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乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
青年期
48/65

48 影の門

 エドワードとアウレリウスが馬車で着いたのは、王都の一角にある大きな屋敷だった。

 表向きにはウルバヌス猊下の私邸とされているが、実際には彼の配下たちの拠点。


 扉をくぐった瞬間、二人は息を呑んだ。

 庭には武装した騎士たち、廊下には密偵らしき者たちが静かに控え、屋敷全体がひとつの巨大な生き物のように沈黙していた。


「ここが……ウルバヌス猊下の本当の顔か」

 アウレリウスが低く呟く。


◇◇◇


 奥の部屋に通されたとき、地図が壁一面に貼られているのが目に入った。

 王都、貴族領、教会都市、辺境――無数の印が打たれ、線で結ばれていた。


 ウルバヌスがゆっくりと現れた。

「殿下、これが我らの目であり耳であり、影の牙だ」


「牙……?」


「王家と教会、貴族と商人、あらゆる力は常に争い、結び、裏切る。王国の秩序は、その均衡の上にかろうじて立っている。均衡が崩れれば、血が流れる」


 ウルバヌスの声は低く、冷たいが不思議な説得力があった。


◇◇◇


 エドワードは地図を見つめ、初めてその重さに圧し潰されそうになった。

 王都の一角に潜む無数の影。誰が味方で、誰が敵なのか。


「猊下は……すべてを操っているのですか?」


「操らぬ。ただ、崩れぬように動かすだけだ。――我らの刃は、均衡を守るために振るわれる」


 エドワードは胸の奥がざわめいた。

 これまで守られてきた世界の外側に、こんな暗い現実が広がっているのか。


◇◇◇


 ウルバヌスはしばしエドワードを見つめ、静かに言った。

「殿下。影の力は毒にも薬にもなる。使い方を誤れば、国を滅ぼし、己をも滅ぼす」


 エドワードは拳を握りしめた。

 守られていた少年としての自分は、もう終わりだ――そんな予感が胸を刺した。


 だが、その恐れの奥に、言葉にできない熱のようなものが生まれ始めていた。


◇◇◇



 ウルバヌスの屋敷を訪れた数日後、エドワードは初めて「影の力」を体験した。

 彼の前に差し出されたのは、宮廷内の動きを事細かに記した文書だった。


「これは……王宮の物資の流れ?」


「いや、ただの在庫管理ではない」

ウルバヌスの声は低く、淡々としていた。

「どの派閥が、どの屋敷に、どれほどの資金と食糧を流しているか――権力の血脈だ」


 エドワードは息を呑んだ。

 一枚の紙に刻まれた数字が、派閥の興隆や衰退、忠誠や裏切りを雄弁に語っている。

 こんなものがあれば、宮廷の力関係を一目で見抜ける。


「殿下が知るべきは、力の裏にある欲望と恐怖だ」

 ウルバヌスはそう言い、鋭い眼差しでエドワードを見た。


◇◇◇


 文書を見終えた後、ウルバヌスはしばし沈黙し、やがて重々しく言葉を落とした。


「殿下。いずれ私は影の外に去る。そのとき、この力を継ぐ者が必要だ」


 エドワードは顔を上げた。


「……まさか、僕に?」


「そうだ。王族の名のもとに権力を監視し、均衡を守れる者が要る。私の後継者として、殿下を育てたい」


 静かな声だったが、部屋の空気が一変したように感じられた。

 エドワードの心臓が強く跳ね、手のひらに汗が滲む。


「僕は……ただ、守られていただけの子どもだ」


「だからこそだ。守られて育った者が、守る側に立つとき、国は強くなる」


 ウルバヌスの言葉は鋭く、重く、否応なくエドワードの胸に突き刺さった。


◇◇◇


 屋敷を出たエドワードは、アウレリウスと共に離宮へと帰る馬車の中にいた。

 だが彼の瞳はどこか焦点が合わず、ぼんやりとしている。


「エド?」

 アウレリウスが心配そうに声をかけても、エドワードは答えなかった。


 頭の中ではウルバヌスの言葉が繰り返されていた。


――後継者として、育てたい。


 離宮の門が見えても、エドワードの胸のざわめきは収まらなかった。

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