1 戦争が起こってください
戦争が起こってください、と少女は願った。
居間からは椀が飛んできて、割れた破片が小さな手を傷つけた。
痛みと恐怖に震えるその姿に、家中の誰も気づきはしない。喧騒がただ湧き起こっていた。男に殴られ、女が倒れた。
少女は願った。
戦争が起こってください。
どうしようもない災害が、この醜い争いを終わらせてください。
*
緩やかな気候と自然に囲まれた小国、アスレイ。王城にて、今年十五になる王女は溜息をつく。
窓の外には青空がある。あれを見て、無邪気に喜んでいた時期もあった。木机の上の本。読んで、心躍らせることもあった。……今は、何もない。
世の中のことは全て本で知った。自室を出ずとも、苦労せずとも知識を得られるそれを、ここ数年、夢中で読み漁った。
「間違いだったんだわ……」
本は彼女から感動を奪った。世界を知りすぎてしまったのだ。どこの国の、どんな年代の人間も、本に書いてある以上の考えはないし、行動もしない。薄っぺらの存在。城内の者たちも皆、虚構の人格に思えた。
そう、ここは虚構の中だ。烈しい現実なんてどこにもない。毎日食事をとって、トイレに行って、公務をして、入浴して、寝る、の繰り返し。外に出ても同じだろう。立場上、頻繁に外出することはできないが、例えば国民と同じ生活をしても、一年経てば飽きる。どこに行ってもこの感覚は付き纏う。本でわかったことだ。ある程度世の中を知った者は皆、同じ思いをしている。
「……すごく楽しいことなんて、もうこの世界にはない」
惰性で生きるのみだ。食事や晴れ空で喜べるほど、今更幼稚にもなれない。つまり、この慢性的な退屈は自分の性質に深く根付いているのだ。証拠に、城の人間は誰もが下らないことで一喜一憂する。外交の一つが成功した程度で、国中を巻き込んだパーティーが行われる。平和を信念とするアスレイならではなのだろうが、他国のことも知識として知る王女としては、それが滑稽な様にしか見えない。例えば国交を断ち、自国の文化を守る国がある。彼らにとってはそれが何より尊い。逆に、侵略紛いの外交で次々と領地を広げる国もある。真に国民の為を思えばそれが正義だろう。
物事を多面的に見るようになった王女の結論は、〝どの思想も下らない〟だ。だって、意味がないのだから。どのような暮らしをしていたって満足する人間は満足するし、わたしのような人間は退屈する。その中で何か一つを目指すことの無意味。結果、王女は流されている。馬鹿のように動き回る人間達に囲まれ、タネのわかってしまった手品を呪っている。
トイレも風呂場もある自室から王女が出るのは、日に三度の食事の際、又は公務の予定があるときだけだ。軽く縛っていた金のウェーブの髪を解き、石造りの壁と赤絨毯の廊下を進む。途中途中、雑務担当のメイドに頭を下げられる。学のある者達であるが、彼女らは国から募った働き手だ。国柄ということなのだろう。寝起きの王女と一般の者が城内で顔を合わせるなんて、他国ではあり得ない。万一暗殺などされたら父を恨もう。そう思って過ごしてきた十数年、事は一度も起きていない。王女は、アスレイ国王の人柄を認めざるを得ない。平和を心から望む者には、相手も無闇に悪意で接せないのだ。その調和は、王女をまた一つ退屈にさせた。
質素な木の扉に混じって、装飾のされた大きな扉がいくつかある。王族関係の部屋との区別だ。王女は大きな扉の一つに入る。
煌びやかなドレスが並ぶ中を、気に留めるふうもなく進む。部屋奥の大鏡の前に座った。辺りを見回すが、人の気配はない。公務の日はいつもこの時間に担当のメイドが呼びつけられるはずなのだが……。
と、そこまで考えて、王女は先日他国よりやってきた新米メイドのことを思い出した。ああ、あいつなら納得だ。初日から食卓に茶をこぼすし、次に見たときは廊下にシーツをぶちまけていた。着付けの時間に遅れるなどある意味造作もないことだろう。
念の為、呼んでみる。恐らくまだ寝ているか、廊下を走っている頃だとは思うが。
「カオルっ!」
「はっ、はい! わわっ」
意外にも、背後で反応があった。部屋内に無尽に置かれたドレスの中から、赤髪のメイドが転がり落ちた。
「何、やっているの……」
王女は振り返って見つめた。メイドは頭をさすって、涙目で立ち上がろうとしている。目が合う。
「なんだ。姫かぁ。メイド長か戦士長だと思ってびびったよ」
「その二人よりわたしが軽んじられる意味がわからないわ……」
「なぁに言ってんの姫ぇー」と彼女は歩み寄り、抱きついてきた。「昨日、お背中お流しした仲じゃないですか」
「主従関係と言うのよ、それ」
引き攣りながら言うと、メイドはげらげらと笑い出す。
「姫、今の間、絶妙でしたよ!」
何が……。
彼女はカオルという。他国との外交の一環で送られてきた、同じ十五歳の少女だ。異様に赤い髪をしている。初日に聞いたところ、「染めたんですよー。外国で浮かないように」と返ってきた。余計浮いていると思う。
これもお国柄というやつなのだろうか。アズマという島国は、数年前まで鎖国状態だったとあって、破天荒な国風と聞く。外交を開いた今でも、国の長である帝はその姿を公に現さないし、果てには禄に給仕もできないメイドを国交の記念によこす始末だ。
そのような国に付き合うのも、父の平和主義なのだろう。いいように扱われる気がしてならないのだが、放っておく。良くも悪くも、これがアスレイの外交だ。
ところで……、
「何をしていたの、カオル。ドレスの中で」
王女は訊いた。特に咎めるつもりはなく。それにカオルも気づいたのだろう。あっけらかんと言った。
「寝てたんです。朝一番の仕事はここでと聞いたので。しかもご公務の着付けとあらば遅れるわけにもいきません。ここで寝ながら、姫が来るのを待っていました」
王女はカオルを少し見つめると、おもむろに立ち上がり、ドレスが並べられた中を探った。一つ、二つと掻き分け、すぐにそれは見つかった。
袖を縛られ、複数編み込まれて作られた、ドレスのハンモック。
「カオル……、これ、わたしじゃなかったら、あなた怒られるだけじゃ済まないわよ」
「あはは。でしょうね。でもいいじゃないですか、沢山あるし」
「いや、これ、一着いくらすると思っているの……」
あくまでも王女目線ではなく、一使用人のカオル目線で言う。
「さぁ。でも姫が着散らかしたことにすれば問題ないでしょ?」
「お前……」
はぁ、と嘆息して王女は椅子に戻った。ここで怒れる人間は、世界がそれなりに楽しいと思う。だが達観している自分には無理だ。その労力が無意味と思えてしまう。カオルはこのような性格だからカオルなのだし、それに、だからこそ見ていてほんの少しの刺激になる。本当に少しだけれど。結局は破天荒なお国柄、品のないアズマという国の現状が垣間見え、カオルという人間のルーツがわかると同時に、全ては調和する。彼女もまた、虚構の存在だ。
「まぁいいわ。とにかく、髪をやって頂戴」
「あいあいさー」
あと数十分で外に出なくてはならない。馬で城下町を回る。その行為に意味などを求めてはいけない。自分には退屈でも、国民には重大な催しだ。何も面白くない冷めた自分という人間も、他者にとっては違う。この国の平和の象徴なのだ。
髪を梳かしながらカオルが言う。
「アズマとの国交アピールの為、結髪にしてみますか?」
「ん……」
どんな髪型か知らないが、カオルが笑顔で言うのだからきっと爆弾だろう。
「やめて。普通に二つ結びでお願い」
「いつも思うけど、それ子供っぽくないですか」
「え……?」
そうなのかな。確かに幼い頃からしている髪型だけど……。
「十五といったら、もう半ば大人ですよ。少なくともあたしの国ではそうです。こうして働いてるんですから。ドレスだって、少し見させていただきましたけど、どれもガキの服ですね。今の成熟の始まった姫の身体には合わないでしょう」
「う……」
入浴の際、じろじろ見られたのを思い出した。
「髪は下ろして、ドレスは母君のものを借りるのがいいです」
こいつ、その論調で数着ダメにしたことを肯定化する気だな……。王女は思ったが、確かにカオルの言うことは一理ある。服装などに関しては自分で決めていて、口を出してくる者もいなかったので、身長に合わせた仕立てしか要求していなかったのだが、それらが全て未だに少女的であるのは気にかかっていた。
「そう、かな……」
曖昧な返事をしていると、
「ちょっと待っててね。すぐ取ってきますよ」
と言ってカオルは部屋から出て行った。ぼうっと閉まった扉を見つめていたところ、本当にすぐに彼女は帰ってきた。母の――王妃のドレスを持って。
「はい。これ着てみて。姫」
純白の生地に、大小様々な宝石が散りばめられた……、これは国内用ではなく外向けの最高級ドレスだ。通常の着付け部屋(勿論こちらも鍵がかかっているが)にはない。宝具室に厳重に保管されているはず。
「どうやって……」
「なぁに、これぐらい朝飯前ですよ。ほんとに朝飯前だけど。まぁ姫に絶対似合うと思ったら、あたしは施錠なんて抜けますよ」
立たされて、強引に袖を通され、着させられた。大鏡に映る自分の姿は、一国の象徴として誰が見ても相応しいものだった。
「次はお化粧と髪……ああ、着たままでいいですよ。汚さないよう上手くやりますし」
器用にカオルはそれらをこなしていく。本当は、出来損ないメイドなどではないのではないか。これまで世話をしてくれた誰より早い。
「あなた、凄いわね……」
思わず声が出た。
「わたし、もうこの歳で驚くことなんてそうそうないと思ってたのよ」
「ええ~? その発言にあたしが驚きですよ!」
「冗談で言ってるんじゃないの。例えば、人の心理の本を読んだらわかるわ。本当に、人は決まった思考と行動しかしないんだって」
「んー、でも、あたしが実は男だって言ったら驚くでしょ? うっそー! っていうのと、こんな可愛い男がいていいの? と二重の意味で」
「ま、まぁ、それは驚くけど、仮定の話でしょ……」
「じゃあ、あたしが急に変な踊りを始めたりとか」
「……それは割と想定内かな」
「ええ……」カオルは何故か落ち込んだようだった。
「とにかく、凄いわよ、あなた。国風なのかしら。アズマって、そういう人が大勢いるの?」
「んー?」化粧が終わる。髪を梳かしながらカオルは言う。「どうでしょうねぇ。変な奴もいれば、退屈な奴もいますよ」
退屈な奴……。
やはり、どこでも同じか。どんな環境だって……、
「まぁ、住んだらどんな環境だって慣れます」
心を読んだかのようなその言葉に、王女はつい鏡越しに彼女の目を見た。
赤髪のメイドは微笑んだ。
「あたしは、そういうの嫌いですけどね。だからこうして国を出て働いてるんです」
へぇ……、と言うのが精一杯だった。そうして、アスレイにも慣れたら別の国。また別の国。いずれ、わたしのような達観が彼女にも待っているのだろうか。
それとも、身体一つで未知へ飛び込んで行く彼女に、それは起こらないのだろうか。知識で何もかもを知った気になって、結局は部屋から出ていない人間の、全ては馬鹿げた妄想……。
それは王女の中で、少しの希望に思えた。
「……あと、ひと月だったわよね、ここにいるのは」
「ええ」
「その後は、どうするの」
「そうですねぇ……」
カオルはうーんと考え込んでしまった。「まぁそんなにいないですけどね、多分」とかぶつぶつ言いながら、顔を上げる。
「次の、楽しいことを求めていきますかね」
その目に、嘘は見えなかった。
「楽しいことなんて、あるの……?」
「ある」
本当に……?
「ありますよ」
彼女の手が、王女の髪を撫でる。
「なければ、作っていけばいいんです」
満面の笑みだった。
細い指がもう二三度髪に触れ、王女は夢心地になった。他国の使用人の根拠のない一言で、ずっと心にあった空虚が薄れたように思えた。
「ほら、ね」
笑いかかった声。
違和を感じて目を凝らすと、鏡には、大きくアップにされ、とぐろを巻いた金の髪が映っていた。
とにかく時間がなかった。のんびり話をしていたせいで、すぐに城下におりなければいけない時刻になっていた。髪を戻させている暇もなく、口許を押さえるカオルに見送られ、城を出て戦士二人と共に馬に乗る。彼らも驚いた様子だった。
「王女、それは……」
「知らないわよ! カオルにやられたの!」
「アズマの使用人ですか。滅茶苦茶とは聞いていたが」
「超高速でいくわよ。こんな頭、皆の記憶に残してはいけないわ」
「無茶な……」
戦士の一人に宥められ、結局ゆっくりと城下をまわった。石造りの家々が並ぶ街並み。所々で歓声が上がる。髪に反応した人達だ。そうでない者は深々と地に伏し、又は遠くから手を振る。王女は引き攣った笑顔で返した。
「くそう……」
呟くと、戦士達は可笑しそうに鎧を揺らした。
「何よ」
「……いえ、失礼しました」と言いつつ、まだ笑っている。
「珍しいお顔が見れたと思いまして」もう一人が言った。
「そうでしょうね。こんなに怒りが湧いたのは初めてだわ」
「いえ、素敵です」
「我々も国民も、王女の色々なお顔が見たいのですよ」
……ああそう、と思う。
「あの使用人はお手柄のようですね。やはり異国の者は違う。良くも悪くもです。あいつは悪いところが目立ちますがな」
「……」
俯くと、頭が重い。必然と顔を上げることになる。笑顔で手を振る子供達と目が合った。カオルを呪いつつも、にっこりと笑って公務をこなした。
「本当、今日のお風呂が不安よ……」
ぽつりと言った。別に他意はなかったが、戦士二人は気まずそうにそっぽを向いた。
「あ、ええと」
……まぁいい。入浴の話を戦士などにしてしまったのはいいとして、本当にカオルとのお風呂は危険な気がする。無防備な裸に、アズマ流の何らかの悪ふざけをされると思うと、今から身悶えの境地だ。
今日はいいと言おう。そうだ。もう十五の大人なのだから、自分で体は洗うと言おう。
「姫、お背中を流しに参りましたぁ」
カオルが来た。浴室で、王女は裸の背中越しに見る。曇りガラスの向こうに赤い髪が揺れている。「結構よ」と言った。
「わたしはもう一人で入浴するわ。大人だから」
「おっ、そうですか」
よし、帰れ、帰れ。正直、カオルじゃなくても、もう入浴の付き添いはいいと思った。成熟が始まったなどと言われたら、途端に恥ずかしくなったのだ。
「では、大人同士の裸の付き合いをしましょう」
赤い人影は言った。予想外だった。
「同い年の、異国の友人として。うん。身分は違うけどね。十五を越えた大人同士、裸の付き合いは覚えないとね。あはは」
ガラス越しに、衣服を脱ぐ様子が伺えた。「ちょ、ちょっと、何よそれ!」慌てて立って、駆け寄り、扉を押さえる。
「あれ、裸の付き合いってこっちじゃ言わない? アズマだけなのかな?」
「多分あなただけよ……!」
肌色と赤のシルエットが、動く。押さえていた扉が、するするすると軽く滑っていく。力の差は歴然だった。
「ぎゃあああ!」王女にあるまじき悲鳴をあげながら、王女は広い浴室内を駆け、湯のあふれる浴槽へと飛び込んだ。どこも隠さずに入ってきたカオルは、「ええ? 女同士ですよ?」と不思議な顔をした。
「他人と入浴するなんて初めてなのよ!」
「母君とは?」
「ないわ!」
「べっつにいいでしょう」両手を広げて、けらけらと笑って言う。「昨日だって姫の裸は見ていますよ」
「あなたの裸が問題なの!」
「え? 普通ですよ?」
胸。
「どこかおかしい?」
尻。カオルは眺めつつ、首を傾げる。
「もういい……じっとしてて。そこで体を洗ってて。こっちに入ってこないでね」
「うーん……」
拒絶を告げると、彼女は少し俯いた。一度晴れた湯気が、また室内を覆っていく。
「出るときは、あなたから出て。いい? ただでさえ、使用人が王族のお風呂に一緒に入っているのはおかしいのよ。わたしが、こういう性格じゃなければね……」
「あたし個人は、お嫌いですか、姫」
伏し目で、悲しそうな声。カオルは続ける。
「確かに、王女と、外国から来た使用人です。だけど、同い年で……。本来の関係以上に、仲良くしてはいけませんか」
「仲良くしないと言っているんじゃ」
「あたし、姫が人に接するところを見たい」
それは王女の心を何気なく刺した。
「……あんまり、人を見てないよね、姫。……やっぱり、姫ぐらいになると、誰も彼も同じみたいな? 達観っていうか」
「……」
「馬鹿なお喋りには付き合ってられないよ、みたいな」
「……違う」
恥ずかしいだけだ。
「ごめんね。……いや、失礼致しました。あたし、外国ってずっと憧れてて、適当だけど言葉も憶えて、そしたら国からこの仕事がきて、意気込んじゃったんですね……」
掛け流しの湯を汲んで、流す音が聞こえた。
「何もかも自己流でやっちゃったけど……、うん、年が一緒だから、馴れ馴れしく話したりしちゃったけど、……大変、ご無礼をお許し下さい」
しばらく声は止んだ。湯が打たれる音だけが響いていた。
扉を開ける、カオルの背中が見えた。
王女は少しだけ、縁に乗り出して言った。
「……人を、見てないって何」
濡れた赤髪が振り返る。無言で、微笑んで、王女を見つめている。
「答えなさい」
王女と変わらない、起伏の少ない体。
幼い唇が微かに動いた。
「姫の――あたしが、最初の友達になれると思ったんです」
ざぷんと、湯が零れた。濡れた石畳を裸足が進んで、
肌を叩く音が反響した。
「……姫」
頬を押さえるカオルの前に、王女がいた。
「口が過ぎるわ。あなたは、一使用人」
「怒りましたね。友達がいないって言われて」
「立場をわかっているの!? わたしの権限であなたを如何様にもできるのよ!」
激昂する王女に対し、
「何しても寛容だったのに、友達のことになると怒りましたね?」
カオルはさも可笑しそうに笑った。
「友達って何よ。アスレイ国王女にそんなものは必要ないわ」
「なら何故叩いたんです? 裸、恥ずかしいんじゃなかったんですか?」
カオルの視線が上から下へ、また上へと動いた。王女は唇を噛み締めながらも、動かずに努めた。
「欲しいけど手に入らないから、悔しくて怒ったんでしょ?」
「何、言ってるの……。さっきから本当に……」
「姫、友達っていうのはね」
小さく息を吐いて、細い腰に手をやった。
「こうして向かい合える関係ですよ。身分とかは無しで。お互い裸でも、目を逸らさず……」
「……」王女は床に向けていた視線を、無理に戻した。
「見つめ合える関係」
ぐっと息をのんだ。
カオルの黒い目の中に、もうどこにもないはずのものが、見えた気がした。
「……」
こくりと、王女は頷いた。
次の瞬間、肌と肌が触れ合う感触。
「きゃーーーーっ! かわいいーーー!」
なんと抱きつかれた。声も上げられず、しかし滅茶苦茶に慌てた王女は、離れようと足を動かして、
濡れた床でつるんと滑り、
「あ……」
勢い余って二人、浴槽に飛び込んだ。
「肌、白いっ! 目、青い! お人形さんみたいなんだよねー!」
先に顔を出したカオルが叫んだ。王女は顔にかかった髪を分けながら、間近の彼女を見た。
「……変なの。わたし、ただの人よ。身分がなければ」
「身分は面白くないし、かわいくもないです!」
また抱きつかれる。色々なところがあたっている。これも、慣れるしかない。早急に。……だけど、慣れられる気がしない。
身体がぽかぽかと火照っていく。カオルが少し離れて、馬鹿げた話を始める。王女は見つめて、微笑んでいる。
今まで考えていた全てが、その時だけ簡単に思えた。
土いじりをしてるんですよ、とカオルは言った。もう長居は当たり前となった王女の部屋で、ベッドに腰掛けながら、
「花が咲くかな。あたしが帰る前に」
「城の裏庭?」窓際の机で王女が訊く。
「そう。任せてもらえたんです。ほんの一画ですけど」
「へぇ……」
これから暖かくなる時期とは言え、ひと月で咲く花はないだろう。
「世話をさせるわ。あなたがいない後も」
「ほんと?」
カオルは嬉しそうに言った。
「本当。だからちゃんと帰ってね。戻ってきたら駄目よ」
「ひどいよ姫……。友達なのに」
「友人は、離れても応援し合えるものよ。帰ったら国交の橋として英雄扱いなんでしょ?」
「……まぁ、多分ね。うまくいけばね」
照れる彼女に、王女は微笑んだ。
「わたしも、外交に尽力するわ。父と共に」
先日申し出た際、その変化を王に驚かれた。それは願ってもないことだったようで、すぐに国外の公務にも王女が同行するよう調整が行われた。
世界は外にあったのだ。王女が線引きをした向こう側に、ずっと広がっていた。他国をまわり、人と会う。色々なものを見る。
「アズマにも、いずれ行くわ。その時は……」
「ええ。案内しますよ。変なとこですけど」
王女はくすくすと笑った。
「カオルより変な人はいないでしょ」
「えっ……、そんなことないですよ。あたしはまともな方です」
「絶対うそよ」
「そ、そんなこと言ったら、姫だって変ですよー?」
カオルは慌てて仕返しをしてきた。
「変で当然よ。王女だもの」
「でも、体洗う順番とか」
「うっ……」
「普通あんなとこから洗いませんって。王女とか関係なく。普通は頭とかねぇ」
にやにやと言う。
「だ、だって、気になるんだもん……おへそ」
「一日生活して、恐らく一番汚れてないところですよ?」
「いいのよ! カオル以外誰も知らないし……」
言ってて恥ずかしくなった。今更だが何故一緒に入浴する習慣がついているのか。
「あとはねぇ、小用についてもあたしは一言いいたい」
「ぎゃーーーっ!」
王女はカオルに飛びかかった。
「言うなっ! トイレの仕方なんて人それぞれでしょ!」
一度だけ、公務の時間を伝えにきたカオルに現場を見られたのだ。鍵をかけなかった自分も悪いが、かけない風習のアスレイ国がそもそも悪い。平和主義も、その時だけは考えものだと思った。
「わかりました。わかりましたって。そんなに全力で抱きつかないでください」
「もう……」
それから、日々は穏やかに過ぎていった。
カオルは毎日、裏庭に足を運んでいるようだった。王女の部屋からは様子が見えない。行ってみようかと思ったが、公務が忙しくなってそれどころではなかった。
せめてカオルが帰るまでは、仕事を増やすんじゃなかったな……。ふとそう考え、
「……」
彼女との時間を愛しく思っている自分に気づき、
(あああ……。なんなのよ、わたしは……)
一人赤面した。
カオルが発つ日が迫ると、いよいよ王女の顔は浮かない。西の国家との会談の席で、愛想笑いをしつつも、心では赤髪の友人のことばかり考えていた。アスレイ国境付近の農村地帯。エルミナ連合国が所有する大型車両の中、出された苺のデザートが王女だけ進まない。
「酔いましたか?」
向かいの席で、エルミナのトップである若い男が訊いた。「申し訳ありません。予定を縮めるため視察も兼ねてしまい」
「いえ……」
「導入したての技術でして、まだ改良が要るようです」
窓の外を田園風景が流れていく。驚く農村民の姿も見える。無理もない。鉄が走っているのだ。
「素晴らしいですな。この苺といい、まさに革命です」王が言った。
「ええ。冬が旬なのですが、是非皆様に食べて頂きたくて」
王女はデザートに口をつけた。苺の凍った食感があった。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
――戦争でもする気なのか。
そうアスレイ王が会談直前に呟いたのを思い出した。すぐに弁解を受け、難色は取り払われたのだが。
トップの男は、技術を示すことで暴力の抑止を狙っていると言った。外交に非積極的な国は多くあり、考えたくはないが、いきなり攻撃を仕掛けられる可能性も視野に入れなくてはいけない、と。
暗にどこの国のことを言っているのかわかった。アズマは未だ、大国エルミナとの国交を始めていない。不信が湧いているのが見てとれる。
ここは、自分が弁明をすべきだろう。しかし、さっきからお腹が痛い。誰かさんのことを考えすぎたこともあるが、たった今、苺のデザートで完全に冷やされた。国家会談の場でこれはまずい。
「少し、こちらからお話したいことが」アスレイ王が言った。「アズマという島国なのですが」
「はい」男の顔色が変わる。
王女は恐る恐る手を挙げた。父のアズマへの印象は、自分とカオルの件もあって良好だ。任せていいだろう。とにかく、今、わたしは……、
「おトイレに、失礼……、行ってもよろしいでしょうか」
白い軍服の兵に案内され、車両内部の大きな扉を開ける。タイル張りの清潔な空間があった。
個室に入り、鍵をかける。それから、王女はドレスと下着を抜いで、全裸になった。
またカオルのことを思い出した。
(どう用を足したっていいでしょ……)
全て終えて、元通り着衣し、王女は手を洗って廊下に戻る。ちょうど部屋から出てくる王や王妃、エルミナの者が見えた。どうやら終わってしまったらしい。少なくとも失態だ。後で注意を受けるのは覚悟しなければ。
「それでは、早急に手を打たれることを……」
「うむ……、ええ」
エルミナの男と話す王は、表情が暗く感じた。少し不安に思いながらも、王女は駆け寄って頭を下げる。
「失礼致しました」
男は爽やかに笑いかけた。
「いえ。私どもの責任です。次はこのような場所でなく、落ち着けるところでお会いしましょう」
王女も笑い返した。
「その……、アズマのことでわたしからも少し」
「はい」
彼は笑顔のままだ。
「変わってはいますが、悪意のある国ではありません。使いの者と、わたしは友人になれました」
「それは素晴らしい」
車体が揺れ、王女はバランスを崩した。男が手を添え、支えになった。停車したのだ。時間がない。
「私とも、友人になれますか」
彼の問いに、即座に頷いた。
「ええ。……ですから、どうかアズマとも、真摯な対応を」
「わかりました」
廊下の奥で日の光が瞬く。一同は車両を出て、国境線の上で別れを交わした。
馬車に乗って帰る間、トイレのことを言われるかと身構えたが、王も王妃も一言も口を利かなかった。不審に思ってこちらから尋ねてみても、王は言葉を濁すのみで、そのまま城への到着となった。
呼びつけがあったのは翌日だった。部屋にやってきたのは、メイドではなく戦士長だった。鎧の下から、「失礼……、国王がお呼びです」
「まず出て行って。すぐ着替えるから」
まったく、油断していた。最近はカオルしか来なかったものだから、下着での応対が定着していたのだ。
城内用のドレスに着替えて、髪も整える。
しかし、何故よりによって戦士長……。娘の年頃のことを考えて欲しい。
鏡に笑いかけてみて、満足し、いざ、と扉に手をかけたところで、
「姫~~……」
窓から、カオルの声が聞こえた。
すぐに駆け寄って覗き込む。彼女は長梯子で部屋に上ってきていた。
「な、何?」
「久しぶりー。数日めっきり会えなかったねぇ」
「いや、うん、そうだけど。何してるの。危ないから降りなさい」
「へへ……」
カオルは照れたように頬を掻いている。
「ご公務の前に、見て欲しいものがあって」
呆れた……。元々変な奴ではあったけれど、ここまで突拍子もないとは。
「あのね、わたし、今から……」
「もうすぐお別れなので。少し無茶しちゃいました。お忙しいならいいです」
「……」
王女はしばし固まって、後ろを振り返ってみる。大きく溜息を吐いて、
「仕方ないわね……。怪我……したら大事よ」
ドレスの裾を縛って、窓から降り始めた。
城壁をまわって、裏庭へ。息を切らしながら王女は、やがて見えてくる白色の花畑に目を見開いた。
カオルが花壇前で足を止め、王女も倣う。
「こんな短期間で咲く花なんて……」
「ソバです」
手を広げて言った。
「こちらにはないですよね。実は食用にもなる、アズマの植物です。花言葉は……懐かしい想い出、だったかな」
小さいけれど、満開の花達。それらを背にして、カオルは、目を合わせてきた。
「あたしのこと、思い出してくださいね」
途端、駆け出していた。カオルの体に抱きついて、王女は情けない声を上げた。
「……あなたが、初めての友達よ」
「うん」
「絶対に、また会うわ。……わたしのことも、忘れないで」
「忘れるわけないです」
限りある時の中で、永遠を感じた。朝の空気、白い花と、彼女の温かさ。
王女は少しだけ、涙を流した。
「動くな!」
打ち破られた静寂に、二人は顔を上げる。声の主は戦士長だった。引き絞った弓を、こちらに向けている。
「王女から離れるのだ」
見れば、城の逆側からも戦士隊が来ている。皆が武器を構え、険しい顔をしている。
「まさか接触するとは。……王女、その者は危険です」
「どういうこと」
言いつつ、カオルを見やる。自分と同じく、事態についていけない様子だった。
「エルミナからの報告で、アズマの実態がわかりました。あの国に使わせた外交官が、帰らないようです。返答もないとのこと」
「だ、……だからって!」
「大国との、戦争を始める気なのです!」
ふと視線を動かした、王女の目に、
薄笑みを浮かべる赤髪の少女が映った。
矢が放たれた。それは王女の眼前を掠めた。
カオルは消えていた。
「後ろだっ!」
戦士長の声。同時にゴキンと音が鳴って、取り囲んでいた戦士の一人が崩れ落ちた。
抜刀の音。全員が剣を構え、振りかぶる。赤髪のメイドは――、
戦士の兜に組みついている。
瞬きの間に、その首は折られた。
「容赦するな、殺せ!」
異常な状況が展開していた。剣が振られる。矢が射られる。どれも、一人のメイドを捉えることはできない。
細い手がかざされた。瞬間、白い花畑が吹き飛んだ。
花弁と土が巻き上がる中、二本の、棒状のものが舞うのを見た。
次に聞こえたのは、鎧が擦れ合い、一斉に倒れる音。吹き上がる赤色を背に、少女は王女の横を抜け――戦士長を斬り払う。
金の髪は風に揺れていた。振り返った王女は、両手の小太刀に血を滴らせるカオルと向き合った。
「嘘よね……?」
返事はなかった。彼女は掘り返された花壇から、土まみれの袋を引っぱり出し、王女の前へ。中から取り出した布を捻って、王女の手にかける。
二秒でそれは完成した。蝶々結びの拘束。
「や……」
次は足。カオルは屈んで、布を巻きつける。
「やだ……、やめて! いや……!」
捻った布を、その口へ。パニックを起こして王女は転がった。袋が広げられ、頭から被せられた。暗闇と、音のこもった空間。呻き声は外に漏れなかった。
王女は担がれ、揺られ、一時間が経つ間に、三度、大泣きをした。涙滴は袋の下の方に溜まって、爪先でぴちゃぴちゃと音を立てた。
王女はどこか床に置かれ、何十日にも思える時を過ごした。更に時が経ち、頭を巡る疑念の中で、そこは船の上だと気づいた。考えることもままならないくらい憔悴が進んだ頃、再び担がれ、運び出された。
王女は袋から放られた。汗と尿の混じった液体も共にぶちまけられ、艶やかな床面に広がった。
薄い顔立ちの、軍服の男達がいた。口の布を解かれ、膝立ちにさせられた。
「ご苦労であった、桃山」
一人だけ黒服の男が、アズマの言葉で言った。その視線の先に、軍服の少女がいた。赤い髪。
「……カオル」
まだ涙が出るのは何故だろう。体の中はからからに渇いているのに。全てを理解して、諦めたはずなのに。
「カオルっ……! わたし……」
彼女の隣に、同じく軍服の少女達が並んだ。肩を叩き合って、笑顔を向け合う。
「これより、帝の御前にて、アスレイ国王女、リサ・サリア・アスレイの処刑を行う」
黒服が言った。少女達は雑談をやめ、部屋奥を向く。紋の入った布の向こうに、座る人影が見える。
軍服の男の一人が、腰の刀を抜いた。
「や……」
別の男に肩を掴まれ、濡れた床に押さえつけられる。
「いや! いやぁ! カオルっ、カオル! 助けて!!」
刀が高く構えられる。
カオルは、王女を見ていない。
ただ目を向け、人を見ていない。
涙が溢れた。
刃が振られ、その絶望すらも途切れた。




