38 泥舟の誓い
第一騎士団の訓練施設は、幼い頃に訪れた子供用の訓練場とも、第三騎士団の荒々しい訓練所ともまるで違っていた。
白壁と高窓の広間は整然とし、武人のためでありながら、どこか学問の殿堂にも似た格式を帯びている。
案内役の使用人に導かれ、エドワードたちは視線をせわしなく動かした。
「初めて入りました!」とカールが小声で感嘆し、エドワードの緊張を少し和らげる。
ただ一人、セラフィーナだけは、なぜか慣れた足取りで歩いていた。
指定された部屋に入ると、華奢なテーブルに二脚の椅子が置かれており、その片方にはすでにマクシミリアンが座っていた。
「よく来てくれた」
「兄上、この度はお声がけいただき、ありがとうございます」
背後には取り巻きの少年たちがずらりと並んでいる。
誰も言葉を発さずとも、よそ者を快く思っていないことは空気から伝わる。
カールとセラフィーナは入室を許されず、扉の外に残された。
心細さに、エドワードの胸は強く波打った。
「前置きは苦手だ。さっそく本題に入らせてもらう。――座れ」
アウレリウスに椅子を引かせ、エドワードはおずおずと腰を下ろす。自然に、テーブルから少し距離をとっていた。
マクシミリアンは、深く息を吸い込むと――
「すまなかった」
頭を下げた。
「殿下!」「なんてことを!」
取り巻きから悲鳴にも似た声が上がる。
「黙れ!」
顔を伏せたままの一喝に、場が凍りついた。
あまりの光景に、エドワードは声も出せず固まっていた。
背後でアウレリウスが小さく肩を叩く。
それでやっと我に返り、かすれた声を出した。
「……頭をお上げください、兄上」
「マックス兄上。僕は、何を謝罪されているのか……わかりません」
「そうだな。
知らぬ者はいまい。俺の母はルクレツィア側妃殿下だ。
母上と会うたび、俺は王になれと言われる。
……そして、エド。お前の心を折れと命じられた」
取り巻きの少年たちも、アウレリウスも、息を呑んだ。
簒奪を疑われても仕方のない言葉。
この部屋に大人を入れさせなかったのは、最初からこの話をするためだったのだと、誰もが悟る。
「幼かった俺にとって、母はただ一人の特別だった。
だから疑わなかった。愚かにも、言葉のままに従った。
……俺がしてきた数々の仕打ちを、今ここで謝罪したい。
許しを求めはしない。ただ、俺はもうお前を害さない」
「兄上……」
エドワードの胸の奥に、熱いものがこみ上げる。
マクシミリアンは背後の取り巻きへ体ごと向いた。
「俺はそう決めた。お前たちにも、エドを害することは許さない」
そして、言葉を絞り出すように続ける。
「俺は何かあれば泣き叫び、使用人に手をあげる母を見てきた。
人を害せと容易く口にする――あの人が、汚らわしくて、嫌いだ。
だから俺はもう従わない。俺は俺の矜持をもって生きる」
湿った夏の終わりの風が、熱を帯びた部屋に流れ込み、少年たちの頬を撫でた。
「……兄上の謝罪を受け入れます」
エドワードの答えに、マクシミリアンは顔を覆うように手をあて、長い溜息を吐いた。
「感謝する」
立ち上がり、取り巻きの少年たちに向き合う。
「お前たちには決めてもらいたい。俺に従うか、母上につくか。
俺たちはまだ未成年だ。親に相談する必要もあるだろう。
だから今日は解散だ。もしまた俺のもとに来てくれるなら、喜んで迎え入れる。
去る者を決して責めはしない。母上の方が強き舟だろう。俺は泥舟かもしれん。
だが俺は、俺の舟を選ぶ」
そう言い切った後ろ姿には、厳しい武人の風格と、王族の矜持が宿っていた。
◇◇◇
取り巻きの少年たちが去り、部屋には三人だけが残った。
広い空間が、急に静かすぎるほどに感じられる。
「一人くらい、戻ってきてくれたらありがたいな」
マクシミリアンは苦く笑った。
「エド」
「はい」
「お前は、頭がいい。
ウルバヌス猊下の講義でのお前の発言は、目を見張るものがある。
だが、お前は謙虚すぎる。もっと胸を張れ。
この名前負け侍従も有能だし、俺も認めている。
お前は必ず大成する」
(な、名前負け侍従……!?)
エドワードとアウレリウスが、同時に肩を震わせた。
「……そうでしょうか」
戸惑うようにエドワードが呟く。
マクシミリアンは、拳を膝の上で固く握った。
「俺は、騎士になりたい。
騎士となって、コンスタンティン兄上とお前の盾となり、剣となりたい。
だが、王族であるという壁が……それでも俺は、やっぱり騎士になりたい!」
「その意気やよし!」
勢いよく扉が開き、セラフィーナが仁王立ちした。
その背後で、カールが「申し訳ありません」と小声で謝っている。
「王族であろうと関係ありません! 入団試験を受けてしまえばよろしい!
保証人のサインが必要なのでしょう?
わたくしでは不都合でしょうから、ウルバヌス猊下か、あるいは夫を通じて宰相閣下にお願いすればよいのです!」
一瞬、場が凍った。
だが、エドワードやカールが「そんな無茶を……」とマクシミリアンを見た時、
彼は震える声で呟いた。
「……そうか。本当に、受けてもいいのか」
王族が騎士団に入ることを禁じる法はない。だがそれは、危険と責務の道だ。
それでも――マクシミリアンの目は揺らいでいなかった。
「乳母殿。あなたの夫であるリリエンタール伯爵を紹介してもらえるか」
「ええ、喜んで」
「恩にきる」
エドワードも立ち上がり、深く一礼した。
「兄上の覚悟を知ることができて、嬉しかったです」
「ああ。また会おう」
エドワードとアウレリウスが退出し、セラフィーナだけが一礼を残す。
顔を上げた彼女の口元には、不敵な笑み。
マクシミリアンもふっと口角を上げた。
セラフィーナが颯爽と部屋を出ていく。
その背に、マクシミリアンは大きな身体を折り、腰を深々と九十度に曲げた。
――入れ違うように駆けつけてきたのは、ナニーのマーサだった。
「坊ちゃま!」
折れたままの背に手を添えると、ぽたりと大粒の水滴が床に落ちる。
気丈な彼が、どれほど悩み、苦しんできたか。
今日の決断に、どれほどの勇気を要したか。
震える大きな背中は、マーサの目には小さな子供のように映った。
「坊ちゃま……よく頑張りましたね。
わたくしは、どんな道を選ばれてもついていきます。
ずっとおそばにおりますからね」
「……マーサ……」
二人の嗚咽が重なり、訓練施設の一角に、静かな涙の音が響いていた。




