この手で地獄へ引きずり下ろすと誓った
灰色の空が、北方の領地を重く覆っていた。
王都から馬車で揺られること五日。クラウゼ男爵領は、冬の訪れがどこよりも早い痩せた土地だった。
エリザ・フォン・クラウゼは、屋敷の窓からそのどんよりとした空を見上げていた。彼女の頬は寒さで白磁のように冷え切っている。
(また、今年も厳しい冬が来る……)
かつては、この窓から見える庭園に咲くささやかな花を愛でる、穏やかな心を持った少女だった。父であるクラウゼ男爵の優しい笑顔と、母の温かいスープ。それがエリザの世界の全てだった。
その全てが崩れ去ったのは、半年前のことだ。
父は、王都の大貴族であるルードヴィヒ公爵家との共同事業に失敗した。
事業は、公爵領との境にある山脈での翠晶石の採掘。装飾品や高価な染料の原料となる希少な鉱石だ。
小規模ながらも採掘技術を持っていたクラウゼ家と、強大な権力と販売網を持つ公爵家。一見、双方に利益があるはずの提携だった。
しかし、公爵家は卑劣だった。
採掘量が軌道に乗り始めた矢先、公爵家は「契約不履行」を盾にクラウゼ男爵を訴えた。公爵家が用意した、巧妙に細工された偽の証拠と証言により、男爵は多額の賠償金と採掘権の全てを奪われた。
公爵が法廷で見せた、憐れむような偽善の笑み。そして、その傍らで扇子の影からエリザの父を嘲笑っていた、公爵の若き後妻イザベラの姿。
(あの日から、私の世界は色を失った)
心労と絶望の末、父は病に倒れ、帰らぬ人となった。
家も領地も差し押さえられ、エリザは遠縁の、これまた裕福とは言えない子爵家に引き取られた。形ばかりの庇護。そこで待っていたのは、厄介者扱いと、使用人同然の冷遇だった。
穏やかだったエリザの心に、冷たい炎が宿ったのはその時だ。
それは、憎しみという名の炎。
彼女は変わった。かつての優し気な瞳は鋭い光を帯び、その唇が結ぶのは社交辞令の笑みではなく、復讐を完遂するための固い誓い。
(必ず、ルードヴィヒ公爵家を……あの二人を、この手で地獄へ引きずり下ろす)
エリザの武器は、父が遺した唯一の形見である経営日誌と、貴族社会で軽視されがちな「下位貴族の娘」という立場、そして皮肉にも過酷な生活で磨かれた、息を呑むほどの美貌だった。
父の日誌には、事業の失敗の経緯だけではなく、公爵家の内情が克明に記されていた。
特に、公爵夫人イザベラの浪費癖と、彼女が公爵の財を秘密裏に自身の親族へ流している疑惑。そして、公爵家が頼る主要な交易路が、帝国の政治情勢によって非常に不安定な状態にあること。
エリザは子爵家での冷遇に耐えながら、水面下で準備を進めた。
父の知識を吸収し、経済を学んだ。貴族の醜聞を集め、誰が誰の敵であるかを徹底的に調べ上げた。
そして、一年が経った。エリザが十八歳になった春。
彼女は、子爵家当主に「王都の修道院に入る」と嘘をつき、わずかな金銭と引き換えに自由の身という名の放逐を手に入れた。
その足で、彼女は王都に向かう。父の形見である数少ない宝石を売り払い、一着の質素だが仕立ての良いドレスを手に入れた。
目指すは、王都で開かれる春の夜会。
それは、新興貴族や成り上がりの商人たちが、自らの富と人脈を誇示するために開く、伝統ある貴族たちからは少し蔑まれている夜会だ。
だが、そこには本物の貴族社会にはない、剥き出しの野心と金が渦巻いている。
エリザの目的は一人。
アシュレイ・グレイフィールド伯爵。
平民から一代で伯爵位まで上り詰めた男。冷徹なまでの手腕で莫大な富を築き、「氷の伯爵」あるいは「金脈喰い」と噂される人物。
そして何より、彼はルードヴィヒ公爵家と、いくつかの利権で鋭く対立していた。
夜会は、目も眩むような光と熱気に満ちていた。
エリザは、その場の誰よりも美しかった。しかし、彼女の美しさは花のようにか弱く、守りたくなるものではない。それは、研ぎ澄まされた氷の刃のような、近寄りがたい鋭利な輝きを放っていた。
彼女は誰とも踊らず、ただ静かに会場の隅から獲物を見定めていた。
いた。アシュレイ・グレイフィールド伯爵。
黒髪に、夜の湖のような深い青の瞳。貴族的な優雅さとは無縁の、引き締まった体躯。彼は、甘美な夜会には似つかわしくない、一匹の黒豹のようだった。
エリザは、彼が一人になった瞬間を見計らい、グラスを片手に近づいた。
「ごきげんよう、グレイフィールド伯爵」
アシュレイは、この騒がしい場所で自分に声をかける者がいることに、わずかに驚いたように眉を上げた。そして、目の前の女を見た。
(美しい……だが、それだけじゃない。この女、何を企んでいる?)
彼の青い瞳が、値踏みするようにエリザの全身を射抜く。
「ご令嬢。俺に何の用だ? 俺は、見知らぬ女と世間話をする趣味は持ち合わせていない」
冷たい拒絶。並の令嬢なら、泣いて逃げ出すだろう。
だが、エリザは動じなかった。
「世間話ではございません。伯爵に、儲け話をお持ちいたしました」
「儲け話、だと?」
アシュレイは、思わず鼻で笑った。
「少女の遊びに付き合うほど、俺は暇ではない」
「遊び、ですか。では、ルードヴィヒ公爵家の『南の交易路』が、あと半月もせぬうちに砂賊によって断たれるという情報も、遊びで?」
アシュレイの瞳が、初めて鋭く細められた。
南の交易路は、公爵家が独占的に利用する、希少な香辛料や織物を運ぶ重要なルートだ。
「……どこでそれを」
「わたくしは、ただの情報を売りに来たのではありません。伯爵に共同事業をご提案しに来たのです」
エリザは、アシュレイの目を真っ直ぐに見据えた。
「わたくしには、ルードヴィヒ公爵家を破滅させる『地図』がございます。伯爵には、実行するための力をお借りしたい」
「……破滅、か。ずいぶんと物騒なことを言う」
アシュレイは興味深そうに口の端を上げた。
「君は何者だ? なぜ公爵家をそこまで憎む?」
「わたくしは、クラウゼ男爵の娘、エリザにございます」
その名を聞いて、アシュレイは合点がいった。クラウゼ男爵家が公爵家に潰された話は、商売敵の間では有名な話だった。
「なるほどな。復讐か。だが、俺が君の復讐劇に乗るメリットは何だ?」
「彼らが持つ富、権力、その全て」
エリザは、扇子で口元を隠し、冷ややかに微笑んだ。
「もちろん、わたくしは彼らの破滅が見られればそれで満足です。実利は、全て伯爵がお取りになっても構いませんわ」
(今は、まだ……)
アシュレイは、目の前の美しい復讐鬼を値踏みした。
彼女の瞳には、狂気と冷静さが同居している。そして、何よりも彼女の提示した「南の交易路」の情報は、彼が独自に掴んでいた情報と奇妙に一致していた。
「いいだろう。その話、詳しく聞かせてもらおう」
アシュレイは、エリザに腕を差し出した。
「場所を変えよう。こんな場所では、狼たちの耳が多すぎる」
これが、灰かぶりの令嬢と氷の伯爵と呼ばれた男の、冷徹なる復讐劇の幕開けだった。
アシュレイの用意した馬車で、二人は彼の屋敷へと向かった。
書斎に通されたエリザは、暖炉の前に立ち、その炎を見つめていた。かつて父の死を知らされた日と同じ、燃え盛る炎。だが今、エリザの心はあの頃のように絶望に凍えてはいない。むしろ、炎と同じ熱量で、復讐の計画が燃え上がっていた。
「それで、君の言う地図とやらを見せてもらおうか」
アシュレイが、重厚な革張りの椅子に深く腰掛けながら言った。
エリザは振り返り、父の日誌から書き写し、さらに彼女自身が調べ上げた情報をまとめた羊皮紙の束を、彼に差し出した。
「まず、これが公爵家の財政状況です。特に、イザベラ夫人の浪費によるものです」
エリザは、アシュレイが目を通す横で、淀みなく説明を始めた。
「彼女は王都一の宝石商『ミネルヴァ』から、毎月、領地の小さな村一つが買えるほどの額を借金しています。もちろん、公爵の名を騙って」
「ほう。ミネルヴァの主人は強欲で知られている。公爵家相手とはいえ、よくそこまで貸したものだ」
「ええ。ですから、ミネルヴァの主人も焦れているはずです。もし、公爵家に『支払い能力がない』という噂が立てば、彼は真っ先に借金の回収に走るでしょう」
「なるほど。公爵家の信用に、外から揺さぶりをかけるか」
アシュレイは、エリザの冷徹な分析に感心していた。
「次に、先ほどの南の交易路です。伯爵もご存知の通り、あのルートは近隣の部族との不安定な協定の上で、かろうじて成り立っています」
「ああ。公爵家は、協定金を値切るために、部族に粗悪品を掴ませているという噂だ」
「その通りです。そして、わたくしは、その部族と敵対する、より力のある『砂狼』と呼ばれる砂賊と接触する術を知っております」
アシュレイの目が、再び細められた。
(この女、どこまで……)
「彼らに少々の金と情報を渡せば、喜んで公爵家の隊商を襲うでしょう。もちろん、部族の仕業に見せかけて」
「そうなれば、部族と公爵家は泥沼の争いになる。交易路は完全に閉ざされるな」
アシュレイは、エリザの計画の周到さに舌を巻いた。
「だが、それだけでは公爵家は傾かない。彼らの本領は、広大な穀倉地帯と、例の翠晶石の鉱山だ」
「ええ。ですから、それは序章にすぎませんわ」
エリザは、最後の羊皮紙をテーブルに置いた。
「これが、わたくしの切り札です」
そこに書かれていたのは、一見、鉱山とは何の関係もない、王都の流行の服飾店の名前だった。
「服飾店?」
「イザベラ夫人が、翠晶石の横流しに使っている店ですわ」
エリザは冷たく言い放った。
「公爵家は、採掘した翠晶石の一定量を、王家へ献上する義務があります。しかし、イザベラ夫人は、良質な石を『品質検査で弾かれた』と偽り、この店を通じて横流しし、自らの贅沢品に変えているのです」
「……王家への献上品を横流し。それは、反逆罪に問われかねん大罪だ」
アシュレイの声が、一瞬低くなった。
「公爵本人は?」
「おそらく、ご存知ないでしょう。彼は若い妻に夢中で、金の管理は全てイザベラ夫人に任せきりですから。彼女は、父にしたのと同じように、公爵をも食い物にしているのです」
アシュレイは、全ての書類に目を通し終えると、深く息を吐いた。
「……恐ろしい女だ、君は」
それは、非難ではなかった。むしろ、賛辞に近い響きだった。
「穏やかなだけでは、何も守れなかったのです。奪われたものを取り返す……いいえ、奪った者たちに、それ相応の代償を支払わせる。そのために、わたくしは」
エリザの瞳が、暖炉の炎を映して、赤く揺らめいた。
アシュレイは立ち上がり、エリザの前に立った。
「いいだろう。その『地図』、気に入った。君の復讐に、俺も乗ろう」
彼は、エリザの冷たい手を、自らの大きな手で包み込んだ。その手の熱さに、エリザはわずかに驚いたように目を見開いた。
「だが、条件がある」
「……何でしょう」
「君は、俺の屋敷に住め。君ほどの『切り札』を、王都の安宿に置いておくのは危険すぎる」
「わたくしは、伯爵の愛人になるつもりはございません」
エリザは、きっぱりと言い放った。
アシュレイは、ふ、と笑った。
「勘違いするな。君をそういう目で見ているわけじゃない。君は共同経営者だ。経営者には、それ相応の安全な執務室が必要だろう?」
「……」
「それに、公爵家と戦うには、君にも盾が要る。俺の庇護下にあると公爵家に知らしめるだけでも、奴らの動きを多少は牽制できるはずだ」
アシュレイの提案は、合理的だった。
復讐を完遂するまで、彼と利害を共にする。エリザは、彼の差し出す手を、利用し尽くす覚悟を決めた。
「承知いたしました。わたくしの全てを、この復讐に捧げます」
こうして、二人の奇妙な共闘関係が始まった。
アシュレイは、すぐに動いた。
まず、彼の手配により、ミネルヴァの主人の耳に「ルードヴィヒ公爵家が、南の交易路で莫大な損失を出したらしい」という噂が流された。
同時に、アシュレイが裏で手を回し、公爵家が資金繰りのために当てにしていたいくつかの商会が、一斉に融資を引き締めた。
イザベラはパニックになった。
ミネルヴァの主人からの、礼を失した矢のような催促状。そして、公爵の金庫を開けてみれば、思ったほどの現金が残っていなかったのだ。
彼女は、横流しで得た金も、すでに使い果たしていた。
「なんですの、これは!?」
公爵邸に、イザベラの甲高い声が響き渡る。
「公爵家の信用を何だと思っているのです!」
彼女はミネルヴァの主人を呼びつけ罵倒したが、もはや彼の態度は以前のようなへつらったものではなかった。
「奥様。信用はお支払いがあってこそでございます。一週間以内にご入金なき場合は、法的な手続きを取らせていただきます。……公爵ご本人にも、お話がいくことになりますが、よろしいですかな?」
イザベラは顔面蒼白になった。
公爵に、借金と横流しのことが知られるわけにはいかない。
彼女は、さらなる翠晶石の横流しを計画した。だが、その動きは、すでにエリザとアシュレイの監視下にあった。
「食いつきましたわ」
アシュレイの屋敷のテラスで、エリザは冷たい風に吹かれながら、報告書を読んでいた。
「イザベラ夫人は、今夜、例の服飾店に、過去最大量の翠晶石を運び込むようです」
「愚かな女だ。追い詰められて、一番やってはいけない悪手に手を出すとはな」
アシュレイは、エリザの肩に温かい毛皮のショールをかけた。
エリザは、その温かさに一瞬戸惑いながらも、彼の顔を見上げた。
「伯爵。全て、手はず通りに」
「ああ、任せておけ」
アシュレイの青い瞳が、夜の闇の中で冷たく光った。
「今夜、王都は面白い見世物で賑わうことになるだろう」
その夜。
イザベラが手配した荷馬車が、服飾店の裏口にこっそりと翠晶石を運び入れた、その瞬間。
「そこまでだ!」
閃光と共に、王宮の衛兵たちがなだれ込んできた。
服飾店の主人は、その場で取り押さえられる。荷馬車からは、王家への献上品であるはずの最高品質の翠晶石が、次々と押収された。
イザベラは、公爵邸でその凶報を聞き、その場に崩れ落ちた。
全てが、終わった。
王家への反逆罪。その罪が、ルードヴィヒ公爵家に下される。
復讐の第一幕は、エリザの描いた通りに、完璧に幕を下ろした。
だが、エリザの瞳は、まだ満足していなかった。
(まだ、足りない。こんなものでは、父の無念は晴らせない)
アシュレイは、そんなエリザの横顔を、静かに見つめていた。
(君の復讐は、どこまで続く? ……そして、その先に、君は救われるのか?)
彼の心に芽生えた、復讐の共犯者に対するものとは異なる感情に、彼自身はまだ気づいていなかった。
*
王都は、ルードヴィヒ公爵家の醜聞で瞬く間に満たされた。
王家への献上品である翠晶石の横流し。それは、公爵家がどれほど王家を軽んじていたかの証左として、貴族社会を駆け巡った。
イザベラ・フォン・ルードヴィヒは、王宮の地下牢に投獄された。
あれほどまでに輝いていた美貌は、恐怖と絶望によって見る影もなくやつれている。
彼女が対面を許された唯一の人物は、夫であるルードヴィヒ公爵その人だった。
「あなた! お願いですわ、わたくしは嵌められたのです! あの宝石商と服飾店が勝手に!」
イザベラは、牢の格子にすがりつき、必死に訴えた。
公爵は、冷え冷えとした爬虫類のような目で、かつて寵愛した妻を見下ろした。
「見苦しいぞ、イザベラ」
「……え?」
「お前の愚かな浪費と、浅知恵のせいで、我がルードヴィヒ家がどれほどの屈辱を受けたか分かっているのか」
「な……何を仰いますの! わたくしは、あなたのために……」
「黙れ」
地を這うような低い声に、イザベラは息を呑んだ。
「お前は、我が家の汚点だ。王家への反逆の罪、その全てをお前が被るのだ。いいな」
「そん、な……わたくしはあなたの妻ですのよ!」
「妻? お前のような愚かな妻は、もう不要だ」
公爵は、衛兵に合図を送った。
「鉱山の利権を守るため、そして我が家の名誉を回復するため、お前にはルードヴィヒ家の名を汚した罪人として、厳罰に処されてもらう」
「いやっ! あなた! わたくしを裏切るのですか!」
イザベラの絶叫が、暗い地下牢に響き渡った。だが、公爵は一度も振り返ることなく、その場を立ち去った。
彼の頭にあるのは、失墜した妻への憐憫ではなく、傾いた家名をいかにして立て直すか、その一点のみだった。
(これで、まず一人……)
アシュレイの屋敷でその報告を受けたエリザの瞳は、氷のように冷ややかだった。
「公爵は、妻を切り捨てて鉱山を守るつもりのようですわね」
「ああ。王家への賠償金と、失った信用を取り戻すため、奴は必ず鉱山で無理な増産を始める」
アシュレイは、窓の外に広がる王都の景色を見下ろしながら言った。
「だが、それこそが、君の描いた『地図』の最終段階だな」
エリザは頷いた。
彼女は、父が遺した日誌の、あるページを開いた。そこには、鉱山の断面図と、赤いインクで記された警告がびっしりと書き込まれていた。
「父は、あの鉱山の地盤の脆さを誰よりも知っていました。特定の鉱脈を深く掘りすぎれば、上層の岩盤が地下水脈の圧力に耐えきれなくなる、と」
「……そして、今は大雨が続く霧雨月だ」
アシュレイが、エリザの言葉を引き取った。
「公爵は、父の警告を無視し続けました。費用がかかる、と。排水設備の増強も、岩盤の補強も、全て先送りにしたのです」
エリザは、日誌を静かに閉じた。
(お父様。あなたの無念は、わたくしが晴らします。あなたの正しさを、あの愚かな男に、骨の髄まで思い知らせてやります)
エリザの計画通り、ルードヴィヒ公爵は鉱山に乗り込み、狂ったように増産を命じた。
「掘れ! もっと掘れ! 賠償金を支払うには、これまでの倍の翠晶石が必要だ!」
だが、現場は混乱していた。
アシュレイが、その少し前に動いていたからだ。
彼は、公爵家の鉱山で働いていた経験豊富な鉱夫たちを、破格の給金と安全な労働環境を提示して、ごっそりと引き抜いていたのだ。
残されたのは、経験の浅い労働者たちと、公爵の威光を笠に着る現場監督だけだった。
「しかし公爵様! この雨では、坑内の水が……」
「言い訳は聞かん! 水が出たら汲み出せばよかろう! それとも、お前たちもあの女のように反逆者として首を吊りたいか!」
脅迫され、追い詰められた労働者たちは、危険を承知で、禁じられていた場所の発破作業を強行した。
その数日後。
王都は、ここ数年で最悪の嵐に見舞われていた。
風が唸り、空が裂けたかのように雨が降り注ぐ。
アシュレイの屋敷の書斎で、エリザは暖炉の炎を静かに見つめていた。
アシュレイが、彼女の隣に立ち、そっと温かい飲み物を差し出した。
「……今夜だろう」
彼の低い声に、エリザはこくりと頷いた。
「ええ。父の日誌によれば、三日以上この規模の雨が続けば、排水設備は限界を迎えます。そして、公爵が命じた無理な発破……」
それは、破滅への引き金を引くようなものだった。
だが、エリザとアシュレイは、ただ「天災」を待っていただけではない。
アシュレイは、鉱山のさらに上流にある、公爵家が管理を放棄していた古い堰に、密かに人を送り込んでいた。
大雨で、自然に決壊したように見せかけるための、巧妙な細工を施すために。
「君は、後悔していないか」
アシュレイが、不意に尋ねた。
「この計画で、鉱山もろとも多くのものが失われる。君の父上が心血を注いだ場所だ」
エリザは、カップを持つ手を強く握りしめた。
「……腐った大樹は、一度土に還すべきです。でなければ、新しい芽は吹かない」
彼女の横顔は、復讐の炎に焼かれ、もはやかつての穏やかな少女の面影はなかった。
アシュレイは、その痛々しいほどの決意に、何も言えなくなった。
(君を、このまま鬼にしておきたくはない。だが、今はまだ……)
彼は、ただ、彼女の隣に立ち続けることを選んだ。
その夜半過ぎ。
嵐が最高潮に達した頃、それは起こった。
鉱山では、すでに腰まで水が迫っていた。
「駄目だ! 排水が間に合わん!」
「逃げろ! 上が崩れるぞ!」
無理な発破で脆くなっていた岩盤が、ついに地下水脈の圧力に耐えきれず、轟音と共に崩落した。
そして、それに追い打ちをかけるように。
上流の堰が、けたたましい音を立てて決壊した。
濁流が、まるで意志を持った巨大な獣のように、鉱山へと襲いかかった。
坑道は一瞬にして飲み込まれ、ルードヴィヒ公爵家の富の源泉であった翠晶石鉱山は、深い水の底へと沈んでいった。
公爵が、その絶望的な報告を受けたのは、翌朝のことだった。
彼は、その場に膝から崩れ落ちた。
鉱山の水没。
それは、ルードヴィヒ公爵家にとって、完全な死の宣告だった。
破滅は、早かった。
最大の収入源を失った公爵家に対し、債権者たちが牙を剥いた。
まず、イザベラの借金を抱えていた宝石商ミネルヴァが、差し押さえを宣言した。
それを皮切りに、融資を引き締めていた商会が一斉に返済を要求した。
さらに、アシュレイが手を回していた南の交易路も、砂狼たちの襲撃が激化し、完全に機能を停止。積み荷もろとも莫大な損失が計上された。
王家も、冷たかった。
反逆者を出し、賠償金も支払えず、鉱山も失った公爵家など、もはや何の価値もない。
爵位こそかろうじて剥奪はされなかったものの、ルードヴィヒ公爵家は事実上、破産した。
屋敷も、領地も、全てが債権者たちの手に渡った。
そして、それらの資産を、混乱の影で冷静に買い集めている者がいた。
アシュレイ・グレイフィールド伯爵である。
彼は、公爵家が失った富を、二束三文で手に入れていった。
数週間後。
ルードヴィヒ公爵は、わずかな荷物と共に、王都を追放同然に去っていった。
かつての威光はなく、ただ老いさらばえた男が、嘲笑と憐れみの視線の中、みすぼらしい馬車に揺られて消えていく。
エリザは、アシュレイの屋敷の窓から、その姿を遠くに見届けていた。
「……終わりましたわ」
彼女の声には、何の感情もこもっていなかった。
憎い仇が破滅した。父の無念は晴らされたはずだった。
だが、エリザの心を満たしたのは、歓喜ではなく、全てが燃え尽きた後の灰のような、冷たい虚無感だけだった。
(私は、このために生きてきた。けれど、これから、何のために生きればいいの……?)
穏やかだった自分は、もういない。
復讐という炎を失った鬼は、ただ立ち尽くすしかなかった。
「エリザ」
アシュレイが、彼女の肩に手を置いた。
「行くぞ。君が行くべき場所へ」
彼がエリザを連れて向かったのは、懐かしい故郷の地。かつてのクラウゼ男爵領だった。
荒れ果てた領地も、今やアシュレイの所有となっていた。
屋敷の跡地には、エリザが密かに立てていた、父の質素な墓標がある。
エリザは、墓標の前に膝まずき、持ってきた花を捧げた。
北方の空は、あの日と同じように灰色だった。
「お父様……わたくし、やりました。あの者たちは、全てを失いました」
だが、その言葉は、風に虚しくかき消されていく。
涙は、もう出なかった。
「君の復讐は、終わったか」
背後から、アシュレイが静かに問うた。
「……はい」
エリザは、立ち上がった。
「これで、わたくしと伯爵の契約も、終わりですわね。多大なるご支援、感謝いたします」
彼女は、深く頭を下げ、この場を去ろうとした。
もう、彼女には何も残っていない。アシュレイにとっても、自分は用済みの駒のはずだ。
「待て」
アシュレイが、彼女の腕を掴んだ。その手は、驚くほど熱かった。
「俺たちの共同事業は、まだ終わっていない」
「……どういう、意味ですの?」
アシュレイは、エリザの冷たい手を引き、ある場所へ連れて行った。
水没した、あの鉱山の入り口だった。
深い水が、静かにたたえられている。
「ここは、死んだ。君の言う通り、一度土に還った」
アシュレイは、一巻の羊皮紙を広げた。
そこには、鉱山の新しい設計図が描かれていた。
「これは……?」
「君の父上が、日誌に構想として遺していた安全な排水路と新しい採掘法だ。俺の技術者たちに、それを元に計画書を作らせた」
エリザは、目を見開いた。それは、父が夢見ていた、誰も犠牲にならない理想の鉱山計画だった。
「ルードヴィヒが潰したのは、鉱山だけじゃない。君の父上の『未来』だ。俺は、それを取り戻したい」
アシュレイは、エリザの目を真っ直ぐに見据えた。
「この鉱山を、再生させる。君の父上の夢を、今度こそ、俺と君で実現するんだ」
「……なぜ、わたくしが?」
エリザは戸惑った。
「わたくしは、ただ復讐のためにあなたを利用した、鬼ですわ」
「ああ、知っている」
アシュレイは、ふ、と笑った。
「だが、その鬼を、俺は手放すつもりはない」
彼は、エリザの冷たい両手を、自らの大きな手で包み込んだ。
「君のその知恵も、強さも、全て俺が買い取った。君のこれからの人生は、俺のものだ」
「それは、あまりに……横暴ですわ」
「横暴で結構」
アシュレイは、エリザの体を強く引き寄せた。
「復讐のために生きるのは、もう終わりだ。エリザ。これからは、俺の隣で、未来を築くことだけを考えろ」
彼の瞳には、夜会で見たような冷徹さはなく、ただひたすらに熱い、独占欲にも似た光が宿っていた。
「君が失ったものは、俺が全て取り戻してやる。……いや、それ以上のものを、君に与えよう」
「わたくしには、もう、穏やかだった頃の心は……」
「必要ない」
アシュレイは、きっぱりと言い切った。
「俺が愛したのは、あの夜会で、氷の刃のような瞳で俺を見据えた、君だ。今の君のままでいい」
彼は、エリザの額に、そっと唇を寄せた。
それは、契約でも取引でもない、不器用だが、確かに熱を帯びた誓いの証だった。
エリザの凍てついていた心に、小さな、しかし確かな温もりが流れ込んでくる。
(……温かい)
父を失ってから、ずっと忘れていた感覚だった。
エリザは、ゆっくりと、アシュレイの胸に顔をうずめた。
「……わたくしは、もう、鬼のままでは、いられないかもしれません」
「ああ。存分に、人間に戻るといい」
アシュレイは、彼女の体を強く抱きしめた。
灰色の空から、一筋の光が差し込み、水没した鉱山の水面をキラリと照らした。
それは、錆色だった世界に、新しい色が戻り始めた瞬間だった。
不遇な令嬢の復讐劇は終わり、今は、一人の男と一人の女の、未来を築く物語が、静かに始まろうとしていた。
了




