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3.

 恭介が愛佳を連れて家に戻ってきたのは、彼が出て行ってから30分ほどしてからだった。

「お邪魔しまーす!」

 相変わらず元気な声で愛佳がそう口にすると、私はお盆を持ったまま彼女を迎え入れた。

「ほら、恭介、テーブル片付けて」

「あぁ、ごめん」

 彼が広げていたノートやテキストを指差すと、彼はそそくさとそれらを片付けてトートバッグにしまっていた。すると、そんな様子を見ていた愛佳はクスッと笑ったのだ。


「え、何?」

 彼女の笑みが理解できず、思わず尋ねてみる。すると、彼女は笑いながら答えたのだ。

「だって、千波と恭介くん、長年連れ添った夫婦みたいだから」

 彼女の思いがけない言葉に、私の体温が一気に上がった。目を丸くしてリビングの入り口に立っている恭介を見ると、彼も同じような反応を示していたのだ。


 一瞬だけ、恭介と目が合った。しかし、私は直ぐに視線をそらし、「何言ってるんだか…」と笑いながら口にすると、出来上がったサラダをダイニングテーブルに運び始めた。

「あ、おいしそう」

 自分の発言を気にする様子もなく、愛佳は顔をパッと明るくさせて「手伝うね」と言いながら、手を洗い始めたのだ。




 夕飯中は終始笑顔が絶えず、恭介と愛佳が並んでカレーを食べているのを向かい側から眺めていた。私から見たら、ふたりの方が付き合いたてのカップルみたいで、眩しすぎるほどだった。こんなふたりを前にして、私はちゃんと笑えているのだろうか? しかし、私のことなどふたりが気にするはずもなく、時間は正直に過ぎて行く。恭介のために作った時間だったが、彼が喜んでいるならそれでいい。愛佳だって、まんざらではなさそうだ。もしかしたら、私がふたりの仲をとりもつまでもないのではないか。そう思うほど、ふたりはとても楽しそうだった。



 

「じゃ、私は自分の部屋で勉強したいから、あとは若い二人で」

 後片付けを終えた私は、おじさんのような冗談めいた口調でそう告げると、2階に上がろうとエプロンを外した。

「何言ってんの? 私も帰るよ」

「俺も」

 二人が揃って席を立ち、帰り支度を始めたのだ。

「え、恭介も?」

「うん」

 外したエプロンをダイニングテーブルに置いて、私は二人を玄関まで見送ろうとした時、「千波、トイレ貸して」と愛佳がトイレに入っていった。


「あ、恭介。愛佳、駅まで送ってやってね」

 私は先に靴を履いている恭介にそって耳打ちする。すると、彼は苦笑いを浮かべていた。

「お前は小姑か」

 あははと笑い、私は階段に座って愛佳がトイレから出てくるのを待っていた。少しだけ、私の心の痛みがチクリと動く。それでも私は笑っていた。

「ごちそうさま、また明日ね」

 手を振った愛佳と無言の恭介は、ドアの外へと消えて行った。その瞬間、私の口からは深いため息が漏れていた。




 私は自分の部屋から勉強道具を取りに2階に上がり、再びリビングに入った。

 誰もいない家で勉強する時は、ダイニングテーブルで勉強するのが好きだった。いちいち飲み物を下まで取りに行かないで済むし、なぜか集中できるのだ。


 しばらくの間、勉強に集中していたが、コーヒーが飲みたくなり、席を立った。その時、雨音に気付いたのだ。

 庭に面した大きな窓には、遮光性の厚手のカーテンを引いていた。私はそのカーテン隙間に指を入れて、外の様子をうかがった。

 その光景を目にした時、激しいデジャヴが私の視界を支配した。


 あの日も、こんな雨の降る夜だった。

 恭介の家の和室の壁には、黒と白の布が張り巡らされ、正面には彼の母親が穏やかな顔をして微笑む遺影が飾られていた。そして、彼の父親が弔問に訪れる客に深々と頭を下げているのだ。

 彼はというと、その父の横で、飾られた遺影をただ黙って見つめていた。

 泣きも喚きもせず、彼はぽかんと口を開けたまま、ずっと遺影を見つめていたいたのだ。

 7歳の子どもが、目の前の現実をどう理解すればいいのだろうか。

 私はその様子を離れたところから見ていた。すると、母が私に言ったのだ。

「彼が寂しくならないように、私たちが頑張りましょう」

 その時だ。彼が涙も出ないくらい深い悲しみの淵にいるのだと理解したのだ。空が、そんな彼の代わりに泣いているのだと…




 私は、いつの間にか涙を流していた。今の自分は、あの時のようにあんな純粋な気持ちで恭介に接してはいない。あの交通事故さえなければ、私は…

 窓に映る自分の顔が、あまりにも酷く失笑してしまう程だった。それでも涙は止まることなく、溢れるばかりだった。

「何で、泣いてんの…?」

 いつの間にか戻ってきた恭介が、リビングの入り口に立っていたのだ。彼は、肩を小さく震えさせていた私の後ろ姿を見て、目を大きく開き、驚いていた。


 恭介は、つかつかと私のそばに駆け寄り、うつむいて涙を流す私の顔を覗き込んだ。

「何かあったのか?」

 彼は私の肩を掴み、激しく私に問いただした。

「違う…」

「何が違う?」

 なぜ恭介がこんなに感情的になっているのか、私にはわからなかった。

「放して…。大丈夫だから」

 彼の手を振りほどこうと必死に抵抗した。しかし、そうすればそうするほど、彼の力は強くなり、私は床に膝をついてしまった。


「大丈夫って、なんかあったんだろう?」

 同じ目の高さから、彼は再び私の顔を覗き込む。涙で濡れた頬を見た時、彼の瞳が驚きで揺れた。私の肩を掴んでいた手が伸びて、彼の指が涙が通った痕をなぞった時、私の頭は真っ白になった。とにかく目の前のことが信じられず、力いっぱい彼を突き飛ばしていたのだ。

「触らないで…!」

 そう叫びながら…


 私の拒絶を一身に受けて、彼の瞳はさらに大きく開き、ゆらゆらと揺れていた。私はハッと我に返り、自嘲的に笑った。

「ごめん、びっくりして」

 私は慌てて恭介に謝り、彼から離れるために距離を取る。

「ちょっと思い出し泣きしちゃった」

 ふふふ、と笑いながら、私は慌てて手の甲で涙を拭った。

「忘れ物?」

 さっきまでのことを無かったことにしたくて、この場には到底似つかわしくないほどの明るい声で彼にそう尋ねる。恭介は立ち上がり、「あぁ…」と答えると、さっき座っていたソファの辺りを手で探り始めた。

「携帯、忘れちゃったみたいでさ…」

 クッションの間から探り当てた自分の携帯をパンツのポケットに収めた彼は、じっと私の顔を見つめていた。


「あ、雨、降ってきたでしょ。大丈夫だった?」

「あぁ…」

 何が大丈夫だったかはよくわからないが、曖昧に答える恭介を気にすることなく、私はダイニングのテーブルを片付け始めた。

「夕飯、楽しかったね。愛佳との時間、感謝してよね」

 私の様子をじっと見つめるその強い眼差しに耐えられず、誤魔化すようにそう口にした。そして「おやすみ」と最後に残して、リビングから逃げるようにして自分の部屋までかけ上がったのだった。


 荷物を抱えたまま、私は両腕を抱いた。あんな風に触れられたのは、初めてだった。心臓のとどろきが蘇り、私は今にも発狂しそうだった。

 なぜ、優しくなんてするの…

 いや、恭介はいつでも優しい。だけど、今日みたいに私のことをひとりの人のように扱って、あんな顔をして心配するとか、今までなかったのに…

 ドアにもたれ、そんなことを考えていると、ドアを軽く叩く振動が背中から伝わってきたのだ。思わず、背筋をビクっとさせながら、振り向いていた。


「千波、そこにいるんだろ? 開けなくていいから、聞いて」

 ドアを挟んで話しているのは、恭介だ。

「お前の夢、獣医だったよな? なら、愛佳ちゃんと同じ大学に行けるんだよな?」

 確かめるように、強い口調で恭介は言った。確かに、愛佳が指定校推薦で行く大学にも、獣医学部はある。

「なら、絶対に一緒の大学に行こう」

 彼のその言葉に、私の体温が一気に上がるのを感じた。

 まだ私を利用するの…? まだ相談に乗ってあげないと、だめなの?

 息もできないほど、苦しくて仕方なかった。しかしそんな思いを飲み込み、深く息を吸い込み、細く吐いた後、口を開いた。


「私、頑張るから…。愛佳が恭介を好きになってくれるために、ガンガンアピールするからさ…」

 震える声をなんとか悟られないように、私は必死になってしゃべっていた。

「だから…、だからね、大学くらい、自分の行きたいところに行くよ。…愛佳には内緒にしてね」

 あくまでも明るく振る舞う。

「この辺の大学だよな?」

 しかし私の口調とは反対に、ますます彼の口調は鋭く、私の心をえぐる。

「そんなの、恭介には関係ないでしょ?」

 まだ、足りない? 私の償いは、まだまだ足りないの?

「遠くだったら、許さない…!」

 感情的な彼の言葉に、私は絶句した。

 やっぱり彼は、私を許してなんかいなかったんだ…

 間も無く、階段を踏みしめる音がしたのち、玄関のドアが閉まる音が聞こえてきた。彼も隣の自分の家に帰っていったのだろう。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、整理ができない。もう今すぐにでも、この街から出て行きたいのに…

 私はその場に座り込み、息を整えようと必死だった。




 私は、また恭介を傷つけてしまった。私が彼を拒絶した時の彼の顔が頭から離れなかった。彼の驚いて揺れた瞳が蒼く染まっていったのを見て、私は必死に感情的になった自分を抑えることしかできなかった。私は悲劇のヒロインでもなんでもない。悲劇の何かというのならば、それは恭介だ。私が彼に助けを求めてなんかいけない。自分の役目を忘れてはいけない。ぐちゃぐちゃになった感情を束ねて整理する。

(明日、ちゃんと謝ろう)

 なんでもないことをちゃんと話して、忘れてもらおう。…なんて考えていた。


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