眼鏡の理由
雲一つない快晴など、一体いつ以来だろうか。
梅雨が明けた7月上旬、まるでこの日を待っていたかのように太陽は眩しい輝きを放っていた。
「あいつ、やっぱり神様に愛されてんなぁ」
俺がハハっと笑うと、隣を歩く夏月もまた「そうだね」と小さく笑った。だがその様子はどこか取って付けたようで、彼女は相変わらず上の空のようだった。
俺は構わず続ける。
「今思うと、秋哉が投げる日は必ず晴れていた気がするよ。晴れ男っていうか、まぁあいつの場合それだけじゃないんだけどさ。とにかく運がいいんだよな、クラスの席替えで狙ってた席を引き当てたり、祭りのビンゴ大会で一等賞もらったり」
秋哉はあらゆる面で恵まれた存在だった。優れた容姿、ずば抜けた身体能力、そして全てを味方につける強力な運。努力では到底超えられない壁を、俺は常に感じていた。
だが、そんな引け目を忘れてしまうほどに、秋哉は人格的にも申し分なかった。
「やっぱ日頃の行いってやつかな。あいつの優等生っぷりは、俺らが中学の頃から変わらなかったしなぁ。学校帰り、いきなり知らない爺さんに話しかけ出した時はどうしたのかと思ったよ。後から聞いたら、道に迷ってたって」
「秋哉くんらしいね」
「だろ? あいつはさー……っと」
話が良くない方向に向かっていたことに気付き、俺は慌てて口を噤んだ。
それからしばらく、お互いに何も言わぬまま歩き続ける。
やがて墓地が見えてきて、俺たちは慣れた足取りで小路を進んでいった。
秋哉の墓の前に立つと、夏月はいそいそと掃除を始めた。
濡れ雑巾で墓石を拭き、仕上げに水を流しかける。
俺は周囲の雑草を刈りつつ、夏月の後姿をぼんやりと眺めていた。
二人の間の、何もない空間にジッと目を凝らす。
「春人くん?」
不意に名前を呼ばれ、俺は我に返った。いつの間にか、それなりの時間が経っていたらしい。夏月は掃除道具を片づけ、それを隅の方に置いていた。
俺たちは特に合図もせず、自然と両手を合わせて目を閉じた。
脳裏に浮かぶ秋哉の姿は、もう1年も会っていないせいか、かなりおぼろげになっている。
代わりに浮かんできた夏月の姿を、俺は慌ててかき消した。
遠くから聞こえる蝉の鳴き声に意識を集中させる。
***
俺と秋哉は、中学時代からの親友だった。
二人とも野球部に入部し、秋哉はエース、俺は控え投手に甘んじた。
悔しい思いもしたが、それ以上に秋哉はかけがえのない親友で、一生付き合っていくべき存在だと感じていた。
だからこそ、俺は秋哉と同じ高校を選んだ。
夏月とは高校時代からの付き合いである。彼女は野球部のマネージャーとして俺や秋哉と共に入部した。
夏月は端的に言って可愛かった。どのくらいかと言えば、男が100人いれば99人は可愛いと絶賛するレベルである。当然、言い寄る男は後を絶たなかった。
しかしそれも、ある時期を境にほとんどなくなった。
「岡部秋哉と柚原夏月は付き合っている」
そういう噂が学校中に広まったためだ。
それは事実ではなかったが、疑う者はほとんどおらず、いつしか二人は校内公認のカップルとして認識されるようになった。
理由は簡単だ。二人があまりにも「お似合い」だったからである。
そして当人である秋哉と夏月もまた、まんざらでもない様子だった。
正直、胸が痛んだ。しかしこのことは、俺にとって初めから分かっていたことだった。
十分に予想できた、ということではない。初めから知っていた。
なぜなら、二人は決して切れることのない「赤い糸」で結ばれていたから――
特定の男女の間に赤い糸が見えることに気付いたのは、中学時代の後半だった。
テレビゲームのやり過ぎで視力が悪くなり、目を細めながらモノを見る癖がついてしまったためだ。
赤い糸は何らかの関係を持つ男女の間に見える。太い糸で結ばれた男女はやがて交際を始め、細い糸で繋がれたカップルはやがて破局するという光景を、俺は目の当たりにした。
そして秋哉と夏月は、それまで見たことがないほど太く、頑強そうな赤い糸で結ばれていたのである。
俺は、自分と夏月との間に繋がれたか細い糸とを見比べ、夏月に対して抱いていた一目ぼれに近い感情はどこかに捨てた。
それから、必死で夏月のことを好きになるまいと努力した。
初めから叶わないと分かっている恋心ほど、虚しいものはないからだ。
しかし――
ちょうど一年前の今日。
秋哉は、車道を横断していた老婆をかばい、トラックに轢かれて命を落とした。
落胆する夏月の姿を見て、俺はおそらく同じ思いを抱くと同時に、それとはまったく別の期待感のようなものを抱いていることに気付いた。そしてそんな自分をひどく嫌悪した。
嫌悪しながらも、もしかしたら運命が変わっているかもしれないと思い、自分と夏月の間に注意深く目を凝らした。
だが、赤い糸の状態は、秋哉が命を落とす前と全く変わっていなかった――
***
翌週の朝。
登校するなり、一つの噂話が俺の耳に飛び込んできた。
「あの町田冬吾が柚原夏月に告白したらしい」
町田と言えば陸上部の短距離エースで、端正なマスクに屈強そうな体格、寡黙だが面倒な仕事を進んで引き受ける姿に、男女問わず注目を集める存在である。
しかし口下手なことでも有名であり、町田が告白したなどというのはにわかには信じがたい話だった。
とはいえ、お似合いであるという点では秋哉と何ら変わることはない。
事実、「夏月ばかりずるい」という女子の声が聞こえる一方、二人がお似合いであることには皆、疑いの余地はなかった。
俺自身もまた、赤い糸を見るまでもなく理想的なカップルだと悟った。
――いっそ、二人が付き合ってしまえばいい。
俺は運命論者ではない。だが赤い糸は存在し、それが二人の未来を暗示しているのは疑いようのない事実だ。
つまり、俺と夏月が今以上の関係に進展することはない。
ならば夏月が町田と付き合ってくれた方が諦めがつくし、自分もまた楽になれるのではないか。
そんな考えを、俺は本気で抱いていた。
野球部の練習が終わると、俺は忘れ物に気付き教室へと戻った。
室内には西日が差し、赤く染まった風景の中に夏月がいた。
自分の席に座り、何やら手元を動かし続けている。
つい無意識の内に赤い糸を確認してしまうが、相変わらず変化はなかった。
当然だと首を振り、なるべく音を立てないように近づいていく。
どうやら紙か何かを切り刻んでいるらしい。個人情報が記載された文章でも処分しているのだろうか。
そのとき、静寂を破る電子音が俺のポケットから鳴り響いた。
当然夏月は気付き、彼女が振り返るのと俺がスマートフォンを取り出すのは同時だった。
「……よ、よう」
動揺を隠せないまま、俺はとりあえず声を掛けた。
夏月はこちらの姿をじっと見まわしてから、体の向きを戻した。
「見てた?」
シャキシャキ、と紙を切る音だけが聞こえる。
何かいつもと違う雰囲気を感じ、俺は正直に答えることにした。
「見てた。悪い」
「……そう」
夏月は幾分落胆したような口調で、しかし手元は絶えず動かし続けた。
「何を切っているんだ? スマホの明細か何か?」
「えっとね、町田くんからのラブレター」
「……はい?」
予想外過ぎる返答に、俺はしばし動きを忘れた。
「町田くんがくれたラブレター。全部で14通もあるの、ここ最近は毎日投函されてて困っちゃう」
「困っちゃうって……お前なぁ」
そんな人の気持ちを踏みにじることを――と言いかけたが、振り返った夏月と目が合い、俺は慌てて顔を背けた。
「最低だよね、私」
視界の端で、夏月が寂しげな笑顔を浮かべていた。
俺は意味が分からず、ただ彼女の言葉を待った。
「こんなふうに、相手の気持ちを踏みにじって……。町田君は、全く悪くないのに。一方的な私の都合で、こんなことして」
表情は、いつしか泣き笑いのように変化していた。それでも夏月は美しく、俺は吸い込まれるように彼女と目を合わせていた。
「お前の都合って、一体どんな」
「……私ね、みんなから嫌われたいの。こんなひどいことしてるのをみんなに知ってもらえたら、私は最低な人間だって認識してもらえるでしょ? そしたら、そしたらさ……」
夏月の瞳は、もはや完全に潤んでいた。目が離せない一方で、彼女が何を考えているのかが良く分からない。
しばらく逡巡するように俯いた後、夏月は顔を上げた。
「……最低な人間の傍にはみんな近寄らない。でも、春人くんだけはずっと傍にいてくれるって……そう、期待してたんだ」
溢れた涙が頬を伝い、夏月の滑らかな頬を濡らした。
鈍感な俺にも、その言葉が意味するところは理解できた。
しかし駆け寄っていく間もなく夏月は言う。
「よりによって春人くんに見つかるなんて、神様は意地悪だよね」
「夏月!」
俺の制止も構わず、夏月は駆け足で教室を後にした。
後にはハサミと切り刻まれたラブレター、それに片思いだったはずの彼女の香りだけが残った。
俺はこれまで、赤い糸の繋がりが乏しいにも関わらずカップルとなり、そして別れる結末を何度も観てきた。
中学時代の同級生カップル、学校近くに新しくオープンした定食屋の夫婦、それに芸能人同士の結婚――
だからこそ、夏月への想いを封じ込めてきたと思っていた。
だが、本当にそれだけだったのだろうか。
単に振られるのが怖かっただけではないのか?
運命を言い訳にして、現実と向き合うことから逃げ続けてきたのではないか?
夏月が内に秘めた心情を吐露し、それから初めてそのことに気付いた自分に、俺は嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
だが同時に、自分を卑下するような真似はもうやめようとも思った。
俺は柚原夏月が好きだ。
例えかけがえのない親友の想い人だったとしても。
自分よりも遥かに人間として評価の高い男が彼女を求めていたとしても。
これからも彼女を慕う男が現れ続けたとしても。
ずっと彼女の傍に居続けたい。
その純粋な気持ちが、ようやく俺を動かそうとしていた――
それから数か月後。
秋晴れの名に相応しい快晴の下、俺は学校への道を歩いていた。
今までは目を細めなくては見えなかった遠くの標識や、その更に向こうにある山の稜線がくっきりと見える。
なぜならば、俺の顔には眼鏡という素晴らしい道具が備わっているからだ。
いい加減黒板の文字が見づらくなってきたというのは事実ではあるが、後付けの理由に過ぎない。
一番はもちろん――
「ほら春人君、ボーっとしてると置いてくぞっ!」
二人の間に目を凝らさなくてもいいように。
そして、隣を歩く彼女の笑顔を決して見逃さないために。