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それは文字通り、絵に描いたような理想の世界だった。
少なくともここには俺の過去を知っている人間はいないし、俺を嘲笑するような書込みも、蔑むような目で説教してくる編集も存在しない。
何故ならここは、異世界だからだ。
異世界へのトリップ願望――――それは多くの場合、ロマンや夢というより現実逃避なんだろうと思う。
斯くいう俺も、そんな願望を持っていた大学一年生。
ちょっとだけ売れたものの、その後すぐに落ちぶれた三流イラストレーターだった。
今の俺は本来の俺じゃない。
もっと優秀な俺になれる筈だ――――
そんな絵空事に思いを馳せる事で、ギリギリのところで現実の負荷を凌いでいたけど、もう持ちこたえるのは無理だというところまで来ていた。
逃げ出したかった。
自分の絵に何の反応も返って来ない――――そんな現実が耐えられなかった。
何処か、ここじゃない違う世界でやり直したかった。
周りからの評価をリセットして、今ある知識やノウハウを最大限活かし、もっと上手くやれる自分を証明したかった。
――――そう。全部過去形だ。
今の俺は大学生でもなければ、現実からの離脱を常に切望する人生の迷い人でもない。
というか、日本人、地球人という概念にすら当てはまらないのかもしれない。
リコリス・ラジアータ。
スマホもない、インターネットもない、パソコンもテレビも自動車もない、そもそも電力網や家庭用ガスなどのインフラも完備されていない、二〇一〇年代の日本とは生活基盤がまるで異なる、そんな世界。
そのリコリス・ラジアータで俺はというと――――絵を描いている。
元いた世界で描いていた頃と同じ絵柄で、同じノウハウで。
道具は幾分か違うけど、十分自分の絵は再現出来ている。
「……どうですか?」
描き終わったイラストを、薄汚れた赤レンガに囲まれた冒険者ギルドの中でじっと待っていた女性騎士に手渡し、見て貰う。
緊張の一瞬。
担当編集にメールで送ったり、ピクシブにアップしたりするのとは訳が違う。
頼む。
頼むから、元いた世界のようにはなってくれるな――――
「素晴らしいです」
その声はまるで初春に響く鶯の初鳴きの声のように、俺の耳に優しい刺激をくれた。
「これほどまでに胸を打つ絵、初めてです。感動しました!」
お……おおっ!
俺はやったのか……?
自分を証明する事が出来たのか――――
「でも、ダメです。諦めて下さい」
――――また……か。
ここでも俺は、挫折を味わう事となった。
上げて、落とす。
高ければ高いほど、墜落の衝撃は大きく、そして痛い。
斯くも物理法則とは残酷に出来ている。
けれでも俺は、絶望していなかった。
落とされて痛い思いをしても、耐えるだけの打たれ強さを身につけていた。
そういう俺が今ここにいる。
『世界を変えようとする気がないクリエイターは辞めたほうがいい』
これは、とある著名な芸術家の言葉。
俺もそれに倣い、世界の変革を試みた。
最初は意識的にではなかったかもしれないけど、今は違う。
そういう俺が今ここにいる。
大事なのはその事実だ。
例えそれが夢の中だろうと、作り上げられた虚構の空間だろうと、全然構わない。
現実が太陽のように遠くで燃え盛ろうと、今いるこの場所を照らしてくれるのなら、それでいい。
太陽がなけりゃ生まれてこなかったし、生きてもいけない。
けど、太陽を見なくても生きる事は出来る。
光があれば、絵は描けるんだ。
これは、元の世界で落ちぶれ絵師となった俺がそう思うに至り、そして自分の人生に急激なV字回復をもたらす――――
正しい報復の物語である。