2.
夏も過ぎれば、周りも受験モードにシフトしていくのは当然のことだった。はっきり言って、恋愛などしている場合ではないことは、誰もがわかっている。
予備校のない水曜日はたいてい、私は図書室に寄って受験勉強をしてから帰っている。1週間のうち、ほぼ予備校に入り浸っている生活を送っているが、水曜日だけは休息日みたいにして、学校で少し勉強してから真っすぐに家に帰る。大学が決まっている愛佳は私に付き合う必要もないし、恭介は学校よりも家がいいと言いながら愛佳についていってしまうため、誰にも邪魔されずに、ひとりで過ごせる貴重な時間だった。
私が先に通い出した予備校に後から通い始めた恭介だったが、彼はあまり自習室を使わず、授業が終わったらすぐに帰ってしまう。普段からあまり一緒に行動することを控えたいと思っていたからちょうどいいのだが、あんな勉強の仕方で、愛佳と同じ大学に行けるのか、疑問ではあった。
しかし、わからないことがあったらたまに質問することがあっても、私にべったりして教わることを彼も望んでないのだろう。私が心配することではない。
今日も同じように教室であのふたりと別れ、図書室へと向かう。いつもガラガラな室内。いつも座っている席に着いて必要な問題集をカバンから取り出してから、私はノートを開いた。
西日が窓から入ってくると、この図書室はぐっと落ち着いた雰囲気に包まれる。そんな空間を私は気に入っていた。予備校の自習室は白い照明がガンガンと当たって季節も時間も感じられない。周りの人の雰囲気もあってか、やたら孤独に感じてしまう。心がすさんでいく感覚が忘れられず、できれば使いたくない。しかし、そんなことを言っていられるような呑気な状況でもないのも解っている。だから、時間が許すときだけは、少しでも心が落ち着ける場所を私は求めていた。
室内の電気がついて、急に視界が白く明るくなった。私はスマホで時間を確認すると、18時を回ったところだった。
「西野さん、もうあなただけなんだけど」
図書司書の秋間さんから背後から声をかけられると、私は振り返った。
「もう、閉めますか」
私が聞き返すと、秋間さんはうなずいた。
「すみません、すぐ帰る準備します」
私は机に広げたテキスト類を手でかき集め、カバンにしまった。
「今日も来てたわね、あの子」
赤系の口紅がしっとりと艶めく唇で、秋間さんは笑う。
「え? …あぁ」
思い当たることがないわけではない。きっと、彼のことを言ってるのだろう。
この図書室の司書を勤めている秋間さんなら、すぐに気づいたのだろう。私がここで勉強をしていると、隣の島で私のことを見ることのできる席に座ってその彼は本を読んでいる。その彼からの視線に気付き、何度か目が合ったこともあった。名前は知らない。
正直、どうしていいかわからなかった。わからなかったから、気付いていないフリをした。もし新しい恋ができるなら、それに越したことはない。しかし、私は今受験生で、志望している大学は
(…考えるだけムダね)
最後にペンケースをしまって、カバンのファスナーを閉じると、私は立ち上がった。
「すみません、遅くまで」
「ごめんなさいね、今日は少し早く帰らないといけないから」
お互いに謝り、ふっと笑い合う。私は、秋間さんに挨拶をして図書室を後にした。
空はすっかりと暮れていて、西の空はほんの微かにオレンジ色を残して夜の空に浸食されていた。そして、薄暗い道を照らすのに、街灯がつき始めていた。
そんなに遅い時間ではないのに、日の入りの時間が早くなったな、と思いながら校門をくぐったところで、門のすぐ脇に人の気配があるのに気づいた。
(あ…)
私より早く図書室を出て行ったはずの彼がそこに立っていたのだ。
「あの、西野先輩、ですよね」
「あ、うん…」
待ち伏せ…されていたとは…
目の前の彼は、目線を宙に漂わせ落ち着きがない。緊張しているのだろう。
「突然話しかけてしまってすみません。俺、2年の畠山といいます」
そう名乗った彼は、身体を90度に折り曲げてお辞儀したのだ。
「…うん」
私はと言うと、ただただ驚いていて、私の方が先輩だというのにぎこちなくしか返事ができなかった。
「…」
お互いに慣れないことをしている自覚があるのか、薄暗がりの中、言葉が続かなく黙っている。
「えっと…、何か用事? 歩きながらでもいい? 駅?」
いつまでも門の前にいるのも…と思い、私は移動を促してみる。
「はい。俺も駅まで歩きです」
「じゃぁ、一緒に行こうか」
私たちはぎこちなく並んで歩き始めた。
「で、私に何か用かな」
隣で歩く畠山くんに声をかける。すると彼は背筋をピンとして、「はい」と答えた。
「俺、先輩が受験生だってこともちゃんとわかってるんです。なんですけど、図書室で勉強をしているのを見かけてから、キレイな人だなって思って、気になってて…」
彼のその言葉に、少なからず私の心臓が跳ねた。今までそんなことを言われたことがない。そんな縁すらも自分にはおこがましいと思っていた私にとって、ドキドキしないわけがない。
「…ありがとう。でも、私」
「わかってます。でもせめて話してみたい、ってそう思ってて。水曜日、いつもそう思ってて…」
くすぐったい告白だった。素直に嬉しいと思っている自分がいる。しかし、現実はそんなに甘くない。
「そっか」
歩くにつれて、通りが賑やかになる。駅に近づいている。
「先輩は、どこの大学を目指してるんですか」
「え、大学?」
「はい。…今はやっぱり迷惑だと思うので、もし俺も先輩と同じ大学を目指したら、今度はもっとゆっくり話ができるかな…って思ったんです」
彼のその理由を聞き、私は彼なりの気遣いに驚いていた。それと同時に、ふざけたらいけないと思い、彼の目を見据え、口を開いた。
「私ね、地元を離れるつもりなの」
そう切り出すと、畠山くんの顔は驚き目を見張っていた。私はそれでも続けた。
「私ね、獣医になる夢があるの。ある人が飼っていた犬が死んでしまってね、その人がすごく 悲しんでる姿を見た時に決めた夢なんだけど。で、その修行のために、ちょっと遠くに行こうかなーって。だから…」
「すごいですね!」
彼は目を輝かせながらそう返してきたのだ。
「ふふふ、そうかな」
「あの…、”ちょっと遠く”っていうのは、どのくらいなんですか?」
窺うような目で彼はそう尋ねていたが、私はあえてニコッと笑って見せた。
「飛行機に乗らなきゃ行けないくらいの距離、だよ」
私の答えに、彼は一瞬、驚いて見せた。しかしすぐに笑って、「わかりました」と口にすると、スッキリしたような顔つきになっていた。
「今日、先輩と話ができて嬉しかったです」
「そう?」
たった今複雑な笑顔を浮かべていたのに、今は優しく笑う彼の顔を見て、私も自然に笑んでいた。
「次の水曜日、また話しかけてもいいですか」
「うん、もちろん」
こんな他愛ない話をしている間に、私たちは駅にたどり着いたのだった。そして、私は上り、彼は下りの電車にそれぞれ乗るために、そこで別れた。
家に帰ると、玄関の正面に位置する階段に座っていた恭介が私の帰りを待ち構えていた。そこで一気に現実に戻された気がして、思わずため息が出そうになるのをぐっと堪えた。
「千波、おかえり」
「恭介、来てたんだ」
「あのさ、ここ、わかんないんだけど…」
玄関先で渡された数学の問題集を見ると、恭介はシャーペンで丸をつけられた問題を指差した。
「あぁ、これは…」
シャーペンを受け取り、余白に頭の中にインプットされた公式を書き出し、数字を当てはめていく。
「…で、こう」
答えを導き出し、私は恭介の理解度を確かめるように彼の顔を覗き込んだ。すると、同じタイミングで彼も私の顔を覗き込んでいた。
その近さに驚き、慌てて問題集を突き返すと、早足でリビングに入った。
「お母さん、ただいま」
ブレザーを脱ぎながらそう声を掛けたものの、返事はない。
「自治会の集まりがあるからって言って、留守番頼まれた」
遅れてリビングに入ってきた恭介が母のいない理由を口にした。
「え? あ、そうなんだ…」
「集まりの後、飲み会があるから遅くなるって。夕飯は、カレー食えって」
彼はキッチンに置いてある大きな鍋を指差した。
(二人っきり…)
今更、照れるような間柄でもない。こんなことは今までにも何度もあった。私はいつも通り、彼の話を聞いてあげるだけでいい。私はそっと恭介に視線をやった。彼は、私に背を向けるようにローテーブルに向かって勉強の続きをしている。その時不意に、あることを思いついたのだ。
「ね、恭介。夕飯さ、愛佳も呼んじゃおっか。ね?」
私の突然の提案に、彼の手が止まる。
「用事あるって言ってたけど、終わってるかもしれないし」
「俺は、別に…」
恭介は眉根を寄せて曖昧な返事をしていたが、私は構わず愛佳にメールした。
「今更、照れるなよー」
イタズラに笑い、私は彼の背中を押すと、荷物を持って階段を上がった。
制服から適当な私服に着替え、制服ハンガーにかけていると、LINEの通知音が鳴った。確認すると、愛佳からだった。
(おっ。…あ、そうか)
私は部屋を出て、再びリビングに向かった。
「ねぇ、恭介」
「ん?」
彼がこちらに振り向くと、私は携帯の画面を見せながら切り出した。
「愛佳がね、今ちょうど外にいて、こっちに行きたいけど、駅降りたら道がわからないかもって。駅まで迎えに行ってきてくれる?」
努めて明るい口調でそう言うと、私は母のエプロンを着けた。そして、彼の返事を待たずに「よろしく」と念を押し、キッチンに入った。
(さて、サラダでも作ろうかな…)
冷蔵庫を開けて、レタスとキュウリとトマトを取り出し、それらをたっぷりの水で洗い始めると、恭介はのそりと立ち上がった。そして彼は、何も言わずに玄関に向かって行くのを私はキッチンから黙って見ていた。
「もっと嬉しそうにしろよ…、バカ」
玄関のドアの閉まる音を聞いたのと同時に私はおもわずそう呟いていた。