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乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
少年期
38/65

38 泥舟の誓い

 第一騎士団の訓練施設は、幼い頃に訪れた子供用の訓練場とも、第三騎士団の荒々しい訓練所ともまるで違っていた。

 白壁と高窓の広間は整然とし、武人のためでありながら、どこか学問の殿堂にも似た格式を帯びている。


 案内役の使用人に導かれ、エドワードたちは視線をせわしなく動かした。

 「初めて入りました!」とカールが小声で感嘆し、エドワードの緊張を少し和らげる。

 ただ一人、セラフィーナだけは、なぜか慣れた足取りで歩いていた。


 指定された部屋に入ると、華奢なテーブルに二脚の椅子が置かれており、その片方にはすでにマクシミリアンが座っていた。

「よく来てくれた」

「兄上、この度はお声がけいただき、ありがとうございます」


 背後には取り巻きの少年たちがずらりと並んでいる。

 誰も言葉を発さずとも、よそ者を快く思っていないことは空気から伝わる。

 カールとセラフィーナは入室を許されず、扉の外に残された。

 心細さに、エドワードの胸は強く波打った。


「前置きは苦手だ。さっそく本題に入らせてもらう。――座れ」


 アウレリウスに椅子を引かせ、エドワードはおずおずと腰を下ろす。自然に、テーブルから少し距離をとっていた。


 マクシミリアンは、深く息を吸い込むと――

「すまなかった」


 頭を下げた。


「殿下!」「なんてことを!」

 取り巻きから悲鳴にも似た声が上がる。


「黙れ!」

 顔を伏せたままの一喝に、場が凍りついた。


 あまりの光景に、エドワードは声も出せず固まっていた。

 背後でアウレリウスが小さく肩を叩く。

 それでやっと我に返り、かすれた声を出した。

「……頭をお上げください、兄上」


「マックス兄上。僕は、何を謝罪されているのか……わかりません」


「そうだな。

知らぬ者はいまい。俺の母はルクレツィア側妃殿下だ。

母上と会うたび、俺は王になれと言われる。

……そして、エド。お前の心を折れと命じられた」


 取り巻きの少年たちも、アウレリウスも、息を呑んだ。

 簒奪を疑われても仕方のない言葉。

 この部屋に大人を入れさせなかったのは、最初からこの話をするためだったのだと、誰もが悟る。


「幼かった俺にとって、母はただ一人の特別だった。

だから疑わなかった。愚かにも、言葉のままに従った。

……俺がしてきた数々の仕打ちを、今ここで謝罪したい。

許しを求めはしない。ただ、俺はもうお前を害さない」


「兄上……」

 エドワードの胸の奥に、熱いものがこみ上げる。


 マクシミリアンは背後の取り巻きへ体ごと向いた。

「俺はそう決めた。お前たちにも、エドを害することは許さない」


 そして、言葉を絞り出すように続ける。

「俺は何かあれば泣き叫び、使用人に手をあげる母を見てきた。

人を害せと容易く口にする――あの人が、汚らわしくて、嫌いだ。

だから俺はもう従わない。俺は俺の矜持をもって生きる」


 湿った夏の終わりの風が、熱を帯びた部屋に流れ込み、少年たちの頬を撫でた。


「……兄上の謝罪を受け入れます」


 エドワードの答えに、マクシミリアンは顔を覆うように手をあて、長い溜息を吐いた。

「感謝する」


 立ち上がり、取り巻きの少年たちに向き合う。

「お前たちには決めてもらいたい。俺に従うか、母上につくか。

 俺たちはまだ未成年だ。親に相談する必要もあるだろう。

 だから今日は解散だ。もしまた俺のもとに来てくれるなら、喜んで迎え入れる。

 去る者を決して責めはしない。母上の方が強き舟だろう。俺は泥舟かもしれん。

 だが俺は、俺の舟を選ぶ」


 そう言い切った後ろ姿には、厳しい武人の風格と、王族の矜持が宿っていた。


◇◇◇


 取り巻きの少年たちが去り、部屋には三人だけが残った。

 広い空間が、急に静かすぎるほどに感じられる。


「一人くらい、戻ってきてくれたらありがたいな」

 マクシミリアンは苦く笑った。


「エド」

「はい」


「お前は、頭がいい。

 ウルバヌス猊下の講義でのお前の発言は、目を見張るものがある。

 だが、お前は謙虚すぎる。もっと胸を張れ。

 この名前負け侍従も有能だし、俺も認めている。

お前は必ず大成する」


(な、名前負け侍従……!?)

エドワードとアウレリウスが、同時に肩を震わせた。


「……そうでしょうか」

 戸惑うようにエドワードが呟く。


 マクシミリアンは、拳を膝の上で固く握った。

「俺は、騎士になりたい。

 騎士となって、コンスタンティン兄上とお前の盾となり、剣となりたい。

 だが、王族であるという壁が……それでも俺は、やっぱり騎士になりたい!」


「その意気やよし!」


 勢いよく扉が開き、セラフィーナが仁王立ちした。

 その背後で、カールが「申し訳ありません」と小声で謝っている。


「王族であろうと関係ありません! 入団試験を受けてしまえばよろしい!

 保証人のサインが必要なのでしょう?

 わたくしでは不都合でしょうから、ウルバヌス猊下か、あるいは夫を通じて宰相閣下にお願いすればよいのです!」


 一瞬、場が凍った。

 だが、エドワードやカールが「そんな無茶を……」とマクシミリアンを見た時、

 彼は震える声で呟いた。


「……そうか。本当に、受けてもいいのか」


 王族が騎士団に入ることを禁じる法はない。だがそれは、危険と責務の道だ。

 それでも――マクシミリアンの目は揺らいでいなかった。


「乳母殿。あなたの夫であるリリエンタール伯爵を紹介してもらえるか」

「ええ、喜んで」

「恩にきる」


 エドワードも立ち上がり、深く一礼した。

「兄上の覚悟を知ることができて、嬉しかったです」

「ああ。また会おう」


 エドワードとアウレリウスが退出し、セラフィーナだけが一礼を残す。

 顔を上げた彼女の口元には、不敵な笑み。

 マクシミリアンもふっと口角を上げた。

 セラフィーナが颯爽と部屋を出ていく。


 その背に、マクシミリアンは大きな身体を折り、腰を深々と九十度に曲げた。


――入れ違うように駆けつけてきたのは、ナニーのマーサだった。

「坊ちゃま!」


 折れたままの背に手を添えると、ぽたりと大粒の水滴が床に落ちる。

 気丈な彼が、どれほど悩み、苦しんできたか。

今日の決断に、どれほどの勇気を要したか。


 震える大きな背中は、マーサの目には小さな子供のように映った。


「坊ちゃま……よく頑張りましたね。

わたくしは、どんな道を選ばれてもついていきます。

ずっとおそばにおりますからね」


「……マーサ……」


 二人の嗚咽が重なり、訓練施設の一角に、静かな涙の音が響いていた。

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