4.
あの日から、恭介を見かけなくなった。当たり前のように、毎日毎日うちで夕飯を食べて10年。彼が来なくなったのは、初めてだった。
教室で、この間のことを忘れてもらおうと声をかけようにも、彼は私の前を通り過ぎ、まっすぐに愛佳のところへと行ってしまう。そんな日々が数ヶ月たっていた。まるで、私のことなど見えていないかのような彼の行動に、私は傷付くどころかホッとしていた。
「千波、おはよう」
教室に着くと、愛佳はすでに席についていた。私が入ってきたことに気づくと、彼女は私に駆け寄ってきた。
「愛佳、おはよう。どうしたの?」
私の機嫌を窺うように現れた愛佳に、私は嫌な予感がした。
「うん、ちょっと廊下で話そ?」
私は愛佳に連れられてトイレの近くで並んだ。ちょうど教室から離れており、あまり一目がなく、ちょうどいい場所だった。
「で、どうしたの?」
改めて愛佳にそう尋ねると、彼女は決心したような強い目を私に向けて切り出したのだ・
「私ね、恭介くんと付き合うことにしたの」
彼女のその言葉に、頭の中の思考能力がじわじわと麻痺して行くのを感じた。
「前に千波の家に夕飯に呼んでくれた日あったじゃない? あの日の帰り、恭介くんに告白されちゃった。一緒に同じ大学を目指したいって…。千波の言った通りでびっくりしちゃったけどね」
愛佳は、それでも嬉しそうに話をしていた。
「千波、恭介くんのこと好きなんじゃないかと思って、ここ2か月くらい悩んじゃったんだけど、いいんだよね?」
彼女は、念を押すように私の顔を覗き込んでじっと目を見つめた。私は彼女の真っ直ぐな目を見つめる自信がなく、一瞬目を伏せてしまったが、精一杯の笑顔を愛佳に見せて、うなずいた。
「そっか。あいつのこと、よろしくね〜」
笑って言えたのは、これだけだった。『何か』が胸の中で疼き、私の傷を広げている。その苦しさを我慢するので手一杯だった。
それからの愛佳との会話で、覚えていることは何一つなかった。というより、その日の行動すらろくに記憶がされていない。まるで、最初から今日という日などなかったかのように…
夜も更け、寒々とした空気の中、月が凛と輝くのを自分の部屋の窓から眺めていると、あの夜の恭介のあれは何だったのかと考えていた。
(愛佳に告白した後で、なぜ私にも同じ大学に行こうなんて言い出したの…?)
あんな風に感情的に話す彼を私は知らない。足を怪我した時でさえも、取り乱さなかったのに。しかし、あの二人が付き合うなら、私の役目はもう終わったも同然だ。私が彼らと同じ大学に行く建前もいらないし、もう何も気にすることはない。そう思いながらも、私の心は今にも大声で叫びたい衝動に駆られていた。
水曜日の放課後、図書室で本を読んでいると、畠山くんが私の隣に座った。
「あれ、先輩。今日は勉強いいんですか?」
「…今日は、気分転換に読書」
目線だけ彼に向けてそう答えると、私は視線を本へと戻す。
「…なんかあったんですか」
心配そうな顔をした畠山くんは、そう口にした。
「え…?」
「いや、だって…」
彼がその理由を話そうとすると、肩を叩かれ、後ろに振り向いた。彼の肩を叩いたのは、司書の秋間さんだった。
「おしゃべりするなら、外に出てね」
唇の前に人差し指を立て、ウインクしている。私たちは小さく頭を下げて、荷物を持って図書室から出て行った。
こんな早い時間に帰宅することなど、久しぶりだった。外は西日が射していて、グランドではソフトボール部や野球部が部活をしている。時計を見ると、まだ4時前だった。
「せっかくだから、どっかでお茶でもしようか」
駅までの道のり、勉強をする気が起きない私は、彼を誘ってみた。
「いいんですか? 時間…」
「だって、君のさっきの言葉が気になるし」
ふっと笑って彼の顔を見る。私はそんなに顔に出ていたのだろうか。確かに、ここのところおかしなことばかり起こっている。しかし、隠しているつもりだった。何でもない振りをして過ごしていると、あれ以来、愛佳も恭介も何も言ってこなくなった。
「あ、そうだ。駅ビルに美味しいジェラート屋さんがあるんですよ。アイス、食いませんか」
私は彼のその提案に乗った。彼も楽しそうに笑っている。愛佳と恭介が付き合おうが、付き合うまいかは、もうどうでもいい。もう、私には関係ない。もう関係ない…
彼が、私の顔を見て驚いている。
「…どうして泣くんですか」
「えぇ?」
頬に涙が伝い、びっくりして指先でその涙に触れた。
「あれ…?」
「先輩、ちょっと疲れてますか」
図書室で見たような心配そうな顔をした畠山くんがこちらを見ている。
「…そうかな。ジェラート、食べよ」
気を取り直して、私たちは並んで歩く。やがて見えてくる駅ビルへとふたりで入っていった。
ジェラートは美味しかった。畠山くんお勧めのミルク味とかぼちゃ味のダブルにした私は、ピスタチオ味とチョコ味にした彼のも味見させてもらいながら、ジェラートを楽しんだ。久々の気分転換はささやかながら思いの外楽しくて、ありがたかった。
「今日はありがとう」
「俺も楽しかったし。あ、そうだ」
彼はそう言って、スラックスのポケットから、自分のスマホを出した。
「先輩、LINEのID交換しません?」
「あ、うん。でも、私」
そんなに連絡は取らないと思う、そう告げようとしたのだが、彼は笑いながらうなずいていた。
「わかってますって。でも、今日みたいに落ち込んでる時とか、くじけそうな時とかあったら、俺で気分転換してくださいよ」
私の目をじっと見つめて、彼は真剣味を込めてそう言ったのだ。私に、そんな価値などない、とふと我に返る。
「…大丈夫だよ。もう悩むこともないはずだし。でもありがとう」
ぎこちなく笑う私は、それを隠すように目を伏せた。そして、彼と別れた後、電車に乗って帰路についた。
最寄りの駅から自宅まで歩き始める頃には日も暮れていた。
(勉強、頑張らないとな…)
今日はいい気分転換ができた。仕切り直しで、また明日から真剣に勉強をしなければ。当たり前のように歩いているこの街から出るために、私は頑張らなければならない。
(泣いてる場合じゃない)
畠山くんのおかげで心が軽くなった。
うん、もう大丈夫。
そんなことを考えながら、うちまでの道のりを歩いていた。
自宅に帰ると、キッチンの方から母の「おかえり」の声が聞こえてきた。
「今日は早かったね」
「今日だけ気分転換してきた。ご飯食べたらまた勉強はするけど」
「そう」
優しい笑みを浮かべながら、母はそう返事をした。母は、私が地元を離れて行くことをまだ知らない。母に言ってしまったら、私がいなくなった後、恭介がここに来れなくなってしまうからだ。母は、恭介が大好きだった。自分の息子のように思っている。私はその関係を壊すことはできなかった。実の娘がこの家をこの街を捨てようとも、きっと恭介が母を温めてくれるだろう。
部屋で着替えていると、スマホにLINEが入ってきたことに気付いた。音に反応してLINEを開くと、私の口から「あ…」と漏れる。送ってきたのは、恭介だった。
『今から俺ん家に来て』
ずっと無視していたくせに、都合がいい。…なんて思う資格がない私は、さっさと着替えると、何も考えないようにして京介の家に向かった。
彼の家に着くと、家の鍵は空いていた。私は靴を脱ぎ、2階の京介の部屋へと直行する。彼の部屋の前に立つと、小さくため息を吐いた。
「恭介、来たよ」
そう声をかけながら、ノックした。しかし、中から返事はない。
「恭介?」
私はドアノブを回して、ドアを開けた。すると、彼はベッドの前に膝を立てて座っていた。
「…なんだ、いるんじゃない」
彼は、冷たい視線で私の顔を凝視している。その視線に居心地の悪さを感じながら、私も床に座った。
久しぶりに訪れた恭介の部屋。相変わらずいろいろなゲーム用のハードやソフト、関連グッズなどが棚に所狭しと並んでいる。壁には好きなゲームのポスターを貼ったりして、色気のない部屋だった。愛佳は、このゲームおたくのどこが良かったのだろう。
昔はよくふたりで一緒にゲームで遊んだ思い出がある。この部屋にも何度も入った。しかし、5年前からは家に行き来するものの、この部屋に足を踏み入れることはしなかった。いや、正確に言えば、もうできなかった。そんなのは特権であって、私は彼にとってそんな存在ではなくなったからだ。それくらい、ここに来るのは久しぶりだった。
「なんか、用事? どこかわからないところでもあるの?」
視線を下のほうに彷徨わせている恭介に、私は呼び出した理由を尋ねてみるが、彼は私と目を合わすこともなく、黙っている。思わず、小さくため息をついてしまった。
「…聞いたよ。愛佳と付き合うんでしょ」
「…まぁな」
「良かったじゃない。思いが通じてさ」
私は笑いながら、秘かに痛む胸の痛みに耐えている。
「恭介の思いも通じたことだし、あとはあんたが勉強頑張って愛佳と同じ大学に行ければ、私はもうお役御免だn…」
「だから、お前に頼があるんだ」
「頼み?」
やっとまともな会話ができたかと思えば、愛佳と付き合うから、私に頼みたいこと? なにそれ…
しかし、最後の頼みだと思い、「頼みって何?」と聞き返すと、恭介は乱暴に私の手首を掴み、自分の胸に私の体を強く引き寄せたのだ。
(え…?)
一瞬訳が分からず、頭が真っ白になる。
すると、強く抱きしめられたまま耳元で彼は言った。
「愛佳ちゃんとする前に、お前で練習したい」
思わず、首を傾げて恭介の顔を見る。その瞬間、恭介は乱暴に私の唇を奪ったのだ。眉間に皺を寄せ、驚きを隠せないまま、突然のことに体が動かない。しかし、そんな配慮など彼にはなく、容赦なく舌が入ってきた。拒絶したいのに、彼の両手は私を拘束していて、離れられない。それでも必死に声を出し、抵抗した。
しかし、仕事から帰ってきていない彼の父親はいない。この家には、私と恭介しかいないのだ。誰も助けてくれる人などいない。それでも泣きながら抵抗していると、不意に彼の私を掴む手の力が抜けるのがわかった。私はすぐに彼から離れた。
掴まれた手首がジンジンとして、痛い。
ほんの10秒くらいのことなのに、私は肩で息をしていた。それは彼も同じで、大きく呼吸をしてる。
「な、何して…」
お互いの呼吸音が響く部屋の中に、私と恭介がいる。同じ空間にいても、私たちは決して平等なんかじゃない。流れ落ちる涙も悲しいのか怒りなのかもわからず私の頬に伝い続ける。
「…なんでも自分の思い通りになるなんて思わないで」
「…思い通りになんてなってないだろ」
自嘲気味に笑い、その強い視線で私をにらむ彼を、私は怖かった。恭介のこんなに苛立った目を、私はかつて見たことはない。
「あんたと愛佳が付き合うことになって、やっと私の役目は終わったって思ってたのに、なにこれ」
今まで、溢れ出そうになる感情に蓋をしてきた。しかし、今はもう抑えられない。もうコントロールできる自信がない。
「私はもうすぐ、あんたの前から消えるから、もう許してもらってもいい?」
せめてもの懇願だった。消えていなくなれば、きっとすぐに忘れられる。
「消えるって…」
「多少、不便を感じるかもしれないけど、そんなのすぐに慣れるから」
なぜ、私は矛盾した夢をいつまでも追いかけているんだろう。こんなことしたって、誰のためにもならないのに。
「許すって…俺は」
「それとも、あんたの人生を狂わせた代償は、一生続くのかな…」
私はそれだけ言い残して、恭介の部屋を出て行った。