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乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
幼年期
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7 影の盟約

第三騎士団 食堂


 第三騎士団副団長ギルベルト・トフィーネは、ランチの盆を持ったままギクリと固まった。

 第三騎士団専用の食堂に、あまりに異質な人物が座っていたからだ。


 第一騎士団は王族の近衛隊――精鋭中の精鋭。

 第二騎士団は貴族子弟と才ある平民の寄り合い。

 そして第三騎士団は、平民ばかりか外国人までも受け入れる寄せ集めの部隊である。

 その粗野な雰囲気の中に、伯爵家当主であり宰相補佐でもあるオズワルド・リリエンタールが、まるで最初からそこにいるかのような顔で座っていた。


 パンをちぎり、スープに浸し、上品に口へ運ぶ――仕草はどう見ても貴族のそれ。

 だが不思議と、この空間に違和感なく溶け込んでいる。

 現に、ギルベルト以外の団員は誰ひとりとして異変に気づいていなかった。


 鳶色の瞳がふとギルベルトを捉えると、オズワルドはやんわり笑い、向かいの席を手で示した。

「副団長殿、こちらへ」


 自然体の笑みと柔らかな声掛け――何気ない仕草なのに抗えない。

 ギルベルトは無言のまま、盆を置いて席に着いた。


「リリエンタール閣下。……珍しいな」

「ええ、久しぶりです」

 オズワルドは微笑を崩さず、さらりと答える。


 そして、何気なく告げた。

「あなたの真珠を守るために、そろそろ動こうと思いましてね」

 ギルベルトの拳が膝の上で固く握られた。

 “真珠”――それはかつての婚約者、アイラ・エスカヴァリアンの呼び名だった。

 白磁のような肌に淡いプラチナブロンド、澄んだ声……真珠姫と讃えられた人。


 十五年前、二人は仲睦まじく、婚姻の日を待ちわびていた。

 だが結婚直前に、当時の王太子が横槍を入れた。脅迫同然に婚約は破談となり、アイラは王太子妃として宮中に閉じ込められた。やがて王太子が即位し、ギルベルトは第三騎士団副団長へと“左遷”された。第一騎士団で輝いていた日々は遠い。


 アイラの身体は弱り、産んだ子供たち――第一王子と王女は白亜の離宮へ移され、第三王子は緑の離宮に押し込められている。

 助けたい、だが助けられない。

 その歯痒さが胸に巣食ったまま、長い年月が過ぎた。


 オズワルドはパンを口に運びながら、さらりと続ける。

「もっとも、ぼくとしては真珠のことはどうでもいいんですよ。ぼくの“太陽”さえ輝いてくれれば、それで充分です」

 言ってから、気楽に手を差し出した。

「どうです、副団長殿。ご一緒に?」

 まるで「葉巻を一本どうですか?」とでも言うような調子だった。


 文官のはずなのに、隙がない。

 小柄なオズワルドなど、力づくなら一瞬で叩き伏せられる――はずなのに、どうにも勝てる気がしない。

 ギルベルトは迷った末、その手を掴んだ。渾身の力を込め、嫌がらせ半分で握りつぶすように。


「いてててて!」

 オズワルドがわざとらしく痛がってみせる。


 ギルベルトはその時、ほんの少しだけ口元をほころばせた。


◇◇◇


王都郊外某所


 王都の外れ。

 ひっそりと佇む館の奥、静かに香が漂う広間に、白衣をまとった老司祭ウルバヌスが座していた。

 その姿は衰えを感じさせながらも、背筋は真っすぐに伸び、柔らかな眼差しはすべてを見透かすかのよう。

 彼が一声発すれば、人々の心に静かに波紋が広がるだろう。まさしく宗教界の大御所にふさわしい威容であった。


 そこへ、オズワルド・リリエンタールが現れる。緑の離宮では妻と肩を並べ、ギルベルトには気安く話しかけた男は、この場ではまるで別人であった。

 長身でも屈強でもない小柄な文官が、深く、深く頭を垂れる。

 声を発するまでの間を大切に置き、礼を尽くしてから、静かに言葉を紡いだ。


「――尊き導き手、ウルバヌス猊下。

 この地にお時間をいただけること、まことに恐悦至極に存じます」


 鳶色の瞳は、いつになく真摯そのもの。

 目の前の老人を、ただの“協力者候補”としてではなく、己より遥かに高みに立つ存在として扱っているのが誰の目にもわかる態度だった。


 ウルバヌスは目を細め、長い沈黙ののちに頷いた。

「――リリエンタール卿。噂には聞いておりましたが、まことに柔らかな礼をお持ちですな。

 しかし、あなたの歩みは軽いものではない……あなたの背には重きものがある」


 オズワルドは深呼吸ひとつし、ひざまずいたまま答える。

「私と妻は、緑の離宮に囚われた幼き王子の未来を護りたいと存じます。

 されど、我ら夫婦のみでは手が届かぬ。ゆえに、どうか――猊下のお力添えを賜りたく」


 彼の言葉は決して熱を帯びてはいなかった。

 淡々と、しかしひとつひとつの語が丁寧に磨かれ、まるで祈りのように老司祭の耳に届く。


 ウルバヌスはその声音に耳を澄ませ、しばし沈黙したのち、微笑んだ。

「……ならば私は隠居の身を終え、導きの杖を再び取るといたしましょう。

 王都に残す館は弟子たちに任せ、この老いぼれは緑の離宮へ参りましょうぞ。

 ――忘れることなかれ。幼子を守ることは、ただ生かすことにあらず。彼が己の道を歩むための支えとせよ」


 その言葉に、オズワルドは深々と額を床に着けた。

「……身に余るお言葉。必ずや、心に刻みます」


 この瞬間、幽閉の地であった緑の離宮に、宗教界の泰然たる重鎮が加わることとなった。

それは、まだ誰も知らぬ小さな波紋だったが、やがて王都の権力争いを大きく揺るがす潮流となるのだった。

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