五折
時は日の入り前。
鏡都、御所。
方角は辰巳、薔薇の壺。
金糸雀色の月が水面で揺れている。
篝火も焚かずに局の堀池で男が一人、釣り竿を垂らしていた。
「釣れたかよ、ミカド」
「そう急かすな」
ミカドの背中を酒の肴に、ひたすら瓶子を空けているのはカヲルだ。
湯上がりの髪を女の膝へ預け、縁で涼んでいる。女は白い芙蓉が咲く唐衣裳を身にまとう、赤毛が派手な美女だ。
酒の肴にしても背中ばかりで美しいミカドの顔立ちが見えず、面白味のない景観に飽きた女はカヲルへ語りかけた。
「新しく入内された姫君は、なんでも桜の壺を与えられたとか」
「よく知っているな。人の寄り付かぬ枯れた局だ」
「それが入内されてから毎日、ものの怪が現れるらしいのです。膳を運びにいった女房が化け猫に肩を叩かれたり、夜には塀から鬼火が昇ったり。桜の壺の女御が可哀想ですわ、浄めが必要かと」
さも気の毒そうに語るが、女の顔は愉し気だ。
「おい、ミカド。噂がまことなら早い方がいい。今から出向くか」
「あの邸に怪はない。暇を弄び女御が放った狂言であろ」
膝枕の女は高笑いするが、カヲルとしては面白くなかった。
桜の壺は鬼門に位置する忌々しい局として後宮では名が知れているが、実の存在理由は知られていない。桜の壺はミカドが偲びでつかう御寝所と唯一渡殿で繋がる寵妃の局である。これが表沙汰されれば後宮は大嵐。桜の壺の女御は白百合殿の中宮の二の舞だ。たちまち後宮女人から酷い虐めに遭うだろう。
糞尿を撒き散らす程度の騒ぎでは収まらない。我が娘を寵妃にと企む仕官が膳に毒をもることもある。
ものの怪よりずっと恐ろしい人の怨。
しかし、いまだ桜の壺の実状は知られておらず、後宮はこの通り穏やかだ。
では何が面白くないのかというと、ミカドのこの態度である。
ミカド自身が妻となる女を態々異国から喚び、寵妃の局へ入内させたのだ、さてどんな寵愛ぶりかと思いきや──この男、喚んだ後は放ったらかし。
確かにあの古ぼけた邸に相応な影の薄い女だったが、せめて三夜くらいは通ってもよさそうなものを。
顔色を変えない涼やかなこの男から女を奪い、一泡ふかせてやろうと企んでいたのに、これでは全く張り合いがない。
ああ、面白くないとカヲルはまた溜め息をつき酒を煽った。
二人は腹違いの兄弟である。
「それで、何をお釣りになっているの?」
「鯉だよ」
「鯉、ですか」
つまらなそうに扇の奥で欠伸をこぼす女の後ろ手には、掛軸が掛けられている。桜の枝下で花吹雪に降られている、女の墨の絵だ。しおらしくも愛らしい少女で、膝枕の女とは似つかない。
誰しもが縁の外を眺め、少女に背を向けていた。
少女の黒目がギョロリ、と下向いたが、誰しもが知らないことである。
「来たか」
ミカドは唇にソッと人差し指をのせ、呪を唱えた。
次には釣糸がビン、と張られ、獲物が掛かったように見えたが──、水面に揺らぐ朱玉は二つ、ミカドの姿を捉えると餌を離し、また水底へ沈んでいった。
「釣れたかよ」
「すまん、逃がした」
カヲルはガバリと起き上がり、背後の掛軸に目をやった。
桜の枝下は、藻抜けの殻だ。
「この絵を仕上げるのに何日費やしたと思っているんだ」
「だから謝った」
釣り竿を引き上げると、針に女の黒髪がごっそりと絡まってる。身は啖われてしまったようだ。
髪もやがて黒い波紋を拡げながら、水に溶け消えていった。
異形に啖われたのは、カヲルが描いた墨の絵の女。
「繊細な形よ。私の気に勘づいたな」
「どうするよ。網でも張るか」
「そう急かすな。魚は釣れないものぞ」
「釣れなきゃ、今日も御所は肝だめしだ」
異形は異形を呼ぶ。
花見盛りの御所は毎夜、鬼火や妖鬼が飛び交い、活気も人気もない。
獲物が御所の水路に放たれ、三月が経とうとしていた。
「呪怨とは、いとおそろしや」
そう呟くと、カヲルは気だるそうに空になった瓶子を振り、女の腰を抱いて内へ消えていった。
その襟元に竿先の焦点を合わせながら、ミカドはニヤリと薄笑う。
「大物釣りには、格別な餌が必要か」
いつの間にやら、月が白く色を失せている。
ミカドもまた気だるそうに竿を肩に担ぎ、夜の御所を丑寅へと去るのであった。