耳から離れない。私を”人”だとも思っていないかのようにぶつけてきたその欲望は、私の気持ちを完全に無視していた。そこまで私は許されていなかったのか、そこまでしてあげないといけないのか。私たちの関係は、一生このままなのか。もし、この先愛佳と別れてしまったら、まだ彼の話を聞かないといけないのだろうか。私は、彼の隣が誰かで埋まるたびに、指をくわえて見なければならないのだろうか。わからない。もうわからない。完全に麻痺している。
「私さえいなければ、みんな幸せになれる。誰にも縛られずに楽しく過ごせる。それは、畠山くんも同じで。私に関わってたら、楽しいものも楽しくなくなるよ。」
「なんでそういうことを言うんですか」
「私の夢の話、前にしたよね」
腕をぐーっと天に伸ばして、背筋を整える。大きく深呼吸をしてから、私は続ける。
「あれね、実は恭介の飼い犬が死んでしまったのがきっかけだったの。あいつ、母親が亡くなった時でさえ泣かなかったのに、ポン太が病気で死んでしまった時は、すごく大きな声で泣いていた。だから、こんなふうに悲しむ人が増えないように、治せる病気なら治してあげたいって強く思ったの。完全に私のエゴ。恭介にもう泣いて欲しくないから、獣医になる夢を遠くで叶えようとしてる。可笑しいよね」
小さく笑いながら、私ははっきりと告げた。恭介のために一生懸命頑張っていたのに、いつのまにか恭介から離れるために頑張って夢を叶えようとしている矛盾をどこで正せばいいのか、私はもう見失っていた。
「もし、私が獣医になることをやめてここに残ったとしたら、見る風景は変わらないんだろうな…」
また来年も、今年と同じように過ごさなければならない。それは、きっと耐えられないだろう。そんな選択肢は、今更選べない。
「一年、待ってもらえませんか」
勢いでブランコから立ち上がった彼は、私の前に立ったままそう口にした。
「先輩が近くにさえいてくれたら、俺が先輩の見る風景を変える」
彼は、本当に私の欲しいと思う言葉をくれる。真剣な目をして、私のことを求めてくれる。でも…
私の目が伏せていくのを見ていた彼は、悔しそうに唇を噛み締めていた。
一年間、待てる自信はなかった。自信を持って「はい」とは言えない。
私の前に立っていた彼はブランコに座っている状態の私の体をそっと抱きしめてくれた。まるで壊れ物を扱うかのように、そっと優しく私の肩を抱きしめたのだ。
「畠山くん…?」
「おさむです」
「おさむ、くん…」
「うん…」
時間帯的に人通りのない公園。スポットライトのように一つだけ灯っている街灯が、私たちを薄く照らしていた。伸びる影が重なって一つに見える。
「…俺が怖いですか。…そんなに震えて」
耳元で彼が言う。私はそっと首を横に振った。怖いんじゃない。人の体温がこんなにも暖かくて、安心している。恭介が無理やり私に触れた時とまったく違う。
「先輩、もし辛かったら、俺を利用してください。俺はそれでも先輩が元気に笑ってたほうがいい」
だけど、私は…
「俺に甘えるのに、誰に遠慮してるんですか」
「だって、私はここに残ることを選べない…。逆に聞くけど、それを知ってどうして…」
「そんなの、好きだからでしょ」
「…」
彼の腕の中で、私は言葉を探していた。しかし、服の上からでもわかる彼の温度が暖かすぎて、思考を邪魔するのだ。そんな私に、彼はふっと困ったように笑う。
「困らせてますか、俺」
「ごめん。ごめんね…」
わがままを言って、ごめん
無理させて、ごめん
応えられるかわからないのに、ごめん
心配させて、ごめん
どの”ごめん”なのか、自分でもわからない。それでも、謝ることを止められなかった。自分が情けなくて、自分のどこを見て好きだなんて言ってくれるんだろう。きっと彼には、私よりももっといい子がいる。
「おさむくん」
「はい」
私が呼ぶと、彼は真っすぐに私の顔を見て返事をする。
「おさむくんに私はもったいないよ」
きっと私は、彼が思っているような人間ではない。
「…私は、誰かに好かれるような人間じゃない。こんなふうに優しくされるような人間でもない。傷ついた人を置いてでも、その人から逃げたいの。それくらい薄情な人間だから」
あなたが優しくしてくれればくれるほど、私は苦しくなってしまう。その優しさが、真綿で首を絞められるようだった。真剣に向き合わなければならないほど、苦しいのだ。
「それは、東田先輩があなたを苦しめてるからでしょ?」
「…ちがうよ」
「こんな時でも、東田先輩をかばうの?」
「…」
本当に私はどうしたいんだろう。おさむくんを巻き込んで、私は…
「私が恭介の人生を狂わせたの。だから、全部私が悪いの。誰でもなく、全部自分が蒔いた種なの。だから、私が恭介よりも幸せになることは許されないし、恭介が私を利用することを望むなら、本当ならここから離れてはいけないの。だけどもう限界だから、幸せにならない替わりに、地元を捨てて姿を消すことを…」
最後の言葉は、涙に霞んでしまった。私の生きる選択肢は、もうそれしかない。恭介と関わらないように生きていくためには、ここから離れるしかないのだ。
「なんだよ、それ…!」
おさむくんの悔しそうにもれる声が他に誰もいない公園内に響いていた。きっと誰も理解してくれない。そんなことはわかっていた。親にさえ、本当のことを話していないのだから。
自分のことのように怒ってくれるおさむくんのその声が、私の心に刻まれる。私はもう、それだけで充分だから…