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Vol.5

梓はこれまで大きな仕事が一段落したとき、まとまった休みを取って旅に出ることを自分への褒美としてきた。中でも今回の聖也の出版は、梓にとっても真剣勝負の作業で徹夜したこともあり、かなり疲労が溜まっていた。


いつもは国内旅行で、ひなびた温泉に到る津々浦々網羅してきたが、今回は久々に海外へ出てみることを思い立ち、美術館巡りを目的とした旅と決めて資料を集めていた。旅の後半のスケジュールは、デザインの構想を描ける時間がたっぷり持てるシアトルの静かな湖畔のホテルを選んだ。


梓には、旅とは別にもう一つの夢があった。これは夢だけに終わらせず実現に向けてこつこつと構築された梓の未来絵図だ。

会社を停年前に辞職し、外国に永住するという現実的な夢。外国では、場所によっては土地の価格が国内の何分の一かの価格で国内と同じ面積の土地が購入できる。広い敷地の中に洒落た家を建て、犬を思いっきり走り回らせることのできる芝生の庭。そこには自分以外のひとりの人物が、ペンを片手に日向ぼっこをしながらベンチに座っている姿が梓の心の中で描かれているのだった。

別れた夫からもらった慰謝料と、これまでこつこつ貯めた金を合わせれば、今すぐにでも家の一軒くらいは建てるだけの余裕は充分にあった。




街路の矢板モミジに黄緑色の新芽がちらほら見え始めた五月の初め、梓が聖也の家に来た。

「どう? 仕事の調子はうまく進んでる?」

「いま長編に取りかかってるんだ。前篇を書き終えたところ」

「そう。またわたしのデザインの出番があるのかな?」

「もちろんだよ。梓ちゃんがアメリカで描いたものの中で気に入ってるのがあるんだ」

「あら、お役に立ててうれしいわ」

 聖也は久しぶりに会う梓の顔をまじまじと見た。

「少しほっそりしたんじゃない?」

「そうかしら。最近は小顔ってのが美人の条件なのよ」そう言って梓は笑ったが、聖也には梓がどことなくやつれているような気がした。

「そうなんだ。今夜は久しぶりだからご馳走するか」聖也はテーブルに置いたままの子機を取ってボタンをプツプツ押した。



しばらくしてインターフォンが鳴り、聖也はズボンのポケットから財布を取り出しながらドアへと急いだ。何やらぼそぼそと話しているのは支払いをしているらしかった。聖也が大盛りの握りの重箱を二つ抱えて戻ってきた。

「超豪華だよ、今日のおごりは!」

「うわぁ。おいしそ……澄まし汁でも作ろうかな?」

「いいよ、インスタントの味噌汁があるから。

あそこ!」と、聖也は食器棚を指差した。

梓がやかんで湯を沸かし白いカップに湯を入れて即席味噌汁を作って持ってきた。取り付けの食器棚を開けたのは初めてだったので、梓は思わず中を見回した。

「食器が二個ずつ揃えてあるのね。結婚の準備かしら?」

聖也は梓の問いに応えることなく話を逸らした。




聖也には家族がいるものの、もう五年ほど前から親や兄妹とも連絡をとることもなく話をするといえば出版社に原稿を送り、担当者と打ち合わせをする程度のこと。その相手が梓なのだから、実際に会って話すのは梓だけだ。

 聖也は何か飛び切りうれしいことがあれば、まず梓に伝えていた。

自分にとって梓の存在は何なのだろう? 親でもなく妻でも恋人でもなく、いつも自分の傍にいてお互い支え合えるパートナー。自分が思っていることと同じことを思っていると信じ合える唯一の存在だった。

 お互い上も下もなく、ましてや愛欲の関係もない大人同士のつながり。何年経っても変わらないお互いの思いは、まるで魂がしっかり繋がれた分身のような感じさえしていた。




 桜が満開になる頃には気管支に不調が出る梓のことを聖也は今年も案じていた。私事で出版社に電話して梓と話をすることは、これまでになかった。聖也は梓のほうから連絡がくるのを待っていた。

 桜が散って街路樹は日増しに緑が濃くなってきた。木の間から漏れる光が時を刻むように毀れるのを感じながら、聖也はうつむき加減で歩いていた。

 これまで月に何度かは電話があるはずの梓からの声が聞こえなくなって久しい。かといって、聖也には梓の自宅に押しかける勇気はなかった。



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