九折
時同じく、中宮の御帳台。
使いにやった姫君達が陽が陰っても戻らず、鬼に拐かされてはいないだろうかと不安になり、女房に探させていた。
慌て戻った女房は言葉を詰まらせている。
「あの娘達に何かあったの?」
「それが、桜の壺の女御が──」
その名を聞くなり中宮は女房の指差す方向へ飛び出した。我が子が女御に漬け込まれるのは、鬼に拐かされるより屈辱的である。
「アスナ、コトハ……!」
「母上?」
辺りに屯する女房を扇で払い退け、几帳を翻す。帳台は足の踏み場がないほど子供達で敷き詰められていた。
中宮をみつけた姫君二人は、ぴょんぴょん隙間を縫いこちらへ向かってくる。
「母上もやりましょう? すっごく楽しいの!」
「……帰ります」
「母上……?」
「帰ります!」
ビクリ、とアスナの肩が跳ねた。その右耳には桜に宝石があしらわれた花簪が飾られている。
ミカドの寵愛を受ける者だけに贈られる石──深い藍碧色の藍昌石。
中宮の視線に気付いたアスナはハッと思い出し、簪を取った。
「渡しなさい」
「だ、ダメなの。お返しするって、姫様と約束したもの──」
「渡しなさい……!」
両手に簪を握り締めたまま中宮へ背を向けたアスナは、奥の座へと目を向ける。そこには一際鮮やかな桜の唐衣裳を着こなす黒髪の女が座っていた。
噂では二十を過ぎた貴婦人だと聞いていたのに、その女の横顔はまるで少女のようにあどけない。
何も知らないような下界の小娘に主上は、あの簪を下賜したというのか。
「母上──」
「貴女達は白百合殿へ下がりなさい」
いくら一時寵愛を受けようが、若く美しい女が現れば主上の心は移ろう。
永遠の愛など誓わなければ良かったと、中宮は先妻達の懊悩を身をもって知ることとなった。
*
「まずいぞ、姫君を囲いすぎた。白百合殿の中宮に睨まれるやもしれん」
「そうかしら」
一瞬だが垣間見た白百合殿の中宮は絹のように線の細い、美しい方だった。母を慕うアスナやコトハを見る限り、嫌味を言うような人とは思えない。
だが宵も目前、子供達は部屋へ下がる時間だ。挨拶もできなかったのでせめて後程、謝罪文でも送ろうと心に決めた。
「主上に拝謁できませんでしたね」
「うん。よかったぁ、音が鳴るほどガスたまってなかったから」
「いやぁ、お会いできなくてよかったです」
桜の壺は側室の側室。
恥をかかぬ程度に衣裳は調えてくれたが、端から興味はないのだろう。帰ってまた細々と暮らせば、きっと存在を忘れてくれる。
陰陽師様には忘れられたくないから、さてどうしたものかとまた妄想にふけた。あれからミカドとは一度も会えぬまま。
帰りの牛車はシオンと二人、ゆらゆらと揺られ帰路に着いた。
月の無い邸は灯篭に火が灯り、すっかり夜の帳が下りている。牛車を降り、後ろを振り向けばもう其処にシオンはいない。
──夜動く足がない。
言葉通りに消えてしまい、酷く寂しくなった。
疲れが手伝っているのだろう。
何時も日暮れには簾を潜り黒猫がやってくるのだが、今日に限って来ていない。
黒猫が現れたのは、肌についた砂埃を湯で流し、中宮宛の文を書き終え御帳台へ上がる漸くの頃だ。
「待ってたよ、クロ。寂しかったの」
掛け衣を上げ黒猫を招き入れると、微かに桜の香が薫る。この香りに包まれながら目を瞑ると、ミカドが傍にいるようだ。
一日で一番、安らかで幸せな一時。
疲れに身を任せこのまま眠ってもよかったのだが、今日は暦に書ききれないほど色んな事があった為、それについて語った。
この御帳台が牛車に変わったこと。宴の席でカヲルに助けられたこと。沢山の子供達と遊んだこと。
物心ついた頃から園児と交わっていた折姫は、子供のいない環境は寂しいというよりも、違和感を感じる。この局へ来てどこか落ち着かないなと思っていたが、今日初めてその理由がわかった気がした。
女御は乳母にはなれないのだろうか。中には主上の雑務をこなす女御もいるという。ぼんやり朽ち果てるよりは働いて飯代くらい稼ぎたいものだ。
明日からまたシオンと二人、時をもて余すのかと思うと溜め息を溢したくなる。
「また……、ミカド様にも暫く会えないのかなぁ」
頬に触れた手の感触を思い出し、一人悶えるがこの会話(?)、クロからミカドへ筒抜けかもしれない。想いは胸に留めようとそのまま口をつぐみ、疲れた身体を睡魔へ預けていった。
──にゃお。
折姫の寝入り端、小さく鳴いた黒猫はその唇へそっと、口付けたのだった。




