十折
翌朝。
白い手が不気味に敷妙を這い、帳台で眠る折姫の肩を叩いた。
「ぴぎゃぁあああっ!」
「わたくしですー、姫様ー」
余程疲れていたのだろう、その日折姫は初めてシオンに起こされた。几帳の隙間からぬらりと手を差し入れてくるという、その起こし方には問題があったが。
「悪趣味! 変態!」
「お褒めいただきありがとうございます。それより姫様、一大事でございますよ」
パタパタと喋る手には文が握られている。
「本日、白百合殿の中宮が桜の壺に参られます」
昨夜書いた文は早朝、シオンの手により届けられていた。届け先で中宮が返し文を綴りながらシオンへそう告げたという。
美しい筆が目に眩しいその文には、簪を届けたいのでお時間をくださいと、簡潔にしたためられていた。
態々お出でいただくのだから、失礼があってはならない。
朝膳を済ませ、茶膳の準備を整えると折姫はいつもの《お掃除スタイル》へと装備を変え、使い猫と足並みを揃えた。
帳台の裏手にある出居は使用頻度ゼロの為、(シオンの)掃除が行き届いていないのだ。あの舎人、普段うんざりするほど暇であろうにまるで役をこなしていない。
畳まで吹き込んでいる桜の花弁を庭へと掻き出しながら、そういえばその姿がないことに気付いた。
中宮を迎えに出たのだろうかと回廊で惚けていると、掃除が途中だというのに拌、と一斉に猫共が消えた。
次には帖、と簾が落ち、また次には沙、と簾が上がる。
「きゃぁああ!?」
折姫を踏み台に、コロコロと中から女が転げ落ちてきた。
「ぎゃあっ」
「ぃたたたたたっ、尻餅ついちゃったぁ」
「い、息ができな」
「わぁああっ、紫陽花殿の桜よりずっときれい!」
女は下敷きとなった折姫を跨ぎ、桜の垂れる縁へと走る。
折姫は暫くぽかん、とうつ伏せたまま考えた。
無邪気にぴょんぴょん跳ねるが、その着衣は二単の唐衣裳。銀糸で縫われているのは白百合模様である。
「そ、そそそそそそそそそしょちゃ(粗茶)ですがっ」
「へぇえええ!?」
薬草の花が浮かぶ水差しと湯呑みを滑らせ、折姫は縁へと躍り出た。
驚いた女はすてん、とまた転ぶ。よく転ぶ人だ。
折姫もまた下敷きになった。
何をしているのか、この二人。
「ご無事ですかー」
「いや、貴女がご無事ですか」
二度も下敷きにして気の毒に思い、女は折姫の手をとった。
日本人形のような黒髪を腰まで伸ばし、厚い前髪の下には凛とした鈴の眼。
目の前の女は絵にかいたような儚げヒロイン美少女風情だ。
目の保養に涎を垂らす折姫へ、女は優しく語りかけた。
「わたくし白百合殿から参りました、中宮のシオリと申します。桜の壺の女御はどちらに?」
「わたくしですが」
「へぇえええ!?」
驚くのは無理もない。
たすき掛けは覚えたものの、衣の裾を帯に挟み、ほっかむりを被った女御がこの世のどこにいるのか。
ここにいるが。
今更遅いが扇を開き口許に添えると、中宮はぷっと吹き出し、ケラケラと笑った。
「文の通り、なんだか憎めない人ね。簪を返すついでに宣戦布告してやるっ、なんて意気込んで来たのに拍子抜けだわ」
「少々お待ちをーっ」
宣戦布告と聞き、また折姫は水屋に走る。白旗の代わりに菓子の盆を掲げての参上だ。
「なにこれ」
「果物ではありませんよ、正真正銘の菓子でございます」
「菓子? あげパンみたいだけど……──うっ、うま」
「うま?」
「甘い……! あげたて、さくさく、凄く美味しいー! どうしたのこれ!」
小麦粉で練った生地を胡麻油で揚げたものだ。揚げたてに昨日ミカドからいただいた甘葛を上がけしている。
中宮は捧げられた菓子を扇の中で秒殺で平らげた。シレッとしているが唇はグロスを塗ったように艶めいている。
うっとりと余韻に浸る中宮を前に、今だ! と懐紙に包んだそれを中宮の手前へ差し出した。可愛らしい朝顔の簪だ。
「泥棒のような真似をしてしまい、本当に申し訳ございません。アスナ様には可哀想なことをしました」
最初は折姫の簪を羨みとったのだと思っていたが、アスナはこの簪をとてもよく気に入っていた。きっと今頃、姫君は深く落ち込んでいることだろう。
すっかり腰が落ち着いた中宮は折姫を責めるどころか、板場に手をついた。
「ち、中宮さま?」
「もとはと言えば、私がアスナに桜の壺の簪を見てきなさい、なんて言ったからよ。ごめんなさいね」
そういって差し出された桜の簪。
折姫が手に取ったのを見届けると中宮は桜に目を移し、悲し気にその意味を語った。
藍昌石が嵌め込まれた花簪。
たとえるならダイヤモンドが嵌め込まれたプラチナリング。
主上が正妻と決めた人へ贈る結婚指輪のようなものだという。鏡都では藍昌石は守護を意味し、「一生貴女をお守りします」という言葉が籠められているらしい。
中宮の右耳には可愛らしい百合の花に、藍昌石が朝露のように上品にあしらわれている。
だがその簪をつける者にしては、寵妃とは程遠く悲愴に満ちた顔だ。
折姫は手のひらに乗る桜の簪を前に、固く決意した。
「私、もう二度とこの簪つけません」
「でも、それでは主上が──」
「まだ一度もお会いしたことはありませんし、今後桜の壺に下られてもお断り致します」
アスナとコトハは両親を深く慕っている。中宮はもとより、主上は家族を大切にされている方なのだ。
占だろうと、御所の為だろうと関わるべきではない。
「本当に、お会いしたことないの?」
「はい、全く! 見てくださいっ、この日記を……っ」
じゃっ、と自信満々に広げた暦の巻物は見事に何も書かれていない。「蝶々がきた」「シオンのおでこにてんとう虫がとまった」など、虫の往来程度である。
折姫はせっせとお茶を注ぎながら、普段どれだけ侘しい生活を強いたげられているかも語った。暇すぎて語るも五分かからなかったが。
「でも、それでは貴女が喚ばれた意味が」
「お気になさらずっ、こう見えて少しは楽しんでおりますのでっ」
黒猫に愚痴ったり。シオンに八つ当たりしたり。妄想したり。黒猫に愚痴ったり。シオンに八つ当たりしたり。妄想したり。黒猫に愚痴ったり。シオンに八つ当たりしたり。妄想したり。妄想したり。ミカドとあんなことする妄想したり、こんなことする妄想したり。妄想したり。
中宮は茶を啜りながら、悶える折姫を黙視していた。
顔は扇で隠しても耳は端まで紅い。
「好きな人がいるのね? 御所に仕える方? それとも日本に恋人がいた?」
「え、あ、うあ、えー」
「薫の君はやめといた方がいいわよ、チャラいから」
「それはない(きっぱり)」
「えー、じゃあ誰、誰!」
万が一、御所に知れたらミカドの立場が危うくなるかもしれない。そう思い、折姫は口をつぐんだ。
また中宮もその意味を理解し、深くは問い詰めなかった。
むず痒い空気が流れる僅かな間で、折姫にはふと疑問が過る。
「日本……、チャラい……? 中宮は日本をご存知なのですか」
「知るもなにも、私も五年前に喚ばれたのよ」
中宮は齢十六歳の春に鏡都へ喚ばれ、右も左もわからぬまま白百合殿へ入内し、主上に見初められたという。
「ということは……今年二十一歳? 私達同い年ですよっ」
「同い年!? 見えなーいっ、折姫若いね!」
「中宮も若作りですよ」
「なんですとー!」
その後、折姫と中宮は一刻ほど語り合った。どことなく似た二人は、話せば話すほど気があった。
出身も近く、地元話に華を咲かせては、鏡都にはない料理や甘味の話で盛り上る。
そして語り合えば語り合うほど中宮は主上を好いていて、彼を愛しているのだと、じんわり折姫に伝わった。
「シオリちゃんがいるのに、何故主上は私を喚んだのかなぁ」
「二人も産んだのに、男君ができなくて……だからだと思う」
「たった二人で諦めたの? 三人目は、三人目」
「あのお転婆娘二人で手一杯なのに?」
「私がお守りする! これでも保育士だったんだからっ」
「そうなんだぁ」
なんとも和やかな空気が流れていた昼膳の頃、一枚の紙吹雪がふいに庭へ降ってきた。
拌。
二本足の使い猫である。
「みつかっちゃったみたい。私、そろそろいくね」
「また、こうして会える?」
「もちろん! 約束しよ」
中宮は懐紙袋から折り紙を取り出すと、「栞」と一文字書き綴った。
名を交わし、懐に納める。
鏡都での縁結びだ。
シオリに倣い折姫も筆を取るが少し迷い、やはりミカドとの約束を守りこちらにしようと決めた。
シオリには「折」が、イオリには「栞」が。
「またね、シオリちゃん」
「バイバイ、折姫」
名を交わし次には、猫に拐われ消えていた。




