心の旅人
私は心の旅人である。
私は今まで多くの国を渡り歩いてきた。例えば、氷で出来たお城のある国。例えば、水に飢えた砂漠の国。例えば──
その数は数千にも及ぶ。私は物心が付いた時から毎日、様々な国へ行く。地図などないが、私は行ったことのない国まで光の速さで飛んでいく特別な力があるのだ。
今日もその力を使って新たな国へやってきた。西洋風の建物が立ち並び、市場と思われる場所は人で賑わっている。だが、私にはその雰囲気は異質であるように見えた。
「ねぇ、また例の事件が起こったんだってよ」
「路地裏で起こるっていうあの? やだねぇ、早く誰か解決してくれないものかしら」
そして、その国では毎度何かしらの問題を抱えている。当たり前だ。見てくれがどんなに素晴らしい国でも問題というのは起こってしまう。私はそれを知っている。数多の国を知り尽くしたベテランの旅人だからね。しかも、私は国の問題を一晩で解決してしまう。そのせいか、私は『凄腕解決屋』という二つ名を持つほど有名な旅人になってしまったのだ。少し気恥しいが、嫌な気持ちにはならないのは不思議なものだ。
それから早速私は行動に移した。『事件』『路地裏』というキーワードさえあれば十分だ。こういうのは経験則がものを言う。あとは私の直感に従うのみだ。
私は早速市場の路地裏へ向かう。そこは表と違って閑散としている。散乱したゴミの隙間を雑種猫がゆらりくらりと通り過ぎる。私はそれを横目で見た。
私には分かる。ここで何かが起こる。目を閉じるて全身で風を感じた。私の心を突き抜ける風がわずかに揺らめく。その瞬間、私は目をかっと見開いた。
すぐさま後ろを振り返ると、大きな山猫が今にも食ってかかって来そうにこちらを見据えている。山猫の口から垂れる涎はかなりの異臭を放つ。
間違いなくこの国で起きている事件の犯人はこいつだ。ひしひしと肌を震わせる感覚がそれを物語っている。私は距離を確保するため一歩後ろへ下がり、腰に下げていたナイフを構えた。
「フシャー!!」
山猫は野生の本能の赴くままに襲いかかってきた。だが、野生である故に速いが直線的だ。山猫の動きを読んで、華麗に避ける。その間際で山猫の腹をナイフで突き刺した。
「ギャ、フシャ、フシュ」
山猫はもがき苦しみ、あまりの痛みに立ち上がれないでいた。足は痙攣し、呼吸もまともに出来ていない状態だ。私の一突きは致命傷だった。やがて元の小さな猫へ体を縮めていく。
これでこの国の平和は保たれた。今日も私は一つの事件を──
「おい、千里!」
「ふにゃ……」
突然の声に私は曖昧な返事をして、丸まった体を起こした。ぼんやりとモヤの入った視界がクリアになり、頭の中の容量が広がっていく。焦点が定まってきた今、ようやく状況を把握した。
目の前の黒板には異世界言語よろしくと言わんばかりに数式の羅列で埋まっている。だが、あの異世界言語は私に魔法のような力を与えることは無い。
周りの生徒は私を見つめ、更には教師までもが腕を組んで、ただでさえ怖い顔で睨みつけた。顔の整った白馬の王子様とは正反対の、色黒で無精髭を生やし、目元のシワが濃くなっている50代手前のおっさん。時々、鼻を刺す加齢臭が年頃の女子高生にはより受け付けがたい。
「授業中にも関わらず、随分余裕をこいて寝ているな。来週の期末テストが楽しみだ」
「うぐっ……」
事あるごとに勉強勉強テストテストって、これだから人生はクソゲーだ。経験豊富な心の旅人たる私には、一般人と同じ枠組みにいるはずがない。私はテストの成績という数字の統計的結果なんかでは評価出来ないのだ。
もう一度、先生から嫌味を言われるのはうんざりなので、授業だけは受けている振りをする。目が開いていても旅はできる。授業を再開させた先生の野太い声をシャットダウンして、私は別の国に歩みを進めた。
新たな国の事件を解決し終わったころ、教室には私しかいなくなっていた。窓の外を見渡すと、既に日は沈みかけ、臙脂色の空が一面に広がる。幻想的な夕焼け模様だけは、私の旅してきた国となんら変わりない。それだけに少し虚しかった。
「この世界の体で旅ができればいいのに」
私はそんな現実を自分で突きつけて、消え入りそうな気持ちを窓ガラスに押し込んだ。手のひらからガラスの冷たさが浸透する。熱が伝わって心地よく馴染んでいくのが自分でも分かった。
魔法の力が自分にもあれば、こんなクソゲーでもまだ楽しめたかもしれない。学校という枠に縛られることもなく、もっと自由な人生になっていたかもしれない。
いや、もはやここは私の現実の世界ではない。旅人たる私が私なのである。この世界の私は仮の姿なのだ。だから、そこに私はいない。私は旅をして、困っている人を解決することこそが存在理由であるのだから……
私はつまらない帰り道を歩く。日は沈み、いつの間にか曇天が空を覆っている。なんの変哲もない平和な国は、私に退屈しか与えない。この国は多少の問題が起きようとも上手く回ってしまう。一人欠けてしまえども、困るどころか危機感すら覚えない。これ程何も無い王国は旅してきた中で初めてだ。
道中、薄暗い公園からボールを両手で抱えた男の子が、走って私の目の前を通り過ぎていく。遊び過ぎて時間を忘れていたのだろうか。額の汗で、街灯から反射して出来た天使の輪っかが台無しだ。彼はこの国で心の旅人になっている。
そんなことを考えていると、男の子の手に収まっていたボールが生きているように飛び出して、道路の真ん中で立ち止まる。男の子は慌ててボールを追いかける。だが、そこに神のいたずらか、中型の8tトラックが物凄い勢いで突っ込んでいく。男の子はボールに気が向いていて気がつく様子はない。
──あ、これだ。
私は地面を蹴った。なんら変わりもないこれこそが日常だ。心の旅人は颯爽と現れて問題を解決に導く。
亜音速で風が私を切り刻む。それが快感と生きがいを与えた。
私は男の子の背中を力いっぱいに押した。男の子は歩道のところまで勢いよく転がった。これで良い、これで良いのだ。
刹那、私の視界は真っ白に輝いていた。