36 老司祭の眼差し
知識の塔 馬車乗り場
トーマス・ウルバヌス老司祭は、知識の塔の講義室を離れると、助祭の青年を一人伴い、小さな馬車に乗り込んだ。
「よろしくお願いします」
青年が御者に声をかけると、馬車はゆっくりと走り出した。老司祭の身体に負担をかけぬよう、いつも決まって緩やかな歩調である。
「いつも手を煩わせてすまないな」
掠れながらも張りのある声は、狭い車内に響いた。
「いえ。猊下のおそばで学びを得られることは、私にとっても得難い経験です」
「……連中はどうだ」
「猊下がいなくて暇してますよ」
喉の奥で、老司祭が笑う。
教会連は、一枚岩ではなかった。
教皇の下に七人の大司祭。ウルバヌスもかつてその一人であった。
だが若き日の彼は潔癖にすぎた。清濁合わせ呑まねば人は統率できぬ――その現実に苦しみながらも、彼は教皇に見出され、世代交代の旗印として高位に引き上げられた。
その背に集ったのは、志ある若い司祭たち、そして教会外の新進貴族や官僚たち。
荷が重いことは承知していた。
それでも教皇に求められるまま、数十年を奮闘で費やした。
年を重ね、彼自身もかつての潔癖を維持できたわけではない。だが、教会連内に風は通い始めていた。
――あの事件までは。
次期教皇選。教皇はウルバヌスを推挙した。
だが、直後に教皇は暗殺された。
ある貴族が「犯人はウルバヌスだ」と吹聴し、老司祭はほんの数日とはいえ牢に入れられた。
大司祭のほとんどが「ウルバヌスではあり得ぬ」と抗ったが、権勢に縋る貴族の力には抗えなかった。
真相はあまりにも稚拙だった。
没落寸前の一貴族が、国王に取り入るため「ウルバヌスは口うるさい」と漏らした王の言葉を真に受け、教皇暗殺を仕組んだのだ。
それがいい歳をした大人の企てかと思うと、もはや怒りよりも空しさが勝った。
遅ればせながら老司祭を牢から解放したのは、王の正妃――今の王太后である。
疲れ果てたウルバヌスは教会連を辞することを望んだ。だが新教皇はそれを許さず、代わりに「元老司祭」という新たな肩書を与え、自由な活動を許した。
事実上、教会連・貴族会・王族を監視する第三の機関――影の公安“第三者監察院”が誕生したのである。
◇◇◇
馬車は宮殿へ着き、本殿の宰相室。
扉を開け、オズワルドが老司祭を迎える。
「猊下、本日も講義、ありがとうございました」
この男は知っている。
ウルバヌスの組織の正体を。
それを知るのは、教皇と王太后、宰相、そしてオズワルドだけ。
ウルバヌスはその眼を見た。
相変わらず、正体の掴めぬ男だ――と。
◇◇◇
宰相室を辞し、老司祭は再び馬車に揺られていた。
窓外に広がる庭園には、若い影が二つ並んでいる。
背丈も声もまだ未熟だが、互いに言葉を交わすたびに、影が少しずつ重なっていく。
「……エドワード殿下と、マクシミリアン殿下か」
声を潜めて助祭が呟くと、ウルバヌスは小さく頷いた。
第三王子と、側妃筋の王子。
交わるはずのなかった二人が、同じ時間を共有している。
「大人たちが、血と権力にまみれ、互いを陥れ合う間に……子らは自然に歩み寄る」
ウルバヌスの目尻に、深い皺が刻まれる。
「それがどれほど尊いことか、彼ら自身はまだ知らぬのだろう」
夕暮れの光に照らされた二人の影は、長く伸びて交わっていた。
それは、かつて自分が守れなかった未来の象徴のようでもあった。
「……愚かな我らの時代で、せめて芽吹いた若木を枯らさぬように。
この老骨にできることがあるのなら、最後まで力を尽くそう」
馬車の中で、老司祭の拳が膝の上で固く握られていた。
それを若い助祭は見たが、何も言わなかった。




