六折
鏡都は季節を重んじ宣明暦を暦としている。太陽と月の動きから陰陽師がその年の暦を事細かく決めているらしいのだが、基本的には新月が月の始まりであり、満月は月の折り返し。
折姫が喚ばれた日は満月であった。数えて今日は十日目。
日記を書くことをシオンに進められた折姫は文机に暦の巻物を広げ、筆を迷わせていた。
──書くことが、ない。
見事にない。
何もない。
え? 妖怪屋敷?
最初は腰を抜かしていた女房も、今では使い猫に「はい、お駄賃」と魚をくれてやる始末。五日目には人魂を吊る腕がプルプル震え、細筋の限界を知らせてきた。シオンに頼めば「姫様、そんなことをしても外は誰も歩いておりません」の一言。それもっと早く言ってほしかった。「じゃあ噂のひとつふたつ流してこい!」とシオンを放り出したところ、これには功労があり妖怪屋敷の噂は既に御所へ轟いているらしいのだが、主上が来なけりゃ、陰陽師も来ない。やってくるのは虫か猫か。
仕方なく諦め、気合いをいれて挑んだシオンの作法指導も昨日晴れて修了。十日目の今日には虚心していた。
「ちーん」
ポタリ。筆に溜まった墨が零れ暦に染みを作っていく。
これでは月が一度満ち欠けする間に廃人になってしまう。折姫は意を決し筆を置いた。
「仰せ言ですか、姫様っ」
「…………」
几帳裏に身を潜める舎人も暇をもて余しているようだ。目を爛々と輝かせているが、全くもって用はない。
シオンは夜が明ける曙に現れ、火点し頃に退く。こうしてぼうっと過ごしていると消えているようであり、ハッと我に返ると傍にいるようだ。
思えば出会ったその日から折り合いも良く、空気のようで気疲れもしない。
ここに来て初めて彼の素性が気になった。
「シオンは役を終えると、いつもどこに帰っているの? 御所の中に部屋があるの?」
「この壺で休んでおりますよ」
「でも、夜に見たことない」
「私はじっと姫様を見ております」
「それ、今日から禁じます」
ガクリと垂れるシオン。
その顔は瑞々しく十六、七の少年にしか見えない。
「シオンはいくつなの?」
「齢四十でございます」
──中途半端だ。てっきり二百万年とか答えてくれると期待したのに。いや、逆に言えば。
「オッサンに毎日スッポンポンにされてるってことぉ」
「お言葉ですが、これでも年頃でございます」
「年頃の男子にスッポンポンにされてる方が問題では」
「眼福程度に楽しんでおります」
「明日から自分で着替えます」
「姫様は私に暇をだされるおつもりですかぁっ」
半泣きですがり付いてきた。
確かに折姫の着替えを除いてしまうと、後は掃除と居眠りくらいしか仕事がない。
「年頃なら閉じ籠っていないて、外へ遊びにいけばいいのに」
「今で充分、花々には慕われておりますので」
「じゃあシオンはお嫁さんとか、恋人がいるの?」
「心の恋人は姫様でございます」
「問題は深まっていくばかりね」
折姫は話しながら移動式の間几帳をどんどん広げていった。広げた後からシオンが閉じていく。
「姫様、何を」
「主従に間違いがあってはいけないと思うの」
「姫様、間違ってもこの昼日中からそのようなことは」
「夜に間違いがある方が問題では」
「ご安心ください。私には夜動く足はございません」
最後に隔てた几帳を折姫の手から優しく奪い、布の切れ目から顔を出したシオンはどこか哀しげだ。
「陽が昇りきりましたね。膳を用意させましょう」
そのまま簾の奥へ消え、回廊を横に歩き畳に影を落としていく。
言葉の掛け合いの中で彼を傷付けてしまったかもしれない。そう思うといてもたってもいられずシオンを追いかけた。
「あれ……?」
簾を潜り回廊へと飛び出るがシオンの後ろ姿が見えない。だが畳には折姫の一歩前でその影が歩いている。
簾の奥へと戻る。
簾越しではシオンの姿も影も見える。
「待って!」
折姫は彼が通っている最中の簾を一気に沙、と引き上げた。
このまま曲がり角で彼が消えてしまうのではないかと怖くなったのだ。
──いない。
まるで灰になったかのように、桜の花弁がひらひらと舞い散っている。
「うそ……、そんな」
どこにもいない。
先程まで前を歩いていたのに。
畳と回廊──その敷居でへたりこみ、途方にくれた。
いやだ。独りは、いやなのに。
「姫様っ、みてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみて」
「はい?」
声のする方へ振り返れば、奥の簾からシオンの顔がひょこりと出ている。
「みてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみてみて」
「その前に私の時間を返して」
無駄にできる時間は山ほどあるが、洒落にならない無駄な時間だった。心配して損した。
しかし前にいた彼が後ろから戻ってくるとはこの局、元より妖怪屋敷なのでは。
日記に書く話ができたので良しとしようと、空いたお腹を撫でながら近付くが芳しい出汁の香りがしない。
簾から飛び出してたシオンの手には、膳の代わりに金箔の乗った玉手箱や雅な反物が山のように積まれていた。
「これは……?」
「主上からの賜り物ですよっ! 衣裳に花簪、化粧箱──どれも素晴らしい高級品ばかりです!」
確かにこれらの輝かしい調度品を前にするとパンダのパジャマは地味だなと思う。衣はどれも金糸の刺繍の下には桜の花が描かれ、簪には見たことがない宝石が嵌め込まれていた。
だが未だお姿すら知らない主上が十日経った今、何故──。
「主上の詔です、翌月の初めに催される花宴に出仕せよと──!」
シオンは嬉々とし早速賜り物を広げると、簾に空けた「穴」に気付かぬまま折姫を着せ替え人形にし始めた。
お腹を空かせた折姫は身体をふらつかせながら、また妄想にふける。
私を着飾らせるということは、主上と公の場で対峙するのだろう。その席で無礼を働けば愛想をつかせてくれるのでは?
「ガスがたまる食べ物ってなにかしら」
「芋でしょうが、嫌な予感がします。姫様にはお出ししませんからね」
「ちぇ」
出仕の際には一目でも陰陽師様に会えるだろうかと、折姫は微かな望みを懐き、胸をときめかせるのであった。