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1.

 高く登った太陽は、今年一番の猛威をふるっていた。どこまでも降り注ぐその光を遮るようにカーテンを引いて、ガンガンにエアコンを効かせた室内では、向かいに座っている隣に住む男が、テレビを見ながらのんきにアイスを食べている。


 私はそんな平和な男の横顔を、何と無く眺めていた。

「恭ちゃん、お夕食、食べてく?」

 母がキッチンのカウンター越しに彼にそう尋ねると、彼は即答した。

「いただきまーす」

 すると、フフフと微笑みながら、母は家事に戻っていった。

 包丁を叩く音が軽快に聞こえてくる。その音を聞きながら、少しだけ目をつむった。




 今日も、いつも通りだった。予備校の夏期講習の後、市立図書室で受験勉強をしてから家に戻ると、恭介はだらしなくソファに身を沈めてくつろいでいた。まるで、我が家の一員のように、だ。


 うちの母は、恭介が大好きだ。まるで自分の息子のように可愛がっている。娘の私より、だ。

 恭介には、母親がいなかった。彼の母親は、10年ほど前、病気で亡くなったのだ。それから、恭介はよくうちにきて、恭介のお父さんが仕事の間、母に面倒を見てもらっていた。


 恭介のお母さんが亡くなった時のことを、私はよく覚えている。あれは、しとしと静かに降り続く、今日のような天気とは正反対の冬のある日だった。恭介は、決して泣かなかった。あの時、あの雨はきっと彼の涙だと、子どもながらに私はそう思ったものだった。


「…なぁ、千波」

 ぼーっとしている私の顔の前に手のひらをちらつかせ、彼は私を呼んでいた。

「え? …あぁ」

 びっくりして我に返った私を見て、彼は怪訝そうな顔をしていた。

「何?」

 取り繕うように、私は聞いた。

「何って、お前…。人の話で寝たふりなんてひでーな」

「あぁ…」


 目の前の彼の話など、まったく耳に入ってはいなかった。しかし、謝る気もなく、私は曖昧に相槌を打つ。

「だからさ、愛佳ちゃんって、誰か好きな人いんのかな?」

 彼は、食べ終わったアイスの棒をくわえながら、相変わらず呑気そうにそう言ったのだ。

 ため息をひとつ、私の口から漏れる。それもかなりわざとらしく吐いて、私はすっくと立ち上がった。

「同じ大学に行きたきゃ、勉強しろ、勉強。愛佳に置いてかれるよ」

 私は彼にそう言い放つと、そのまま二階の自分の部屋に向かって行った。


 むあっとした湿った空気が、少しだけ下の部屋のエアコンで冷えきった体にまとわりついてきて、一気に全身が汗でべとついた。私は窓を開けて扇風機を回すと、その不快な空気を部屋から追い出した。まるで、今さっき起きた恭介とのやり取りを頭から追い出すように。そして頃合いを見計らってからエアコンのスイッチを入れ、そのまま机に向かった。


 机の一番上の引き出しを開けると、密かに第一希望で目指している大学のパンフレットが見える。

 幼い時からの夢のために決めた大学は、地方にある。私はそのパンフを手にとり、表紙を見つめていた。

 恭介は、地元の大学に通うだろう。愛佳という、彼の片思いしている人と。でも、私は違う。私は、ここから離れようとしている。


 パンフを抱いたまま、私は机に伏せた。もうこんな風に泣いてしまうのは何度目だろうか。

 あんなことがあっても、彼は私になんでも話してくれた。聞きたくないこともすべて、無邪気な子どものような目をして。

 責められているのかさえ、思った時もあった。当てつけなのかとも感じた時もあった。それでも彼はいつでも無邪気に同じ笑顔を浮かべるのだ。


 そうされればされるほど、あのことを許されてはいないんだと思い知らされ、私は行き場のない心を抱えていた。この先ずっとそう生きなければならないのだろう。

 しかし、もうそれは高校で終わりにすると、私は決めたのだ。

 もう、楽になりたい…。

 私は手の甲で涙を拭くと、自分を落ち着かせるために、大きく息を吐いた。




「千波、おはよ!」

 夏休みが明けたと言うのに、暑さは収まるどころかむしろ私たちの体力を消耗させた。茹だるような暑さの中、気だるい体を引きずって登校しているというのに、彼女だけは元気だった。そのはずだ。彼女は指定校ですでに進学が決まっているからだ。

「おはよう、愛佳」

 彼女の名を呼ぶ度に、私の心はきしむ。まっすぐに、彼女の目を見ることができなかった。

「勉強は、順調? 学部は全然違うけど、絶対同じ学校に行こうね」

 私の思いには全く気付くことなく、眩しい笑顔で彼女はそう言うと、私の勉強の邪魔をしまいと、自分の席に戻って行った。




 私は、もうすぐ彼女との約束を破ろうとしている。笑顔で自分の気持ちに嘘をつき続ける日々に、ピリオドを打とうとしている。

 愛佳が悪いわけじゃない。

 そんなことはわかってる。

 何度も何度も頭の中で考えた。でも、誰かのせいにしなければ、私はもう、もたない…


 彼女が自分の席に戻ると、恭介が彼女に話しかけているのが見えた。私はそれからゆっくりと視線をずらし、席に着く。

 朝の喧騒に紛れて聞こえてくる彼らの談笑から逃れるように、単語帳を眺めていた。




「ねぇ、千波?」

 放課後、学校から駅までの道のりを並んで歩いていると、愛佳はふと立ち止まり、私の名を呼んだ。

「なぁに?」

 彼女より2歩先を歩いていた私は、立ち止まり、くるりと振り返る。

「ずっと聞こうと思ってたんだけど…」

「ん?」

 いつものように、当たり障りない笑顔で私は尋ねた。


「ちなみ、恭介くんのこと、好きだよね?」

 彼女のその一言に、私の瞳孔が、ほんの一瞬だけ開いた。しかし、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「なんで?」

「だって、いつも目が恭介くんを追いかけてるじゃない」

 私は次第に表情を曇らせ、眉をひそめた。

「それにね、私と話してる時の恭介くんって、いつもちなみのことばっかり話してるし…。ねえ!」

 愛佳はパッと何かに閃いたように目を大きくさせながら私の腕を取り、自分の腕を絡ませてきた。

「私、二人の仲を取り持ってあげるよ! 受験が終わったら、アタック!」


 目を輝かせ、愛佳はそう提案する。私はさり気なく彼女の腕をほどき、小さく笑った。

「あいつ、私と話す時は、愛佳のことばかり言ってるよ」

 私は再び前を向いて歩き出した。それに少し遅れて愛佳も後ろを付いてくる。

「え、私のこと?」

 にわかに信じられなさそうに首をかしげながら、彼女は聞き返してきた。私はそれに深くうなずいて見せた。

「『愛佳ちゃんは、何が好きなんだろ〜』とか、『好きな人はいるのかな?』とか。私が話題になるのは、繋ぎだよ、つ・な・ぎ。照れちゃって、何を話していいかわからないんじゃない?」


 ニヤッと笑いながらそう口にすると、私は携帯をスクバのポケットから取り出し、時間を確認した。

「あぁ…、愛佳、ごめん。予備校に遅れそうだから、先に行くね!」

 夕陽を背にして、びっくりした顔を浮かべた彼女のシルエットを残して、私は足早にその場から立ち去って行った。




 私は、恭介を好きになる資格なんてない。そんなことは自分が一番よく解っている。

 せめて彼が好きになった人とは幸せな時間を過ごしてほしいと思う。でなければ、私は立つ瀬がない。

 あの時、私は彼の大事な一生を台無しにしてしまった。ストライカーの命とも言える足を、使い物にならなくしてしまったのだ。


 5年前ー

 当時、ジュニアサッカーチームで活躍していた恭介。他の選手よりも頭一つ抜いた才能を持ち、コーチの勧めで、時折中学生と一緒に練習していた時もあるほど、恭介は中学生顔負けの器用なプレイと驚異のキック力で、スーパー小学生ともてはやされていた。

 将来の夢はもちろんサッカー選手と、彼自身も公言するほど将来有望視されていた彼の身に起こったことを思うと、誰もが彼に同情した。


 彼は、ある日の夕方に交通事故に遭ってしまったのだ。足を挫いてしまった私の代わりに、私の忘れ物を学校まで取りに行ってくれた途中で、その事故は起きたのだ。

 彼の足は、歩くには支障はないが、今までのようにサッカーはできないだろうと、それが当時、彼を診察した医師の診断だった。

 ことの重大さに、私は怖くなった。自分のせいで、彼は…

 怖くて、目の前の現実を受け入れられなかった私は、彼を直視できなかった。彼は私を恨んでるはずだ。事故の原因を作った私を…


 事故後、彼は自分の事故は自分の不注意で起きたことだから、と笑い飛ばしていた。しかし、その笑顔が信じられず、私はもう彼と一緒に笑うことはできなかった。

 そんな私に対する態度を彼は僅かに変えた。幼い時からどんな時でも、私を守ってくれた恭介。足の怪我が治ってからも、今まで通り家に入り浸るのは変わらなかったが、彼もなお私を直視してはくれなかったのだ。

 それは、当たり前だ。彼はやっぱり私のことを恨んでいる。きっとこの先、私が彼に許されることはないのだろう、私はずっとそう思い続けている。


 私はその日から、自分のこと を犠牲にしてでも、償うように彼の話を聞いた。彼から好きな子ができたと聞かされれば、うまく行くように手伝った。知っている子なら、それとなく情報を提供したり、時にはキューピット役をやったりもした。

 彼が幸せになれるなら…

 ただそれだけの思いで、私は彼のために働いた。けれど、もう身も心も限界だった。親友を好きになったと聞かされた時、私の中で何かがプツリと切れた音が聞こえたのだ。

 憤りとか、そんなんじゃない。

 やっぱり、私は彼が好きだった。だから、親友に思いを寄せている彼を単純に見たくなかったのだ。


 私は本当に自分勝手な女なのだ。彼はきっと思っているはずだ。私がこれからも苦しみ続けることを望んでいる、と。屈託のない笑顔を浮かべて、そう願っているのだと…

 本当は、殺したいくらい憎んでいるのかもしれない。

 死んでお詫びするような勇気もない私にできることと言えば、黙って彼の目の前から消えることだろう。でもその前に最後の仕事をしなければならない。私にできる、最後の恋のお手伝いだ。それを見届けてから、私は遠くに逃げる。そのカウントダウンは、もう始まっていた。



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