邂逅
その人間と出会ったのは、月の無い夜のことだった。
***
『草木も眠る』という形容詞が似合うような、しんと静まり返った森の中。私が歩く音だけが密やかに響く。
ここは、魔に属するモノが住まう『深遠の森』。
魔素を含む霧が常に漂い、人間などの、魔に属さないモノが立ち入ることを拒む、深い森だ。
魔素というのは空中に漂う魔力のことで、魔に属さないモノが大量に体内に取り入れると毒になる。少量であれば道具を介して利用出来たりもするらしいが、私は人間では無いので細かいことは知らない。
私が人間について知っていることは、書物を通して知ったほんの一握りのことだけだ。
しかし、この森から一歩も出たことが無く、これから先もその予定の無い私にとってはそれを知っているだけで十分だった。なぜなら私が人間と関わるなんてことは、未来永劫ありえないのだから。
…………ありえないはず、だったのに。
面倒なものを見つけてしまった、と私はため息を吐いた。
一本の木に寄りかかるようにして倒れている一人の子ども。
5、6歳ほどのまだ小さな体は、骨が浮き出るほどに痩せ衰え、身に纏っている服はボロボロでたいそう粗末なものだった。大方、貧しい家、もしくは村が口減らしの為に捨てた子どもだろう。
ちょんとつま先でつつけば、まぶたが微かに開いた。まだ生きてはいるらしい。
普通の人間ならば森に入って数分で魔素が許容量を超えて死んでしまう。つまり(迷い込んで何時間経っているかは知らないが)、森に入ってなお生きているこの子どもは゛魔力持ち゛ということだ。
魔力持ちというのは、人間でありながら魔素の耐性が高く、かつ道具無しで魔法を使える者を指す。めったに生まれることがないため、神聖視されたり不吉がられたりしている、らしい。これも書物を通して知ったことなので、実際に見たのはこれが初めてである。
顔を覗き込めば、綺麗な空色の瞳と目があった。真昼の青空のような澄み切った色だ。観察するように無遠慮に眺めれば、同じように空色の瞳が私を見返してくる。
ふと、惜しいな、と思った。この子どもが死んでしまえば、この綺麗な空色は濁って、二度と見ることが出来なくなってしまう。それが酷く惜しい。
私は書物で読んだだけで、本物の空というものを見たことが無かったから、余計にそう思ったのかもしれない。
「……生きたいか?」
声をかけるつもりなんて無かった。助けるつもりなんて無かった。この世界には、貧しい家に生まれた故に死んでしまう子どもなんてごまんといるはずで、そして私は死にかけた子どもを片っ端から救うほど善良ではない。
「……私にはお前を救う力がある」
でも、目の前の青空がいつか濁ってしまうのが酷く残念で、気がつけば、口からするりと言葉が出ていた。
ただ此方を眺めていただけの空色の瞳が焦点をむすび、怪訝そうに私を見つめる。
「正しくは救うというより、魔族として新たに生まれかわせると言ったほうが良いか。魔族は治癒能力が高いからな。多少の傷ならばすぐに治る。
……だが、瀕死の重傷ともなると簡単にはいかない。死にかけているお前が必ずしも助かるとは限らないし、助かっても幾つかの代償が必要になる」
「…………ぃき、たい……」
応えた声は酷くかすれていて、静まり返った森でも聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。
ごぼり、と子供が血を吐いた。喋った拍子に大量の魔素を吸い込んだのだろう。
いくら魔力持ちとはいっても、所詮は人間の子供。耐えられる魔素には限度がある。ましてやこの森の霧に含まれる魔素は他の場所とは比べものにならないくらい高濃度だ。このままだと、死んでしまうのも近いかもしれない。
「魔族になれば今までのようには生きられないぞ。人間を魔族にするのは初めてだから、どうなるのか、正直私もわからない。
私は吸血種だから、私がお前を魔族にすれば、私と同じ吸血種になると思う。そうなれば、二度と日の光を浴びることが出来なくなるかもしれない。吸血鬼化に失敗して死ぬ可能性だってある。
……少なくとも、人間達の中では暮らしていけなくなるだろう。――それでもか?」
「……それでも、僕は、生きたい……!!」
子どもは、血を吐きながらもきっぱりと言う。空色の瞳が強い意思を湛えて輝いた。
生とはそこまで魅力的だろうか、と不思議に思う。長寿を誇る吸血鬼だからか、私にはそんなに素晴らしいものには思えないのだが。
私は一瞬だけ瞠目すると、おもむろに腕を持ち上げた。くだらないことを考えている暇は無いのだ。こうしている間にも、子どもの命は削られている。
子どもの瞳が私の腕をゆっくりと追う。手首が私の顔と同じ高さまでいったところで――私は勢い良く皮膚を喰い破った。
「――――っ!?」
子どもが声にならない悲鳴を上げると同時に、紅い血が飛び散る。
私はぐい、と腕を差し出した。突然のことに頭が追いついていないのか、子どもは顔をひきつらせて固まっている。
「……飲め」
「…………」
依然として固まったまま、飲もうとしない子どもの様子に溜め息を吐く。いきなり血を差し出されて戸惑うのもわからなくはないが、このままでは死んでしまう。
しょうがない、ともう一度、今度は短く溜め息を吐くと、子どもの頭を掴んで、その口に無理やり腕を突っ込んだ。
「!? ……うっ、げほっ……」
「……吐くな。飲み込め」
「っ、げほっ…………ごほっ」
ごくり、と喉が動くのを確認して、子どもを解放してやる。しばらく咳き込んでいたが、いきなり体を痙攣させると、四肢から力が抜けてぐったりと目を閉じた。
死んでしまったかと思ったが、微かに上下する薄い胸を見るに気絶しただけのようだ。
細胞から神経、血管から内臓、はてには心臓まで。全てが人間としての生を終え、魔族として新しく始まる。つまりは一度死に、それと同時に再生するということだ。
きっとそれは、想像を絶する痛みだろう。本人が望んだこととはいえ、小さな子どもには過酷な仕打ちをしてしまったかと少し後悔した。……だからといって、もう、後戻りなど出来ないのだが。
子どもは血の失せた白い顔で眠りについている。
「……とりあえず、運ぶか」
一人呟いて、子供の体を抱えあげると、森の奥の湖の畔にある屋敷へと向かう。小さな体は可哀想なくらい軽かった。
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