三折
シオンの話していた通り霞が晴れたその夜、深闇にぽっかりと円い月が浮かび、星々が瞬いた。
なかなか寝付けなかった織は月明かりを頼りに、ソロソロと回廊まで足を運ぶ。
思っていた通り、簾越しにみる散り始めの桜は白光し、はらはらと舞う雪のようだ。
──にゃあ。
刹那な情景に見入っていると、背後から猫の鳴き声が聴こえた。
黒猫。それもまだ産まれて間もないような産毛の仔猫だ。織の顔は緩んだが、緩んだまま顔を固めた。
簾の奥へ消えた黒猫。
──その簾が、ひとりでに上がっていく。
沙。
──人が手繰るように、天井まで。
沙。
沙。沙、沙、沙、沙、沙。
──弦を弾くような音がそこら中で奏でられる。
先程まで床に垂れ下がっていた総ての簾が一分もかからず上がりきった。
月明かりが入り込み、部屋の全容が明らかとなる。
不思議なことに恐怖はない。
宙に浮く小さな埃がキラキラと舞い、神秘的ですらある。
織は心に誓った。
明日朝一番に掃除しよう。
消えた仔猫が気にかかり、何を思ったか織はこの妖しげな部屋を徘徊し始めた。小さい頃はよくこうして妖怪マニアの従妹と二人、古い邸を探索したものだ。
回廊の突き当たりまで歩くと、左手に同じような回廊が続いている。足を出せばまた、簾が沙、とひとりでに上がっていく。面白くなった織は突き当たりまで走り抜け、また左手に走った。
どうやらこの局、正方形に近い造りをしている。また左手に曲がれば、御帳台のある部屋へ行き着いた。
そこで織は首を傾げた。
他の殿に繋がる廊下、渡殿がない。
庭は桜だけでなく木々が立ち並び、塀が見えぬほど草木が生い茂る密林である。
御所の敷地内というよりは、森の奥にある山小屋だ。
二度回廊を歩き、庭を用心深く見てまわるが、不思議なことにどの方角から見ても同じ庭。同じ桜が同じ方向へ垂れ、同じ位置に月がでている。もちろん道はない。
この時初めて、幻術によりこの局に閉じ込められていることに、織は気が付いた。
もうすっかり仔猫のことなど忘れてしまい、シュンと御帳台のある部屋へと戻る。
畳み場に足を踏み入れた、その時だった。
帖。
帖、帖、帖、帖、帖──。
一段低い音で簾が下りていく。
下りていく、というよりは落ちる速度だ。
後ろ髪を僅かに掠めていた織は、一歩遅れていたらと思うとゾッとした。
「驚かないのですか」
沙。
御帳台に近い簾がひとつ、半ば上がった。
その下でぼうっ、と朱色の扇が浮いている。
目をこらせば白い単衣一枚の男が肘をつき、寝転んでいた。
「たいへん驚いてます」
「なら、申し訳ない。五月蝿い虫が近付かぬ様、結界を張る必要があったのですよ」
扇の奥で凛々と呟く。
いつのまに用意したのか、その手元には瓶子と盃二つ、酒のつまみまで置かれている。
「お酒は、飲めますか」
「あまり……好きではありません」
「無理にはすすめません」
男は扇を閉じ、空いた盃へ酒を酌んだ。
垂れた黒髪を耳にかけ、露になったその顔を織は知っている。
昨夜、名乗りすぐに退座した二人のうちの一人。織は名前を覚えるのが得意だ。混乱した情況だったにもかかわらず、しっかりその名を覚えている。
月明かりにさらされたミカドの顔は白く、唇は女のように艶やかだった。
「どうぞ、こちらへ」
織は促されるままにミカドの頭のある方へちょこん、と正座した。
「なに、そう硬くならず。この真夜中に顔を隠すことはありません、扇をしまわれよ」
「せん……?」
「その二枚のガラス板のことです」
眼鏡のことを言っている。
織は素直にはずすか迷ったが、桜が見れないのは哀しい。
はずす代わりに眼鏡の用途を語った。
「なんと、目が病んでいると」
「病んでいるというよりは、両親の遺伝ですが」
「どれ」
ミカドは徐に姿勢を正すと織の顎下に指を添え、自分へ寄せた。
織は男に慣れていない。
触れられただけで怖くなり、ギュッと目を瞑る。
「姫、名を綴っていただけますか」
ミカドの声は柔らかい。
瞼を開けると織の右手には筆が、膝元には白い折り紙が置かれていた。筆先から墨が滴りそうになり、慌てて筆を走らせる。
「しらぬい、いおり……とな」
織はハッと目を見張った。
苗字はまだしも、名前の読み仮名を言い当てられたことは一度もない。
「目が見えぬのは、氏神の呪であろうよ。悪い神ではない」
「うじがみ……さま?」
不知火家本家は保育園と実家の丘ひとつ分高台にある神社だ。仲の良い従妹はこの神社の跡取り娘で、織と同じびん底眼鏡をかけている。思い浮かべれば彼女だけでなく家族親戚、眼鏡一族だ。
「そなたは既に入内した身。氏を捨てれば治ろう。なに、気になさらず」
とっても気にするが、声にならない。
ミカドは織の返事を待たず、折り紙の「不知火」を破り手のひらに収めた。畳みに残されているのは「織」だけだ。
ミカドは袖に手を引くと、内でもぞもぞと動かした。印を結んでいるのである。
唇は呪を結んでいる。
聴こえるか聴こえないかの小さな声で。
織は視界が眩んでいくのを感じた。
「どれ、眼鏡をとってみなさい」
「はい──」
織は眼鏡を外した。
ミカドはもう寝転び、酒を手酌している。
桜を眺めるその横顔からは、つまみのイワシが飛び出していた。
織はその小さなイワシの、尻尾の先までよく見えた。
「どうですか、眼鏡のない世界の色は」
「美しいです──、とても」
ミカドは織の震えた声に反応し彼女を見上げると、微かにニヤリ、笑みを溢した。
「とっても……綺麗」
小学生低学年の頃から眼鏡っ子だった織にとって、裸眼の世界はいつもあやふやで、朧気だった。
今は桜の花弁一枚、一枚──小さな小さな星の瞬きまでが総て澄んで、色濃く見える。
織はその世界の美しさに、涙を流した。
「眼鏡の代わりにこの扇を差し上げましょう。日中はできるだけ顔を隠しなさい。特に男の前では」
「? はい──、わぁあっ」
ミカドの紅い扇は翻すと桜色に色が変わった。それも持ち手の房が金色の女物である。
「可愛い……」
「後は髪か。着物もそうだな」
「あ、あの……なんとお礼を申し上げたらいいか──」
「姫の氏を奪ったのです、礼はいりませんが盃は空けていってください。口をつけていないではないですか」
「は、はい。──んっ! ぉ、美味しい!」
「ふむ、いける口ですね。さあさあ、もう一杯」
「いただきます」
日本酒に見えたそれは、甘酸っぱい果実酒であった。後味がすっきりと、喉越しも良くいくらでも飲める。
ミカドと酌み交わす酒は、ことのほか甘かった。
織は男が苦手だ。
苦手というよりは、通う学校は総て女子校だった為、まるで接点がない。織が知る男は父と幼馴染みだけだ。
隣に寝転ぶ男は父とも幼馴染みとも違う。
高貴な居住まいに反し威圧的な態度がまるでなく、優しく温かい、穏やかな人。
織は気負うことなく、ミカドに語りかけることができた。
「ミカド様は、陰陽師であらせられるのですか」
「えぇ。運命とでも申しましょうか、呪に好かれましてね」
「呪に、好かれる」
「そうです、誰妖しに怨まれては最後。用心に姫には名を偽っていただきましょう」
ミカドは再び筆をとると、迷いなくその名を書き上げた。
「折、姫……おりひめ?」
「気に入りませんか」
「い、いえ、滅相もございません。私には勿体ないといいますか、畏れ多いといいますか」
「似合っていますよ、名も扇も」
扇に隠れた折姫の唇に酒の満ちた盃があたる。
扇を下ろせばミカドがまた微かにニヤリ、笑みを溢していた。
「織の名は、私の胸の内だけに」
そう言うと、ミカドは板場に置かれた「織」の紙を懐にしまわれた。
この時、織は名と共に心が奪われていくのを感じた。
この日を以て織は折姫へ、名と扇を変えたのだった。