十九折
翌日の宵。
役を終えた折姫は猫に化け、白百合に繋がる渡殿を渡っていた。先日の見舞いのお礼にと、夕膳の席に招かれたのだ。シオンの手にはキリヤが折った千羽鶴が提げられている。
出居手前の回廊に行き着けば、賄賂を請求するんじゃありませんと、中宮が狛犬の童子を叱咤していた。
「まったく、この穀潰しが──あっ、シオン、こんばんは!」
「これはこれは中宮様、本日はお招きいただきありがとうございます。こちらは姫様から」
「わぁあっ、嬉しい! 千羽鶴だぁ」
なんだぁ、今日は紙かと舌打ちする狛犬の狭間を潜り、折姫は姿を人へと戻す。
出居に広げられた膳は桃だけでなく葡萄や林檎など、多様な果物が並べられていた。
狛犬と同じく甘いものに目がない折姫の為に、態々中宮自身が集められたのだろう。
だが折姫は中宮の後ろ手で揺れる几帳が気になり、心が向かない。
その夜は台風が迫り雨風が激しく、部屋の中まで騒がしかった。
「具合でも悪い? あまりお箸が進んでないみたい」
「ごめんなさい。実は昨日、薔薇の壺で桃をよばれて、調子に乗って食べ過ぎちゃったの」
「あらあらー? 薔薇の壺って……まさか薫の君? まさか泊まったの」
「泊まったけど、薔薇の壺の女御と酔いつぶれて雑魚寝だったよ」
「そう──、女御と……どんな方だった?」
「二十後半くらいの金髪巨乳美女だった!」
「金髪巨乳美女ですって!」
キィッ、と几帳を睨み付ける。
やはり其処には人がいるようだ。
「エロいだけじゃなくて猛々しくてね、愉しい人なんだよ」
「……そうなんだ。でもよかった、薫の君とネンゴロになったのかと思っちゃった」
「ネンゴロて。それはない(きっぱり)」
今日は胸に蔓延る靄を断ち切ろうと決めて此処まできたのだ。
視線を落とし、几帳の裾に語りかけるように、中宮へ切り出した。
「近頃アスナ様とコトハ様がご機嫌なの。毎日父上が遊んでくれるって」
「そうなの! 今までは芙蓉殿の鯉に目をつけられないようにと離れていたのですって。今は傍にいた方が安全だからって、執務を終えると直ぐに白百合殿へ下がられるの」
「では、今も────……お近くに?」
「お近くもお近く! ねぇ──、あなた」
ゆらり、風に煽られ几帳が揺れる。
男の姿は見えない。
だが裾からは白い狩衣と紅い扇が微々と覗いた。
あぁ、やはり。と、心静かに瞼を伏せる。
「主上がいらっしゃるとは知らず、無礼な振る舞いを──失礼致しました」
「や、やめてよ折姫……っ、ミカドにはちゃんと言ってあったから大丈夫よ」
「いえ、これ以上お二人の邪魔はできませんので」
ひれ伏したまま顔をあげることなく、折姫はその場を退いた。
猫に化けるのを忘れ、一心不乱に。
桜の香。白い狩衣に紅い扇。
中宮は「ミカド」と呼んだ。
「姫様……!」
芙蓉殿へ渡る回廊でシオンに呼び止められ、漸く折姫は足を留めた。
「ねぇ、シオン。笑っちゃうよね」
折姫は「またか」と自身を嘲笑した。
氏を捨て名を変えようと、折姫は押し付けられた伴侶に愛されない宿命なのだ。
今回は自ら進んで、愛したというのに。
──取り返しがつかないほど、深く。
「姫様、人目につきますので」
「──はい」
雨に濡れ重たい袖の中で小さく印を結び、呪を唱える。
その頬には涙がそぼふっていたが豪雨に混じり、その悲しみは誰にも知られぬうちに堀へと流れた。
*
「はぁっ、ごほ……っ」
「やはり無理したようだね、帳台へ上がられよ」
折姫が退座して間もなく、中宮の体調が悪化した。食した果物を総て吐き出しながら、胸の内で噎び泣く。
背中を擦る手の温もりが心底恨めしいと、中宮は心の中で呪詛を並べていた。
折姫のあの動揺ぶり──、やはりミカドは自らの素性を証さず桜の壺へ通っていたのだ。
シラを切り、何食わぬ顔で二人の会話を聞いておられた。まるで二人が親しくするのを望んでいたように。
妻ばかりかあんなにも無垢な人を欺くなど、鬼畜の所業。
彼女の悲愴に満ちたあの顔──今頃、きっと泣き伏せっておられる。
五年かけ、やっとできた友達を傷付けてしまった。
最早愛す価値などない男だというのに、憎みきれず、見限ることもできない。
この男に依存する自分が最も憎たらしいと、中宮は呪詛を心へ閉ざす。
心の内に蔓延る怨が、人を啖らう悪鬼になることを知らずに。




