父親候補
…妻…
夫婦になれば、愛は自然と育つものだと思っていた。
妻は結婚式を終えた新婚初夜も「今日は疲れたから」と夫の期待に満ちた誘いを断って眠った。
初夜はなかった。
夫も「無理しなくていいよ」と優しく受け入れてくれた、と思っていた。
共働きの毎日。
夫が求めても、妻は「疲れてる」「そんな気分じゃない」と断り続けた。
「正直、相性もあまり良くないんだよね。」
その言葉は、夫の心に小さなトゲとして残った。
しばらくして、妻は子どもが欲しいと、排卵日を調べ、その日だけは積極的になった。
「今日なら大丈夫。」
それ以外の日は、当然のように拒む。
夫は応じた。
だが、ある夜、小さく笑って言った。
「俺は君の産みたい子どもの父親候補で、俺たち夫婦じゃないよね。」
妻は意味が分からなかった。
数か月後。
夫の帰宅は遅くなり、休日も外出が増えた。
そして、ある日。
「話がある。」
連れ出されたファミレスで、夫の隣に、一人の女性が座った。
「彼女とは一年近く付き合っている。」
頭が真っ白になった。
さらに夫は続けた。
「……彼女のお腹には、俺の子どもがいる。」
妻は耳を疑った。
「嘘でしょ……。」
「嘘じゃない。」
静かな返事だった。
「俺が君を裏切って浮気していたことは決して許されないことだ。でも、彼女は俺を必要としてくれていた。一緒に笑って、一緒に泣いて、子どもができたときも『一人で育てるから』と言ってくれた。」
妻は目の前の出来事に、夫とその女性の姿に言葉を失った。
妻が、ずっと望んでいた「子ども」。
その未来は、妻ではなく、別の女性のもとへ訪れていた。
夫は妻に充分な慰謝料を払い、二人の離婚は、あっけなく成立した。
一年後。
街で偶然見かけた元夫は、小さな赤ん坊を抱き、隣には今は妻となっているだろうファミレスの女性が穏やかに笑っている。
何年も前から一緒に生きてきた夫婦のような、仲の良い家族の姿だった。
元妻は思わず視線を逸らした。
家に帰ると、押し入れの奥から、使うことのなかったベビー用品のカタログが出てきた。
「いつか子どもができたら。」
そう思って取っておいたものだ。
カタログのページを閉じた彼女は、小さくつぶやく。
「あの人と築くはずだった未来は……自分でも気付かないうちに、私が少しずつ手放してしまっていたのかもしれない。」
窓辺では、夕暮れの風が静かにカーテンを揺らしていた。
…夫…
結婚すれば、愛は自然と育っていくものだと思っていた。
結婚式の日、幸せだった。
ようやく夫婦になれた女性と、これから同じ人生を歩いていくのだと信じていた。
新婚初夜。
少し照れながら彼女を抱き寄せようとした。
「今日は疲れたから。」
その一言で、彼女は背中を向けて眠ってしまった。
少し寂しかったが、無理をさせたくはなかった。
「無理しなくていいよ。」
そう言って自分に言い聞かせた。
きっと今日は特別疲れていただけ。
そう思っていた。
だが、その"今日だけ"は、何度も繰り返された。
仕事から帰れば「疲れてる」。
休日も「そんな気分じゃない」。
ある日には、笑いながら言われた。
「正直、相性もあまり良くないんだよね。」
その言葉だけは、忘れられなかった。
夫婦なのに、触れることさえ遠慮しなければならない毎日。
愛されている実感は、少しずつ消えていった。
それでも離婚なんて考えなかった。
好きだったからだ。
そんなある日、彼女が急に変わった。
排卵日を調べ、その日だけ積極的に誘ってきた。
「今日なら大丈夫。」
その日以外は、また拒まれる。
ようやく抱き合えた喜びよりも、心に浮かんだのは別の感情だった。
俺は愛されているんじゃない。
子どもを授かるために必要な相手として選ばれているだけなんだ。
思わず笑ってしまった。
「俺は君の産みたい子どもの父親候補で、俺たち夫婦じゃないよね。」
彼女は意味が分からないという顔をしていた。
その頃には、仕事で知り合った女性と話す時間が増えていた。
最初はただ話を聞いてくれる人だった。
「毎日、お疲れさま。」
その一言が、胸に染みた。
一緒に笑い、一緒に食事をしているうちに、自分でも止められなくなった。
裏切りだと分かっていた。
最低だとも思っていた。
それでも、帰りたくない家より、会いたいと思える人ができてしまった。
やがて彼女は妊娠した。
「一人で育てるから。」
泣きながらそう言う彼女を見て、逃げることだけはしたくないと思った。
妻をファミレスへ呼んだ。
隣には彼女を座らせた。
「一年近く付き合っている。」
妻の顔から血の気が引いていく。
そして、最後の言葉を告げた。
「彼女のお腹には、俺の子どもがいる。」
「嘘でしょ……。」
「嘘じゃない。」
胸は痛かった。
妻を傷つけていることも分かっていた。
俺が君を裏切って浮気していたことは決して許されないことだ。
でも、彼女は俺を必要としてくれた。
子どもができても、一人で育てると、そんな彼女を、俺は一人にできない。
妻との離婚は、慰謝料も十分支払った。
悪いのは俺。
その責任から逃げたくなかった。
一年後。
休日、公園へ行く途中。
腕の中では、小さな息子が安心したように眠っている。
隣では妻となった彼女が、優しく笑っていた。
ふと視線を感じる。
振り返ると、元妻が立っていた。
目が合った。
何か言おうとしたが、言葉は出なかった。
彼女は静かに視線を逸らし、そのまま歩き去っていった。
幸せになるはずだった、夫婦だった。
もし、あの頃、お互いに本音を話せていたら。
もし、どちらかが少しだけでも歩み寄れていたら。
違う未来があったのかもしれない。
そんなことを考えても、もう戻れない。
俺の腕の中で眠りながら、楽しい夢でも見ているのか、息子が笑う。
俺はその小さな命を抱き直し、歩き出した。




