3 初めて堕天使に会いました。・・・黒ずくめだな。
次の日、いつも通り憂鬱な足取りで学校に向かうと、校門を過ぎたあたりで男子生徒が数人たむろしているのが見えた。嫌な予感がして足早に通り過ぎようとしたが、やはりと言おうか、彼らの視線は優雄に集中した。
「おい、近藤!」
「お前いい気になってんじゃねえぞ!」
「少しは身の程ってもんを教えて―――」
「優雄様!」
男子生徒の苛立った声を押し退けて割り込んできたのは薫だ。彼らは思わず、といった感で口を閉ざす。
「優雄様! 早く行きましょう!」
そう言ってグイグイ腕を引っ張っていく薫。男子達が声をかける暇もなく、彼女はズンズンとその前を通り過ぎてしまった。
「あ、あの・・・」
「お弁当作ってきましたので、今日も一緒に食べましょう!」
「あ、うん」
勢いに押されて頷くと、彼女の顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。どうやって謝ろうかとずっと悩んでいたが、それだけでホッとしている自分がいた。
「・・・?」
その時、ふと誰かの視線を感じたような気がした。それはいまだ唖然としている男子達のものではない。
キョロキョロと辺りを見回していると、
「どうしました?」
薫に声をかけられ、ハッと我に返った優雄は首を振った。今は何も感じない。
「何でもない」
きっと気のせいだろう。そう思って薫の後をついていった。
「見つけたぞ・・・」
そう呟いたのは全身黒ずくめの男。髪も眼も黒く、その背には黒い翼が生えていた。
「待っていろ・・・ユリウス」
はるか上空に浮かんでいた男は、口の端を吊り上げるとスウッと溶け込むように姿を消した。
「あの・・・ありがとう」
体育が始まる前の休み時間。
みんなに押しつけられた体育委員の仕事で、準備のために体育館倉庫にやってきていた優雄は、手伝うと言ってついてきてくれた薫に頭を下げた。
「いえ、これくらい何でもないですから」
そう言ってボールが入った籠を持ち上げている薫に、優雄は首を横に振る。
「それだけじゃなくて、朝の事も・・・」
「ああ・・・」
薫はニッコリ笑って優雄の前までやってくる。授業で使う用具ばかりが置かれた寂しい倉庫が、彼女の笑みで華やいだ気がした。
「気にしなくていいですよ。あんな陳腐な脅し文句、子供だって怖がりません」
「・・・情けないよな。こんな暗くて気弱で、女の子に守ってもらわなきゃいけない男なんて・・・」
笑いかけてくる彼女をまともに見られなくて、俯き気味に一人ごちる。
こんな情けない男、放っておいてくれればいい。
そう思ったが、薫はふんわり笑って優雄の頬に手を当ててきた。
「優雄様は優しいんです」
「え・・・?」
「優しいから皆さんに何もしないんです。私は、優雄様のそういうところが好きですよ」
「・・・・・・」
違う。俺は弱い。
心の中で、反論してしまう。
彼女が慕ってくれれば慕ってくれるほど、心の中に重しが積み重なっていく。自分はユリウスなんかじゃない。そう叫ぼうとして―――
「ユリウス」
突如聞こえた低い声に、二人はハッと出入り口を見た。そこには全身黒ずくめの男が立っていた。背中には黒い翼が生えている。
「堕天使・・・!」
薫の言葉に、優雄は男をジッと凝視した。
(これが堕天使・・・)
髪が黒ければ眼も黒い。それは日本人と同じなのだが、黒というより、闇と言った方が相応しいかもしれない。
薫が本当の姿を見せた時は気絶するほど驚いたものだが、話を聞いていたせいか彼の人間とは違う姿を見て、どこか納得してしまった。それは彼が発する威圧感のせいかもしれない。
「あなたがここにいるという事は、あの噂は本当だったのね・・・!」
「あの噂・・・?」
優雄が首を傾げると、庇うように立っている薫が小さく頷いた。
「アイヴズの封印が解けたという噂です。本当かどうかは分からなかったのですが―――」
「その通りだ」
薫の声を遮って、男が一歩近付いた。それだけで圧倒されるような力が増したような気がした。
「人間どもはそれを恐れてお前をこの世界へ向かわせたのだろう。ユリウスを連れ戻すために」
「・・・!」
それを聞いた優雄は、自分がショックを受けている事に愕然とした。
薫は人違いをしているのだと自分に言い聞かせていた。彼女の話は自分には関係がない、と。だが彼女が自分と一緒にいるだけで幸せだと言ってくれた時、心の中ではとても嬉しかったのだ。それが根底から覆されて、いじめを受けた時以上に傷付いている自分がいた。
「本当なのか・・・? 君が俺の前に現れたのは、誰かに言われたからなのか?」
「・・・・・・」
薫は何も言わない。それが肯定なのだと感じて、優雄はグッと拳を握り締めた。
「もめているところを悪いが、ユリウスは連れて行くぞ」
「え・・・?」
「連れて行く・・・?」
てっきり殺される、と思っていた二人が呆気にとられている隙に、男は素早く近付いてきた。
「させない・・・!」
薫は何事かを呟くと、右手を男に突き出した。その掌から、眩い光が何条もの矢となって射出し、男に突き刺さる。
「フン・・・」
しかし男はさして応えた様子もなく、鼻で笑うと虫を払うかの如く腕を一振りした。
「きゃっ・・・!」
まるで巨人の手に払われたかのように薫の身体が吹っ飛び、バスケットボールが入った籠にぶつかった。音を立ててくずおれていく彼女に、優雄はそちらへ駆けよろうとした。が、その眼前に立ちはだかった男の威圧感に足が止まってしまう。
「う・・・」
怯えて後退る優雄に、男はいらついたように眉間に皺を寄せる。
「これがユリウスの生まれ変わりか。また弱くなったものだ」
「・・・っ」
どうしてこの男まで自分をユリウスの生まれ変わりだと勘違いしているのだろう。
男の手がこちらに向かってくるのを見ながら、優雄はグッと身を固くした。その時―――
体育館の方から大勢の声が聞こえてきた。クラスメイト達がやってきたのだ。
「チッ、面倒な事になりそうだな」
そう言って、男は後ろに下がると闇に溶けるかのように姿を消してしまった。
「・・・・・・」
へなへなと力なく座りこんだ優雄は、散乱しているボールに気付いて慌てて薫を見た。
「だ、大丈夫か・・・!」
腰に力が入らなくて這っていく格好になってしまったが、何とか彼女のもとに辿り着くと頭をそっと持ち上げた。
「大丈夫です・・・」
意識ははっきりしているようだ。
強打した身体が痛いだろうに、こんな時まで笑みを向けてくれる彼女に、優雄は心底情けない気持ちになった。
自分は何もできず、彼女に守られてばかりだ。弱い自分が恥ずかしい。
思わず俯くと、薫は優しく頬を撫でてくれた。
「優雄様。確かに私がこの世界に来るきっかけになったのは人間達に懇願されたからですが、私があなたをお慕いしている気持ちに偽りはありません。あなたが望まなければこのままこの世界で生きていただいても構わないのです」
「でも・・・!」
「私はあなたのお傍におります。それが私の幸せなのですから」
そう言って本当に嬉しそうに笑う彼女が愛しく感じられて・・・優雄は彼女の身体をギュッと抱き締めたのだった。