七夕の日
7月7日、七夕の日、願いが叶う日。
僕は一つの願いを胸に、学校へ向かった。
言うぞ、言ってやるぞ。
何度も何度もそう呟いて、教室のドアを開けると心地良い風が吹いたような気がした。
午前の授業が終わり、午後の授業もあっという間に終わって放課後になった。荷物をまとめ、僕が立ち上がると、ちょうど竹内さんも立ち上がった。
「沼田くん、ちょっと屋上に行かない?」
「僕だけ?星野は?」
「うん。沼田くんにちょっと話したいことがあって」
彼女は僕が答える前に、「来てね、待ってるから」とだけ言って教室を出て行ってしまった。
僕は星野の姿を探したが、すでに教室にはいないようだったので、もしかしたら屋上にいるのかも、と思いそこへ向かった。
あの日の屋上は強い風が吹いていた。ドアは風で押されているためか重くて開かず、肩でドアを押し開けた。
屋上に出ると、竹内さんが一人…他は誰もいなかった。
「星野、来てないよね?」
「うん、いないよ」
「そう…」
「今日さ、先に家に帰って待っててくれない?ちょっと星野くんと喋りたいことがあって…」
「え……、なんで……?」
「…分かるでしょ?お願い」
僕は一瞬脳が停止したがすぐに答えは見つけることが出来た。
…あぁそうか、二人は……。
「えっと…すぐに沼田くん家に向かうから…」
僕の耳にはもう何も届いていなかった。僕は遅かったのか。願いはやっぱり叶わないのか。目の前が暗くなる。あぁ、ぁぁ…。
「僕は行っちゃいけないのか…?」
声を絞り出し、辛うじて言葉を発した。返答は分かっていた。なのに僕は受け入れられなかった。
「ごめん」
身体が急速に熱くなって、目には今までにない程の力が入った。僕は竹内さんの顔を見た。彼女は笑っていた。僕の身体を、黒い毒虫が這った。たくさん、たくさん這った。僕の身体は毒虫のものになった。
次の瞬間、僕は彼女を思い切り突き飛ばしいていた。彼女は抵抗もせず、泡のようにすっと屋上から消えていった。
そして、ズンと鈍い音が耳の奥に響いた。
気づけば、僕は彼女の死体を見下ろしていた。僕は死んでいる、と他人事のように思った。僕は、僕の顔は自分では見ることはできなかったが、恐らく笑っていた。恐怖は、なかった。風だけが僕を殴るように吹きつけていた。
血が流れ出し、中庭のタイルはどんどん赤くなっていく。それに伴って僕は真っ黒く染められていく。悪党はまだ微笑みをそれに向けていた。竹内さんだったものにわらわらと人が集まり始めても、僕はそれを見続けていた。
ふいに、中庭にいる誰かが顔を上げた。僕と目が合った。自分の顔がひきつるのを感じた。
「星野…」
僕を見る星野の目は鋭かった。それは、考えるまでもなく憎悪の目だった。その目を向けられて、ようやく僕は自分のしたことを理解した。身体が小刻みに震えだして、気がつくと僕はそこから逃げ出していた。
走っていた。ただただ走っていた。闇雲に、無我夢中で、行く宛もないのに、ただ走っていた。今更、罪悪感が出てきた。後悔も出てきた。涙も出てきた。虫のいいやつだ、と肩に乗った毒虫が言った。その通りだった。罪を償わなきゃいけない。逃げてはいけない。そう思っていた。それでも、僕は走り続けていた。
「沼田」
突然誰かに呼び止められた。いや、僕は誰だか分かっていた。彼のことは知っていた。誰よりも。だからこそ…
僕はゆっくりと後ろを振り返った。
「星野…」
「………」
星野の目は今までにないくらい冷たい目をしていて、僕のことを真っ直ぐに見ていた。
「僕は…」
「やっぱり、友達だと思っていたのは俺たちだけだったんだな」
僕は必死に彼の方を見た。彼は太い万年筆を握りしめていた。新しいものだった。
「うん、僕は星野のことを友と思えなかった、僕は…」
「そうか、俺は…お前を…、いやもういい。もう話すことは無い」
星野はキッパリと言い放った。もう僕の顔は見ていなかった。
「星野、いいか聞いてくれ僕は…
ドブッ
あ…れ…?
自分の腹部から何やら赤い液状のものが出ている。
あったかくて、きもちがいい。
星野はただ、冷徹な目をして僕を見ていた。手には赤い万年筆が握られていた。
あぁ…
僕は耐えられなくなり、その場から逃げようとして…喫茶店に行こうとして、後ろを向き数歩、よろよろと進もうとした。背中に激痛が走り、また液が僕から漏れ出す。
痛い、痛い、痛い、痛い
背中からは焼けるような痛みが永続的に続いている。痛い、痛い、もう何もしたくない。そんな思いとは裏腹に、足はただ一点を目指して歩み続けている。
腹と背中から大量の血が流れ、意識が朦朧としてきた。僕の頭ではあのバラードが流れ続けている。
あのバラードの歌詞、なんて言ってたんだろう…
喫茶店に着いたら聞いてみようか。
道はだんだんと狭くなる。体を引きずりながら、無限にも感じるその道を進む。
あの角だ、あの角を曲がればすぐだ、また、聞いてもらわなくちゃいけない、相談しなくちゃいけない、仲直りしたいんだ、星野と。僕は、僕は…
……
…あ…………る…
僕はそこで絶命した。