表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
少年期
36/65

36 老司祭の眼差し

知識の塔 馬車乗り場


 トーマス・ウルバヌス老司祭は、知識の塔の講義室を離れると、助祭の青年を一人伴い、小さな馬車に乗り込んだ。

「よろしくお願いします」

 青年が御者に声をかけると、馬車はゆっくりと走り出した。老司祭の身体に負担をかけぬよう、いつも決まって緩やかな歩調である。


「いつも手を煩わせてすまないな」

 掠れながらも張りのある声は、狭い車内に響いた。

「いえ。猊下のおそばで学びを得られることは、私にとっても得難い経験です」

「……連中はどうだ」

「猊下がいなくて暇してますよ」

 喉の奥で、老司祭が笑う。


 教会連は、一枚岩ではなかった。


 教皇の下に七人の大司祭。ウルバヌスもかつてその一人であった。

 だが若き日の彼は潔癖にすぎた。清濁合わせ呑まねば人は統率できぬ――その現実に苦しみながらも、彼は教皇に見出され、世代交代の旗印として高位に引き上げられた。

 その背に集ったのは、志ある若い司祭たち、そして教会外の新進貴族や官僚たち。


 荷が重いことは承知していた。

 それでも教皇に求められるまま、数十年を奮闘で費やした。

 年を重ね、彼自身もかつての潔癖を維持できたわけではない。だが、教会連内に風は通い始めていた。


――あの事件までは。


 次期教皇選。教皇はウルバヌスを推挙した。

 だが、直後に教皇は暗殺された。

ある貴族が「犯人はウルバヌスだ」と吹聴し、老司祭はほんの数日とはいえ牢に入れられた。

 大司祭のほとんどが「ウルバヌスではあり得ぬ」と抗ったが、権勢に縋る貴族の力には抗えなかった。


 真相はあまりにも稚拙だった。

 没落寸前の一貴族が、国王に取り入るため「ウルバヌスは口うるさい」と漏らした王の言葉を真に受け、教皇暗殺を仕組んだのだ。

 それがいい歳をした大人の企てかと思うと、もはや怒りよりも空しさが勝った。


 遅ればせながら老司祭を牢から解放したのは、王の正妃――今の王太后である。


 疲れ果てたウルバヌスは教会連を辞することを望んだ。だが新教皇はそれを許さず、代わりに「元老司祭」という新たな肩書を与え、自由な活動を許した。

 事実上、教会連・貴族会・王族を監視する第三の機関――影の公安“第三者監察院”が誕生したのである。


◇◇◇


 馬車は宮殿へ着き、本殿の宰相室。

 扉を開け、オズワルドが老司祭を迎える。


「猊下、本日も講義、ありがとうございました」


 この男は知っている。

 ウルバヌスの組織の正体を。

 それを知るのは、教皇と王太后、宰相、そしてオズワルドだけ。


 ウルバヌスはその眼を見た。

 相変わらず、正体の掴めぬ男だ――と。


◇◇◇


 宰相室を辞し、老司祭は再び馬車に揺られていた。

 窓外に広がる庭園には、若い影が二つ並んでいる。

 背丈も声もまだ未熟だが、互いに言葉を交わすたびに、影が少しずつ重なっていく。


「……エドワード殿下と、マクシミリアン殿下か」


 声を潜めて助祭が呟くと、ウルバヌスは小さく頷いた。

 第三王子と、側妃筋の王子。

 交わるはずのなかった二人が、同じ時間を共有している。


 「大人たちが、血と権力にまみれ、互いを陥れ合う間に……子らは自然に歩み寄る」

 ウルバヌスの目尻に、深い皺が刻まれる。

「それがどれほど尊いことか、彼ら自身はまだ知らぬのだろう」


 夕暮れの光に照らされた二人の影は、長く伸びて交わっていた。

 それは、かつて自分が守れなかった未来の象徴のようでもあった。


「……愚かな我らの時代で、せめて芽吹いた若木を枯らさぬように。

この老骨にできることがあるのなら、最後まで力を尽くそう」


 馬車の中で、老司祭の拳が膝の上で固く握られていた。

 それを若い助祭は見たが、何も言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ