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乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
幼年期
6/65

6 静かなる宣戦

 黄昏時、うっそりと建つ離宮はしんと静まり返っていた。その奥で、第三王子の乳母は書きつけを手に眉をひそめる。

「また……解雇、ねぇ」

 朗読を担当していた家庭教師の名が、宮廷からの命令書に記されていた。理由は一言――「不適任」。


 先週も数学教師が、先々週は楽師が同じ理由で追い出されたばかりだ。

 王子のためにと人柄と実力で選び抜いた教師たちが、一人、また一人と削ぎ落とされてゆく。


「……誰かさんの差し金に決まっているわ」

 乳母は紙を折り畳み、手をぎゅっと握りしめた。


◇◇◇



王宮・側妃の居館


 夜更け、王宮の奥。

 煌々と燭台が灯る居館の扉を、ひとりの女が押し開いた。

 質素な衣に身を包み、疲れを隠さぬ顔――第三王子の乳母である。


「……あなた、許しがあってここに?」

 外にいた護衛たちの音さえしないとは、どういうことなのか。扉の奥、侍女たちのざわめきが走る。だが乳母は一歩も退かなかった。


「許しなどいりません」

 声は低く震えていたが、瞳は決して揺らがない。

「王子を守るために来たのです」


 帳の奥に座すのは側妃。

 鮮やかな宝石を身にまとい、薄く笑みを浮かべたまま、まるで退屈な芝居でも見ているようだった。


「……あら。乳母風情が、夜更けに私のもとへ?」

「風情で結構」乳母は一歩進む。「ですが――なぜ、あの子から次々と教師を奪うのです」


「不適任だからよ」

「不適任? 子どもに知を授ける者を? 正しく教え導いてきた人々を?」

乳母の声が鋭くなる。

「護衛を増やそうとすれば阻まれ、学びを与えれば取り上げる。いったい、どこまであの子を追い詰めれば気が済むのです!」


 側妃は紅い唇をわずかに歪めた。

「ふふ……母親気取りかしら? 乳母の役目は、せいぜい世話を焼くこと。将来など考えなくていいのよ」


「――母親がいないから、私が母の代わりなのです!」

 乳母の声が一瞬、居館を震わせた。

 侍女たちが思わず目を見張る。


 だが側妃は、涼やかに肩をすくめただけだった。

「そう。なら、せいぜい“緑の牢”で寄り添ってあげなさいな。どれほど育てても、あの子が盤に上がることはないのだから」


 乳母はその言葉に震える拳を握った。だが怒りを飲み込み、深く頭を垂れる。

「……覚えておきます」


 踵を返し、乳母は去った。

 その背を見送りながら、側妃は侍女にだけ聞こえる声で笑う。


「今日の護衛たちは全員クビよ。あんな熱苦しい女を通すなんて無能だわ。


 ……それにしても、いいわね、あの必死さ。……長くは続かないでしょうけど」


◇◇◇


夜 緑の離宮


 与えられた部屋の窓辺で、セラフィーナはぼんやりと細い上弦の月を見上げていた。今にも消えそうなほど、儚い月明かり。


 背後に、ほとんど音もなく気配が立つ。

「……愛しのセフィ」

「オジー。今日も遅かったのね。お疲れ様」


 振り向くより早く、夫オズワルドが彼女の髪に触れた。

 濃い金色の波打つ髪を一房取り、そっと口づける。普段はきっちりと結い上げられて隠れているその豊かさを知るのは、夫と世話係のシーラだけだ。


「聞いたよ。ついに直談判に行ったんだって? ぼくのお姫様は、お転婆だ」

 くつくつと笑うオズワルドに、セラフィーナは片眉を上げる。


 鳶色の髪と瞳。人混みに紛れれば二度と見つけられそうにないほど没個性な男。だが、宰相補佐という宮廷の要職に就きながら、男好きの側妃からすら一度も声をかけられたことがない――そんな上級文官は、彼ただ一人だろう。もはや天賦の才と言えた。


「……さすが耳が早いのね」

「それが仕事だから」


 冗談めかした声の奥には、真剣な光が宿っている。

 セラフィーナは唇を噛みしめ、昼間の出来事を余さず語った。


 ――次々に解雇される家庭教師。

 ――増員を阻まれた護衛。

 ――そして王子の未来を奪おうとする、側妃の冷たい宣告。


 オズワルドは黙って聞き、やがて低く口を開いた。

「……ならば正面から抗うのは難しい。だが、僕らなら戦える」

「そうよね」


「まずは“こちらの手”を固めよう。僕らは少し慎重すぎた。――そろそろ本気で動こう」


 そう言って、彼はセラフィーナの手を握り直す。

「君は正しく怒った。それでいい。でも、これからは僕に預けてほしい。セフィは王子の傍にいてやってくれ。君しかできない」


 セラフィーナの胸に熱いものが込み上げる。

 この男は、出世にも野心にも興味がない。ただ、妻を愛し、彼女が守ろうとする子どもを守るためにだけ剣を振るうのだ。


「……ありがとう、オジー」


 オズワルドは小さく肩をすくめ、微笑を深める。

「礼などいらないよ。……君があんな行動をとったんだ。王子はただの凡庸な子供じゃないんだろう? ただ生き延びさせればいい、という話ではなくなった」


 瞳がわずかに光を増す。

「ならば、王子には“駒”としての価値を持たせてやらなくてはね。そうすれば、全てが動き出す。我々も、側妃も」


 セラフィーナは強く頷いた。

「わかっているわ」


 二人の視線が重なり合う。

 緑の離宮の奥――誰も知らぬ場所で、静かな反撃の火が、確かに灯った。

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