6 で、どっちが攻めたんですか?
エルミナ首都を一望する総統執務室の椅子に腰掛け、エルミナトップの男、ランス・エリオンは頬杖をついていた。
「苺……飽きた」
食後に出されたデザートを机の端にどけた。代わりに、議会から上がってきた法案の書類を置いた。国内の保育や教育に関する重要案。当然、これは平時のものだ。
今朝、同盟国アスレイ国王、王妃の処刑写真がアズマ帝国軍によって送られてきた。世界を統べる大国エルミナがこの暴挙を見過ごすわけにはいかない。向こうの動き次第だが、数日中には開戦となる。
議会の動きも戦争一色のものとなるだろう。この手元の法案も、放置されることになる。
ランスは机に三つ置いた写真立ての、愛娘がくまのぬいぐるみと笑顔で写っているものに目を向けた。三歳である。彼女が大きくなるまでに、この国の教育を充実させる必要があるのだ。国民の心が豊かになり、生きやすい中で成長し、学び、やがて彼女が子供を持ったとき、一つも理不尽でない社会がそこにあるために。
しかしそれよりも、この世界情勢の方が先決である。娘が大人になったとき、戦争が起きていたのでは元も子もない。エルミナ総統として、やるべきことに全力であたる。それが娘の未来のためにもなる。
執務室のドアがノックされた。軍の者だろう。兵器運用についての諸々の許可承諾だ。「どうぞ」と言い中に通した。
入ってきたのは軍高官四人、それと、
「ルルバーン」
機械兵器開発初期から試験運用に関わってきた軍人だ。向こうが五十代と、年は離れているが、平和とそれを維持する力の行使について、とても気が合う。個人的な仲でもある人物だ。しかし、彼と会うのは明日の予定だったはず。
「総統、事態は急速に動き始めました」
高官の一人はそう言って、東岸港基地の被害を伝えた。
「やはり船を……。あれを出したのは私の間違いだった。まだ話が通じる相手と思っていたんだ」
大型軍用船だ。恐らくアズマは数で攻めてきたのだろう。小さな島国だが、ここまで見境ないとなると国民も引き入れて戦っていると考えるのが自然だ。
「敵は数名です。戦術分析の結果、十に満たないとの予想がされています」
「…………なに?」
「精鋭がいるようです。港部には何人かの死体が残っていましたが、基地内での被害において敵を目撃したものはいません」
「見て下さい。面白いですよ」
ルルバーンが前に出て、基地の見取り図を渡した。敵の進路が赤線で示してある。
「ほぼ一本道。ただ入って、船のドックを破壊して帰っていった。出くわした兵を都度倒しながら」
兵や施設の被害を示す丸が、赤線に沿って続いている。
「国境か」
「ええ。脱出を図るならば。しかし他の基地にも警戒はさせています。距離的にそこへ向かうことはないでしょうが」
高官が言った。
「ウォリアスの実用試験を兼ねて、私が処理にあたります」とルルバーン。
「ほう。あれの装甲なら、歩兵そのものが相手にならない。しかし敵が使った爆薬というのは」
「弱すぎます。傷一つつかないでしょう」
民生からの軍事転用を数年かけて実現した陸戦兵器ウォリアス。今後エルミナの主力となるそれの初陣に、敵の精鋭は相応しい相手だろう。
「指揮は君に任せる。ルルバーン」
軍高官達を見ずに言った。開発にも関わっている者だ。下手な横槍はない方がいい。白軍服の彼らは、不服そうな顔をしながらも、運用許可の為の書類を机に出した。全てにサインをし、退室を促す。
机を挟んで、ルルバーンだけが残った。
「面倒になってきたな」
「はい」
「勢いづいているだけの弱小国だ。それだけに憎い。何故連中の身勝手のせいで内政を疎かにしなくてはならないのか」
「まったくです」
ただの同意ではない、彼の目には自分と同質の怒りが見えた。
「力を誇示しなくてはならない。第二第三のアズマが現れない為にも。ウォリアスの運用、任せたぞ」
「はっ」
敬礼。ランスは肩の力を抜いた。そこからルルバーンの口調も砕ける。
「写真を見ていたのか」
「ああ。三歳だ」
「先週も、先々週も聞いた」ベテラン軍人は呆れ笑いをした。
「顔を合わす暇もなくなるかもしれない。まぁ無理にでも会いにいくがね」
額を触ってにやにやとする。子煩悩が過ぎる自覚はある。
「ランス、お前には言いたくなかったが……」
ルルバーンは少し顔を逸らして言った。
「孫が、産まれるんだ」
「なんだと」
ランスは険しい顔をして立ち上がる。「男の子か、女の子か。うちの子と遊べるじゃないか」
「男だ」
「結婚させよう!」
「だから言いたくなかったんだ」
エルミナ総統は孤独な父だ。立場上、赤裸々に育児の相談をできる者はいない。誰もが職務優先で接してくる。その中で、唯一対等に話を聞いてくれたのがルルバーンだった。
「なんだと。私の娘の何が不満なんだ」
ランスはぷんぷんと怒って言った。
「お前は少しその熱を冷ました方がいい。娘に嫌われるぞ」
「ん、もしや君もそうだったのか、ルルバーン」
「お前ほどじゃない。私は毅然とした父だった」
「いや、経験から物を言ったな。わかるぞ。嫌われたんだろう。お父さん臭いと言われたんだろう」
「娘はそんなこと言わんし、私は臭くない。お前だ、加齢臭に気をつけるのは」
「また経験から物を言ったろう。老婆心からの忠告だろうそれは」
にやにやとするランス。ルルバーンは数秒、ぬぬぬと唸って、
「もういい。とにかく結婚は駄目だ。お前の娘はいい子だが、将来お前に似そうで怖い。せいぜい一緒に遊ばせる程度だ」
「私に似て顔がいいからなぁ。君の孫も惚れずにはいられまい」
「ぐぅ……」
子供以上に孫はかわいいものらしい。そうとわかっていての嫌がらせである。
「むふふ。今はちびっこだが、十五、六になってきたらわからんぞ。きっと……」
そこまでを言って、ランスは表情を曇らせた。
後ろを向いて、そっと目頭を拭った。
「……すまん。思い出してしまった。アスレイの王女を」
会談で話したとき、将来の娘の姿を彼女に重ねた。
アスレイに起きた悲劇は、ランスの中で他人事ではなかった。
だが、軍に加勢の指示を出すことはできなかった。国に利益はないからだ。感情が動いても、理性がそうはさせない。守らなくてはならない。娘が育つ土地なのだから。
「……アズマを、罰せねばならないな」
ルルバーンの声色にあるのは、ランスよりもずっと強い怒りだ。
「ああ、私も全力を尽くす」
二人は拳を打ち合わせる。敬礼とは違い、対等な敬意を示す行為。
最後に笑顔を向け合って、ルルバーンは退室した。
部屋に一人、窓から首都を見下ろし、ランス・エリオンはこの国の強大な力に感謝をする。自分だけで築いたものではない。有能な技術者、軍人、資源があってのものだ。全ての巡り合わせに感謝をする。
悪を滅することができる。正義を行使するのだ。
神に代わりて、我らエルミナが。
穏やかな配色の家々が並ぶ緑豊かな住宅地に、特務一行は入った。まず目の色髪色が違う住民達の奇異の視線を受け、歩みを更に早める。どこそこで悲鳴が上がる。先頭を行く忍はすでに抜刀をしているのだ。
すぐに揃いの服をきた数人が立ちはだかった。治安維持の組織だろう。軍ではない。
歩みを止めず、忍は一人二人と斬り捨てていく。と、最後尾にいた男が筒の武器を発射した。
「普及しているな」ざわめきの中、接近して刀を振る。僅か数秒で男達は全滅した。
忍は納刀。同時に、ぱっと鞘と刀は消える。姫は目を丸くしていた。
「手品だ」忍は走りながら両手を広げてみせる。「長刀は持ち運ぶには不便だからな」
どういう原理になっているのか。筒の武器を彼女たちは魔術と呼んだが、こちらの方がどう見てもそれだ。
「日没まで走る。どうする、二手に分かれるか? 沙智、地図は覚えたか」
「いけそうです」
地理の得意な忍と沙智、それに姫と方向オンチの香が付いて、二方向から市街を突っ切ることとなった。咄嗟に手を取られる。忍に引かれて姫は、大通りを西側に逸れる。
「またねー!」東側の道から香が手を振った。
見慣れない街並み。花や果物の商店が並ぶ。通行人の視線を一心に集め、レンガの道を駆けゆく。
「ついて来れるか?」と振り向いて忍が訊いた。姫は黙って頷いた。短期間の訓練だったが、効果はあったらしい。このペースなら日没まで無理なく走れそうだ。
数分、何事もなく進む。妨害は香たちの方に行っただろうか。二手に分かれたのは確かに得策に思えた。
「この街、アスレイと似ているか」忍が声をかけてきた。
「……いえ、住宅の造りが全然」
「そうか。私には見分けがつかない。一応写真では知っているんだがな」
一体何の会話だろうか。彼女のことだから作戦に関係するのだろうが。
だが意外にも忍の問いかけはそこで終わる。そして数分無言で走ったと思えば、まったく繋がりのない話をしてきた。
「桃山は酷い奴だろう。良い悪いじゃなく、根っこがおかしいというか」
「はぁ」
「半分意識してやっているから余計憎たらしいんだ」
「ええと……」
相槌を打ちながら走るのがしんどくなってきた。
「軍学校での話をしようか? あいつと私が十二のときなんだが」
そう言って忍は、香が学校でやらかした滅茶苦茶な悪戯のことを語り出した。素行面で優等生だった忍は、教官から香の監視と教育を命じられる。しかし首席入学の天才問題児はそれを嘲笑うかのように……という、今とそう変わらないような日々のこと。
「小さい頃からあいつのことは知ってはいたが、まぁ悪い方向に進化していたな。特に虐めがひどかった。男を虐めるんだ。あいつのせいでエリートコースを外れた奴が何人いたか」
「なんで男の人……」
「多感な時期だったから、異性に過敏に対応してしまったんだな。つまり俗に言う美男子ばかりが狙われた。逆に女子には優しいんだ。というか、嫌われることを何より恐れる。繊細なんだな。一つ下の沙智とは、互いに人見知りだから、初期のやりとりは面白かったぞ。でも何故か私とは険悪だ。男と思われているのか? 口調もこれだし、当時は髪も短かったから」
忍はよく喋った。
姫の目を見ないままに、楽しそうな調子で。
「あいつの弱点を知らないか? 姫は付き合いは短いが、深いだろう? いや、変な意味じゃなくて」
自分で言って、自分で笑う。
そのとき初めて、視線が向く。
彼女は、見た目よりずっと不器用らしかった。
「そうね……」姫は合わせることにした。「脱がされるのが苦手、って言ってたわね」
「脱が……、へ、へぇ。むずかしいな、それは」
「お風呂で一度強引に剥いたのだけれど、可愛らしい声を上げて身体を隠したわ。いつもは裸を何とも思わないのに」
「……えーと。……すまん、訊いたのが間違いだった」
弱点といえばこれしかないと思って迷わず口にしたのだが、赤面されて顔を背けられてしまった。まずい話だったろうか。自分は香にだいぶ毒されているのかもしれない。
商店の並びが一旦途切れ、住宅がまた増え始めた。忍が鋭い目をさらに鋭くし、前方を睨む。
「きたな。丁度いい」
瞬間、姫は頭を押さえつけられ、走る勢いのまま転倒させられた。寸前で手をつき顔から突っ込むのは免れたが、すりむく痛みに顔をしかめる。発砲音によりその何もかもは吹き飛ぶ。すぐ頭上を弾が掠める音。遥か先を走る忍の背中が見えた。
黒髪の少女は跳躍――懐から花火を取り出し地面に投げた。姫は身構えるが、襲ったのは爆風ではなく異常量の煙だ。目くらましか。真っ白な視界の中でデタラメな発砲音が鳴る。それは次々に断末魔の悲鳴へと変わっていく。
煙は引くどころか増え続けている。姫はひとまず立ち上がろうとした。そこに、なんとエルミナの少女服を着た忍がやってくる。
「姫もこれを着ろ」
彼女が片手で引きずってきたのは、もう一着の少女服……を着た少女の骸だ。喉を一突きにされている。姫は絶句した。絶句しつつも急いで服を脱いだ。わたしは何やってるんだろうと思いながら全裸になった。ごちゃ混ぜの感情に顔を歪めながら死体の服を脱がして、下着から何から着た。温かかった。
「あ……下は穿かない方が……」忍が慎重に言った。「いや、いい」
……下半身に湿り気を感じた。倒れた少女の開いた瞳孔、目尻に浮かんだ涙、戦慄の表情……それらには表れなかった彼女の全てが襲ってきた。全身が震えて拒絶した。
忍の刀一振りで、少女の首が胴体から離れた。姫はもっとやってくれと思った。お願い、そいつを人の形じゃなくして。理性より、平和の思想より、単純な嫌悪感が勝った。
異国の服の二人は走る。一軒の家に忍が入り、首を二つ抱えた姫が続いた。途端に足がもつれて、姫と首二つは広い居間に転がった。その上から血の雨が降った。成人女性の首が転がった。姫はすぐさま立ち上がった。彼女たちと目が合うのを怖れた。忍の後を追って出た廊下で、またも血飛沫が散った。階段から男性が転がり落ちてきた。
「これで全部かな」
忍が納刀した。
瞬間、赤子の泣き声が二階から響き渡った。「はは……鈍ったかな」再度刀を抜き、階段を上る忍。
呆然と立ち尽くしていた姫は、弾かれたように前へ出た。二段飛ばしで段を駆け壁にぶち当たりながら、二階の部屋に寝かされた乳幼児と忍の間に滑り込んだ。
泣きかけの笑い顔と、小さな泣き顔が対面した。乳幼児の声はぴたりと止んだ。
「忍……」ぎこちなく振り返る。「あなたを嫌いになりたくない」
下着がやたら湿っている気がした。もう脱ごうと思った。見下ろす忍の視線は揺れていた。わたしは……うまくやった。
やがて刀は魔法のように消される。姫は脱力して赤子の上に覆いかぶさった。
「外には私達の死体がある」どん、と音が響いた。「バラバラのだ。頭がないことも刀がないことも誤魔化せる」
忍は本物の爆弾も仕掛けていたらしい。導火線を調節し時間差で爆破した、と言った。
「香たちも同じことを……?」
「セオリーだ」
忍は言った直後、鼻を覆った。部屋に便臭が充満したのだ。赤ん坊の布オムツを開いた姫は、全力で息を止めていた。
「出来るんだな、そういうこと……」
「初めてよ」
一階の流し場にオムツを持っていく。とりあえずそこに放置し、棚の中から替えを探す。濡らした別の布も持って、また二階に上がった。小さな足を持ったままの忍が「早く」と言った。姫は急いで柔らかいお尻を清潔にする。
「知識で知ってるだけ」
「王女だからか?」
「興味……趣味かも。普通は王女ってもっとバカよ」
巻き方を思い出しながら、なんとかオムツ替えを完了した。窓からは外のざわめきが聞こえる。煙幕がようやく引いて、柔らかな夕陽が部屋に差した。
姫が抱き上げると、赤子はだんだん目を細め出した。
「母親の適性があるんじゃないか」
「まさか」
否定しながらも得意げに、姫は赤子を揺らす揺り籠となった。
忍が一階で調理した料理を、二階子供部屋で二人静かに食べる。傍の小さな寝顔を確かめながら。
「食材はともかく調味料がな。一応勘でやったが、不味かったら言ってくれ」
「美味しいわ」
焼いた鶏肉と野菜に味付けをした簡単なものだが、恐らく忍の舌がいい。彼女にとって未知のはずの香辛料も使いこなせている。
「エルミナの料理、それも最高級のものを何度か食べたけれど、正直これの方が……」
「そんなにか?」
忍は苦笑した。
「料理って、きっと優れたレシピよりあなたが言った勘なのよ。その時々で食材の質も変わるし」
「まぁ基本食べられればいいんだけどな、私は」
姫はぺろりと平らげてしまった。ご飯も二杯いった。忍もなんだかんだ言いながら食が進んで、こちらも二杯いった。
外のざわつきも止んで、日はすっかり落ちた。敵軍が民家に接触する気配はない。偽の死体の効果は大きかったらしい。
「忍、少しこの子を見ていて」姫は立ち上がった。
「何だ、小用か」
「うん」
「やめておけ」
は? と声に出そうになった。忍は壁の方を指差す。
「そっちの部屋でしたらいい。無駄に死体と顔を合わせることはない」
「……」
言うのも変だが、自分も大分慣れたつもりだ。今更死体の一つや二つ。
「平気よ」
部屋を出て階段を下りる。臭いが少ししたが、許容範囲だった。
踊り場まで進んで、足を止めた。
死体があった。階段で死んだ男のものだ。
形状が違った。
「だからやめろと言っただろ」
扉越しに忍の声が聞こえてくる。三分の一ぐらいは、カーペットの上に吐いた。でもあと三分の二が出てこない。
「食物は何だって命だ。吐くってことは、無駄死にさせてるのと一緒だぞ」
「うっ……え、うぅ」
顔を上げると、男物の机、クローゼット、ベッドがある。写真が目に入りそうだったので勢いよく顔を伏せた。
「言っておくが、料理で必要なのは勘なんてものじゃない。ある物を受け入れることだ」
ふらふらと立ち上がって服を脱いだ。しゃくりあげながら、裸でカーペットに用を足した。
服をまた着る間に、赤ん坊の泣き声がした。慌てて扉を出て、子供部屋に駆け込んだ。
「……オムツはきれい」
「食事じゃないか」
姫もそんな気がした。
「赤ん坊が食べれそうなものは下になかった」
「第一授乳期よ、この子」
抱っこしてあやすが泣き止まない。だんだん忍の目が険しくなっていく。
「駄目だ、斬る」手の中に長刀が出現した。姫は叫ぶようにして止めた。
咄嗟に服をたくし上げると、乳房を赤子の顔に近づけた。
泣き声がぴたりと止む。小さな手が胸に触れ——、
「う」
口に含まれた。
「……何やってる」
「わからない……」
そもそも死体から母乳が出るものかはわからない。各大陸の医学書も読み漁った姫だったが、そんなことが書かれていたことはなかった。よって今が、その真偽のわかる場面となるはずなのだが、
「だぁ、だ!……ふぇ……」
赤ん坊は拒否した。忍が洗った首なしの母親の乳房を、はたき飛ばして泣き顔になった。
姫が未発達の胸を吸わせると、ご機嫌になった。
「くすぐったい」
「母乳は出てないんだろ」
「うん。未妊で出るケースもあるらしいけど……、忍、試してみる?」
忍は勢いよく後ずさった。「絶対嫌だ」
赤ん坊はとにかく、乳房を与えている間は大人しかった。母乳も当然そうだろうが、体温を求めているのだろうと思った。
「可哀想だけど、本物のおっぱいは明日まで我慢して」
部屋に戻って、柔らかい髪を撫でると、息がおとなしくなる。忍の手をとって、同じように撫でさせてみた。
微かに笑って、少し辛そうな表情が向けられた。
「私は、兄弟がいない」
「……わたしもよ」
「本当はいなくてはいけないんだ。兄でも、弟でもいい。男が家業を継ぐから」
胡座の脚に目を落とした。
「誰に望まれたわけじゃない。でも自分が女だというのを否定しながらが生きやすかった」
「……」
「桃山も沙智も人は殺すが、私は倍は殺しているし、えげつないこともする。これよりもっと小さな子を海に捨てたりもした」
赤ん坊の口が胸から離れた。
「私は親にはなれない」
忍が心中吐露の真っ最中だが、それどころじゃなかった。赤ちゃんが泣き出しそうだ。もう片胸を与えるが、拒否された。飽きたのか。
「ちょっと忍、ごめん」
「……え」
「本当にごめんなさい」
忍は割と〝ある〟。案の定、赤ん坊は違う感触に満足したようだ。ひとしきり吸うと、うとうとし始めた。
「桃山には絶対言うなよ……」
「ええ」
「……くすぐったい」
「慣れるわ」
時間が過ぎるのは早かった。オムツ替え、寝かしつけ、起きれば母乳の出ない乳を与え、姫と忍は交代で寝て、気づけば朝日が差していた。
赤ん坊を抱いたまま家を出て、隣の民家へ。忍がドアを壊して、侵入する。住人の男女に悲鳴を上げられるが、
「プリーズ、ブリング……ベ、ベイビー」
「隣の家の子です。よろしくお願いします」
強引に抱かせて立ち去った。
人通りのない住宅地を、二人の少女は駆ける。忍が地図を広げた。
「打ち合わせた合流地点まで少し。……いいな、くれぐれも」
「言わないわよ」
レンガの舗装を日の光が照らす。家々の屋根から雀が一斉に飛び立った。
「忍……親になるのは、多分」
自分でも掴みきれていない感覚だった。何せ、たった数時間の擬似体験だったのだ。
「未来を作ることだから。……過去は、関係ない」
忍はそっぽを向いて、微かに頷いたようだった。
住宅地終わりの時計台の前に、香と沙智がいた。
合流するなり、変な顔をされた。
「なんか二人、空気おかしくない?」
「え」
「単に打ち解けた感じとは違いますね」
「あのとき率先して姫の手を引っ張ったから変だと思ってたけど、まさか……」
「ふざけるな。お前じゃないんだ」
「でも軍服はどうしましたか隊長」
「変わり身に使ったんだよ」
「汚れたから捨てたんじゃないんですかぁ? 具体的にどこが汚れたかはあたしの口からは言えませんけどぉ」
「桃山、いい加減に……」
そのとき風が吹く。エルミナ北西部、国境地帯に吹く砂漠の風だ。
姫のスカートが舞って、一糸纏わぬ肌があらわになった。
全員が絶句した。
「……ご、ごめん。茶化したりして。まさか本当にそういうことがあったなんて」
香は無残なほどに狼狽えた。「なんか、うん……。あたしは実際、べたべたしてたけど、女の子同士でそういうのは考えてなくて……でも姫は大好きで……。ご、ごめん、自分でもよくわかんないや……」
もう放っておいてくれー! と叫んで、香は走って行ってしまった。
唖然として立ち尽くす二人に、
「で、どちらが攻めたんですか?」
興味深々に沙智が訊いた。




