客⑧帽子を被ったお爺さん
季節は夏である。
梅雨はもうすっかり明け、蝉の鳴き声が聞こえだしている。商店街も祭りに向けて段々と騒がしくなり、街には色とりどりの装飾が施されている。そんな中、葉川喫茶だけが取り残されたように静かに佇んでいた。
「顔色もすっかり良くなったようで、竹内さん」
「おぉ、今度は間違えなかったな、のぅマスター?」
今日はいつかの、帽子を被ったお爺さんが来ていた。僕はそれを横目で見ながら頬杖をついていた。
「もうお身体は大丈夫なんです?」
「いんや、まだ医者に糖分は止められててな」
「じゃあガムシロップは没収しときますね」
「マスターはひどい奴じゃ」
お爺さんはそう言いつつもマスターに笑顔を向ける。どうやら本当に元気になったようだ。
「今日来たのはちょっとマスターにお願いがあってな…」
「砂糖なら、あげませんよ?」
「何っ!バレたか…!」
「ふふっ」
コーヒーの優しい香りが漂ってきて、僕はなんだかまた一杯飲みたくなってきた。
「まぁ砂糖もそうなんじゃなんじゃが…これを置いて貰いたくての」
お爺さんはそういって腰にぶら下げてあるバックから小さな小包を取り出した。
「これは?」
マスターが問う。お爺さんは丁寧に包装紙を剥がし綺麗な朱色の万年筆を大事そうに机に置いた。僕は万年筆に見覚えがあったような気がした。
「孫のものでな…、持ってくるか迷ったんだが…」
「……」
「これを、沼田くんに…いや、山田くんとマスターは言っているんじゃったかの?」
「…もう、1年ですか。早いものですね」
マスターは感慨深かげに顎をさすった。
「ホントはな、わしは憎いんじゃ、孫を殺したあの童が」
「……」
「じゃが…見てくれマスター。孫の書いたメッセージカードじゃ」
誕生日おめでとう!最近は忙しいのかな?もっと3人で遊びたいなぁといつも星野くんと話してます笑 これからもよろしくね! 竹内玲奈
「許さないと孫が怒りそうでの…。な、マスターうちの孫はいい子じゃろ?」
竹内さんは瞼に涙を溜めて、ぐっと笑った。
「孫は…ただ仲良くしたかっただけだったんじゃ…」
竹内さんの声は裏返り、少し震えていた。僕は竹内さんに触れようとしたが、僕の手は竹内さんの体をすり抜けた。僕の体は、半透明でコーヒーカップに触れることすら許されていなかった。
「そうか…僕は…、僕が…」
僕は、僕を疎む両親も、昔通っていた学校のいじめっ子も、そして玲奈さんも、全員僕の居場所を脅かす敵だと思っていた。しかし、本当に自分の居場所を狭めていたのは自分だったのだ。自分の懐疑心が勝手に敵を作り出していたのだ。少なくとも玲奈さんは、自分の居場所を守ろうとしてくれていた。自分の居場所を広げようとしてくれていた。僕はそんな人を殺してしまっていたのだ。僕は…大馬鹿者だ。
「僕は…死ぬまでそんなことにも気づかなかったのか…」
幽霊の流した涙は喫茶店の床を通り抜け、キラキラと舞いながらどこかへと消えていった。